13.沙陽
『日世界にて魂を成熟させよ。命尽きるそのとき、そなたを月人として迎え入れよう――』
意識が覚醒する。
「ん・・・」
怪我の所為かまだ頭はぼうっとしていたが、転生は無事成功したようだった。
「さよ?・・・さよ!!」
甲高い声が耳に飛び込んできて、翼羽は思わず目を開けた。
ここはどこだろう。ぼんやりそんなことを考えていると、開いた視界に女性の顔が飛び込んでくる。
「さよ、私が分かる?分かるわよね!?」
沙陽というのは確か、この身体の持ち主の名前だったはずだ。しかしこの人物は一体・・・。
「・・・誰?」
「なんて・・・なんてこと」
その女性は膝から崩れ落ちたが、翼羽はそれに戸惑うことすらできなかった。
爽空は月世界の身体に僅かに意識を残している分転生が不完全だったようで、それまでの記憶を全て失っていた。誰も理解者がいない中を独り生きていかなければならないことはひどく心細かったが、爽空のことを思えば今のままにしておく方がいい。それに、記憶を失っていても爽空は爽空だった。
翼羽は自らも記憶を失ったことにした。実際、器の少女たちが過ごしてきた十年間のことは何一つ知らないので疑われるようなこともない。まるで小さな子供のように、翼羽と爽空――沙陽と沙月は日世界のことを少しずつ学んでいった。
○
幼いうちに母を失くしたため、翼羽は母親というものをちゃんと認識したことがなかった。
「――生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう」
こちらに来て初めての誕生日がやってきたとき、母はそうして涙を流した。沙月が頷いて沙陽も表面上は頷くが、しかし内心はそれをどこか遠くから眺めていた。
――あなたの本当の娘たちは一年前に死んでしまっているのに。私たちは別の世界の偽者でしかないのに。
本来ならそれは死んだ双子に向けられるはずの愛情で、自分が受け取るべきものではない。この愛は本当の愛ではないのだ。
「来年もきっと、またこうして一緒に過ごしましょうね」
一年前、この女性は二人の娘を失うはずだった。しかしその運命は翼羽たちの都合によって捻じ曲げられ、彼女は再び娘たちと生きる機会を得た。例え仮初めだったとしても、この女性にとっては確かな“奇跡”だ。
器である“沙陽”という少女はどんな存在だったのだろう、と初めて考えた。いつかはこの身体にも終わりが来る。それならばせめて束の間のこのひとときだけは、この人の娘として生きよう。失われた双子の代わりになろう。
幼い頃のアルバム、日付が飛び飛びの日記、そして母や友人の話――それらを総合して、翼羽は“沙陽”という一人の人格を構成した。それはもちろん正確ではないし不完全だったが、記憶喪失であるという前提がその違和感をやわらげてくれるはずだ。
翼羽は“沙陽”という少女を演じはじめた。
○
遠足の日が間近に迫っていた。
「わー、どうしよう楽しみすぎて眠れないかも」
最初の内こそ戸惑いもあったが、今では自然と“沙陽”らしい思考が出るようになっていた。どちらが本当か時折分からないくらいに、それは翼羽の中でしっくりと来ていた。
「お願いだから寝て。出来たら今すぐに寝て」
読書中の沙月が少々鬱陶しそうに言う。栗色の短い髪と瞳、器の双子は外見こそ瓜二つだが、中身は正反対であったらしい。元々インドア派である爽空は演技しなくても“沙月”として違和感がないようだった。
「・・・あ、だったらさあ、“よく眠れるおまじない”してくれない?昔よくやってくれたじゃん」
幼い頃の記憶。一人で眠るのが怖いとき、爽空はよく翼羽の頭を撫でてくれたものだった。
「知らない。ねえ、それいつ頃の話?」
しかし沙月は首を振り、はっと気付く。
違う、これは月世界での記憶だ。今の沙月がそれを覚えているはずがない。
「ごめん、あたしの勘違いだった」
あまりにも違和感がなさ過ぎて、翼羽はしばしばこうして記憶が混乱することがあった。だって爽空はあの頃のままで、“沙陽”は幼い頃の自分にどこか似ている。
「――ねえ、そのおまじないってどんなの?」
「え?」
「それをすると眠れるんでしょ?だったらやってあげる」
沙月はそう言うと早速こちらのベッドへ移ってくる。
「うーん、なんかあらためてやるとなるとテレるね~」
何せ3歳くらいの頃の話だ。16歳にもなって同じことをするとなると自分がひどく子供になった気分になる。
電気を消してもらってベッドに横になる。
「・・・頭、なでてほしいんだ」
「え、それだけ?」
沙月は拍子抜けしたように目をぱちくりさせたが、そのまま言う通りにしてくれる。
「どう、眠れそう?」
「うん。なんかね・・・こうしてるとすごく、ほっとするんだ・・・」
母親のいなかった翼羽にとってその穴を埋める存在となったのは結羽であり、修であり、爽空だった。普段は姉ぶって爽空や修に対して大きな態度をとる翼羽だったが、肝心なところではいつもふたりに甘えていた。幼い頃は特にそれが顕著だったのを覚えている。
そうしているうちに沙月の方が眠ってしまったようだった。こういうところは相変わらずだ。翼羽にとっての爽空がそうであるように、爽空にとっての翼羽もまた姉のような存在だった。互いに甘えたいときに甘え、頼るべきときには頼る。世界が変わっても、翼羽が自分を偽っても、ふたりの関係に大きな変化はなかった。
思えばふたりは、転生する前から“双子”のように生まれていたのかもしれなかった。
翌朝、目的地の河原へ向かう。クラスの違う沙月とはバスが分かれてしまったが、それでもクラスの友達といるのはそれなりに楽しいので構わない。その地位ゆえに爽空くらいしか友人のなかった翼羽にとって、同年代の少女たちに囲まれることはひどく新鮮だった。
「さよち~ん」
通路の向こうの席で佐田が手招きする。
「んー?」
「ポッキー食おうぜ、ポッキー。てかさよちんお菓子もってないん?」
「クッキーはあるけどリュックの中なんだよね~。出すのめんどくさい」
「んじゃ、これあげるよ」
「ありがとー」
それにしても、と翼羽は差し出されたスティック状のお菓子を見つめる。
「・・・ん?どったのさよちん?」
「これ食べたことないなぁっておもって」
「はいぃ!?ポッキー食べたことないん?まじで!?」
驚いたような顔をされるが、実際これはCMで見て知っているだけで食べたことはない。
「じゃあ今まで何を食べて生きてきたのさ!?」
「ママが作ってくれたおやつをテキトーに」
「え、さよママお菓子作れんの?」
「うん。誕生日とかケーキ焼いてくれるよ~」
「すっげー!!うちの母さん普通の料理すらダメなのに」
佐田は興奮状態のままお菓子の箱を押し付けてくる。
「しかしそれはもったいないことをしているぜさよちん!これ食べな、全部あげるから!!」
「え、ほんと?」
箱ごともらってしまっていいのだろうか、と思いながらも喜んで受け取ると、佐田が突然ばっと両手を上げる。
「みんな、オラに力を分けてくれ!!」
その瞬間、周りの席から一斉に人が押し寄せてきた。
「よし来た、俺のじゃがりこサラダ味をやるぜ!」
「わたしもポッキーだよ~、沙陽っち苺好き~?」
「僕のプリッツいる?」
膝の上に菓子箱の山が出来上がっていく。
「こんなにいらないんだけど・・・」
「何言ってんのさよちん!!」
困り果てていると佐田にがしっ、と肩を掴まれる。
「スティック菓子にはね、無限の可能性が秘められているんだよ・・・!!」
「無限の・・・可能性?」
「そう!こんな細い棒の中に、たくさんの夢が詰まっているんだよ!!」
「へ、へぇ・・・」
よく分からない。分からないが何か凄そうな感じはする。
「とにかく食べてみて!話はそれからだよ、さよちん」
「あ、ありがとー・・・」
とてもではないが一人で食べきれる量ではない。あとで沙月と分けよう、と思いながら翼羽は密かに溜息を吐いた。
いよいよメインの川下りが始まった。担任がすっと立ち上がる。
「準備が出来たようなので移動しますよ。はーい、皆付いてきて~」
その声で皆だるそうに立ち上がり、今にもスキップし始めそうな三十路手前の独身女教師のあとをぞろぞろと付いていく。このクラスは元々行事にあまり積極的ではなく、総合学習の単位のために仕方なく来ている生徒がほとんどだ。担任のテンションが異様に高いのもまた、生徒が一歩引いてしまう理由だろう。
翼羽も“沙陽”としては川下りを楽しみにしていたが、こんなことをして何が面白いのだろうかというのが正直なところだ。これなら昼食のバーベキューの方が断然盛り上がるというものだろう。
しかし、その予想はボートに乗り込んでから一変することになる。
「――動きますよ~、準備はいいですか?」
「はーい、オッケーでぇ~す!」
返事だけは若い担任が元気よく手を上げる。
「お、お~・・・」
前の方に座っている冴えない男子3人組も頼りない返事をしたが、他の面々はだらだらと駄弁っているだけだ。しかしそんなことはお構いなしとでも言わんばかりにボートは動き出す。
「わ、びっくりした」
「おー、大丈夫さよちん?」
思わず声を上げると、隣に座る佐田が顔を覗きこんできた。
「うん。結構ゆれるんだね~これ」
「そうだね。でも今はまだ流れ緩い方みたいだよ?さっきおじさんが言ってた」
反対隣の西野が教えてくれる。駄弁りながらも話に耳を傾けてはいるらしい。翼羽も船頭の声に耳を澄ましてみる。
「少し進むとちょっとした岩場がありまして、そこが一番危険です。直前になったら教えますから、ちゃんと聞いてくださいね~」
「はぁ~い!」
元気に応えたのはもちろん担任だけだったが、“危険”というワードに反応したのか皆も少しざわつき出す。
「岩場かぁ・・・大丈夫だったかな、沙月」
「さっつんがどうかした?」
「多分ものすごくこわがっただろーなって」
恐怖のあまり狂ったように暴れたか、あるいは思考停止して硬直したか。何にせよ無事ではないだろう。
「さっつんって水苦手な感じ?」
佐田が首を傾げ、翼羽は頷いた。
「うん、昔からね」
沙月のクラスは先に出発したが、彼女のトラウマを思うとこれは拷問だろう。川に落ちた時の記憶を失っているとはいえ、沙月は未だに泳げないままなのだ。こちらでのプールの授業が苦手意識に拍車をかけたにしても、どうも水に好かれない性質らしい。
「そろそろ岩場に入りますよ~」
その声にはっとした瞬間、視界が大きく揺れた。
「きゃっ!?」
「うぉっ!?」
「おーう、来た来たぁ!!」
驚く翼羽と西野に対して、佐田は経験があるのか大笑いしている。
「いいやっほぉぉぉおおう!!」
完全に絶叫アトラクションのテンションだが、そんな佐田を見ているうちに翼羽もだんだん楽しくなってきた。時折ボートがふわりと浮くのが何とも堪らない。気が付くと佐田と一緒になって大笑いしていた。
やがて流れが緩やかになり、ボートの速度が元に戻る。
「――楽しかった~」
両手を後ろについて空を仰ぐと、佐田がその顔を覗きこんでくる。
「さよちんめっちゃ叫んでたね~。それよりも西野さん、聞きまして?」
「聞きましたわよ、佐田さん?」
佐田と西野はわざとらしい口調でなにやらにやにやと顔を見合わせる。
「なに?」
首を傾げてみせると、佐田はわき腹を肘で小突いてきた。
「覚えてないのか~、さよちんさっき『きゃっ!?』って言ったんだぜ、『きゃっ!?』って」
「へ?」
「や~、さよちんも中身は乙女なんだね。びっくりしたぜもう」
「私なんか普通に『うぉっ!?』とか言っちゃったよ~。女子力足りないね、やっぱり」
無意識のうちに素が出ていたらしい。
「しっつれいだな~二人とも。あたしだって女の子なんだよ?」
「まさかの“女の子”発言!!あのさよちんが!?」
「ちょっと待って、もしかしてバカにしてる?」
いやいや、と佐田は笑って誤魔化す。西野もくすくすと笑っていた。
そうこうしているうちにボートは止まり、最後に船頭が声を掛ける。
「今日はここまでで終わりですが、少し下流に行くと見晴らしのいい開けた場所に出ます。星がすごく綺麗に見えるので、興味のある方は個人で是非行ってみてくださいね」
聞き覚えのある言葉に一瞬動きを止める。
「見晴らしのいい・・・川」
「どったの、さよちん?」
「・・・いや。なんでもない」
今は必要のないことだ。そう思っても川の深さと濁りの有無を確認してしまっている自分がいる。
「早く降りよう?これからバーベキューだよ」
西野に背中を押され、翼羽は後ろ髪を引かれながらも川を離れた。




