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月人  作者:
10/17

10.月の雫

――翼羽は結羽に、月の加護を与えた。


「翼羽・・・!」

「ええ」

翼羽の瞳から涙が零れ落ちる。爽空も頬に涙が伝うのを感じた。

白かった結羽の頬が少し赤くなり、苦しそうだった寝息も安らかになっていく。

間違いなく、成功だった。やっと彼女を苦しみから救えたのだ。

「・・・ねえ、爽空」

「何?」

「・・・私、言っていなかったことがあるの」

「翼羽・・・?」

いつになく真剣な口調に身構えると、窓から目映い光が差し込んだ。

「『月の雫を最後の一滴まで使い切ったとき、その者は月人として月詠命に仕える使命を課せられる』・・・あの本には、そう書いてあったの。――どうやら、迎えが来たみたいね」

「え・・・?」

何を言っているのか、すぐには理解できなかった。

「魂を命様に捧げるのよ。月人は輪廻の輪から外れて・・・その後永久に、転生することが出来なくなる」

翼羽は微笑んだ。

「――つまり、私は死ぬってこと」

瞬間、その背中から再び真っ白な翼が生えた。

「翼羽・・・!?」

「ごめんね、爽空。私はもう、行かなくちゃ・・・」

小柄な体躯には不釣合いな大きい翼を羽ばたかせて、翼羽は窓の外へ飛び出した。そして真っ直ぐ、目が眩むほどの光を放つ月へと飛翔する。

「待って、翼羽――」

立っていられないほど強く吹き上げる風によろめきながら、虚しくその手を伸ばす。

分かっている。もう、この手が彼女に触れることはない。

それでも。

『――止まれ』

突然、鋭い声が響いた。はっとしたように翼羽が空中に静止する。

『御霊を捧げたのは月明翼羽、そなたか』

こうなることが分かっていたのか、務めて冷静に答える。

「はい、私が」

それを聞いて彼――月詠命は言い放った。

『そなたを月人にすることは出来ない』

翼羽は目を見開く。

「な、なぜですか!私は・・・」

『いや、語弊があるな。月人にすることは、出来る。しかしその役目を果たせるほど、そなたの魂は成長していないのだ』

対価としては不足だ。彼が言いたいのはそういうことらしい。

「では、どうすれば・・・」

月の雫は使ってしまった。対価は払わなくてはならない。

元に戻ろうにも、翼羽の身体はもう捧げられてしまっている。


「――では、私が参りましょう」


凛、とよく通る声が響いた。その声は紛れもなく――

「仁さん!?」

いつもと全く変わらない穏やかな微笑みを湛えて、仁は月光の下に立っていた。

「仁・・・あなた、何を言って・・・」

「翼羽様。あなたをお守りするのが私の役目です。ですからどうか、職務を全うさせていただけませんか」

「でも・・・」

「私がここで何もしなければ不肖の――いえ、自慢の息子に示しがつきません」

仁は屋敷の方を振り返って言った。

「それに・・・ずっと昔に約束しましたから」

茶色い瞳と金色の瞳が交差する。

ふたりはしばらくじっと見つめ合って、やがて翼羽はそっと微笑んだ。

「・・・行って来なさい、仁」

「はい。ありがとうございます」

「仁さん・・・」

ふたりの間に何があったのかは分からなかったが、確かな“絆”が見えた気がした。

仁はその背に生えた翼で夜空へ舞い上がり、月の向こうへと消えていく。

「・・・どうか、無事に出会えますように」

ぽつりと翼羽が呟く。

仁の姿が見えなくなった。

『――月明翼羽』

「・・・はい」

『そなたの肉体はもう戻らない。だからこれから――日世界へ転生させる』

爽空は耳を疑った。日世界とは、結羽の言っていたあの世界のことだろうか。

『もっとも、予定外の事態ゆえ正当な転生にはならない。構わないな?』

「・・・仰せのままに」

「待って翼羽!!一体どこに・・・」

「・・・大丈夫よ、爽空」

伸ばした手の先で、翼羽は微笑んだ。


「――私はいつだって、あなたのそばにいるから」


そう言って、翼羽は――。


●●●


「――思い出してしまったのね・・・」

そうだ、彼女の名は・・・。

「一体、どうなってるの・・・?」

沙月は呆然と立ち尽くした。

「お嬢、どうなさったんですか?お嬢!」

心配そうに覗き込んでくる海色の瞳。

「何で、忘れてたんだろう・・・・?」

抱きかかえられた姿勢のまま修の白い頬に指で触れる。

今でもこんなに愛しさがこみ上げてくるのに、どうして忘れていられたのだろう。

「どういうことなの、翼羽・・・?」

再び窓の外に視線を戻すと、その先にいた彼女は哀しげな笑みを浮かべた。

「私は日世界に転生したの。そしてあなたは・・・それに巻き込まれた」

事故で死んだ双子の身体に入り込み、日世界の人間として転生する。それが月詠命の行った措置だった。本来であれば翼羽のみが転生するはずだったが、器となる少女たちがそれを良としなかったのだ。


『あたしだけ助かるなんて、やだよ。それなら沙月を生き返らせて』

『わたしもそんなの嫌。沙陽を助けて』

双子は互いに譲らなかった。器を変えるべきかとも命は考えたが、爽空はそれを止めた。

「――わたしが一緒に行くから。だから、二人を助けて・・・」

“望月爽空”としての身体を残して彼女は日世界に転生し――“鈴村沙月”として生き延びた。もともと死にかけていた身体であるが故に長くは生きられない。日世界での生涯を終え次第すぐに月世界に送り元の身体に戻す、そういう約束が交わされていたのだ。


「ちょっと待って。わたしはまだ死んでなんか・・・」

そこで沙月ははっとした。

「まさか川に流されて・・・?」

「ううん。沙月の身体はちゃんと残ってるよ。あたしのは・・・また捧げちゃったけど」

金色の髪と瞳をしているが、申し訳なさそうに笑うその表情は確かに沙陽のものだった。

しかし、それならば尚更分からない。沙月は混乱する頭を必死で抑える。

「儀式をしたから、翼羽は月詠命様の元へ送られてきた――そういう、ことなんでしょ?」

「ええ、そうね」

翼羽は頷く。

「ならわたしは、どうして戻って来られたの?わたしには記憶がなかったのに」

おそらく沙陽は記憶を持ったままだったのだろう、ということは何となく分かり始めていた。沙陽が何らかの理由で月世界に戻りたいと願ったとしても、沙月の方にそんな意思があるはずもない。

「さあ・・・それは、分からない」

翼羽は首を振る。

「ただ、一緒に戻って来たということはあるはずなのよ――それを可能にするだけの、確かな理由が」

「・・・ねえ。それならあなたがここに戻りたかった理由は一体、何?」

沙陽としての身体を捨ててまで、月世界に戻ってきた理由は。

「わたしにあったのなら、翼羽にもあるんでしょ?命を捧げるだけの理由が」

「・・・それは」

「教えてよ。一体何のために・・・ここまでして」

しかし翼羽は、固く口を結ぶと再び大きな翼を広げた。

「ごめんなさい・・・あなたにはまだ、言えないの」

そうして、月の向こうへ――夜空の彼方へと()び去っていく。

「翼羽!!」

「駄目ですお嬢!!」

窓から身を乗り出し必死に手を伸ばすが、押さえ込まれて身動きが取れない。

「離してよ!!」

「お嬢!!」

頬に鋭い衝撃が走る。呆然として見上げると、修は沙月の肩を強く掴んで揺さぶった。

「・・・しっかりしてください、お嬢。窓から落ちて死んでしまっては元も子もありません」

「修くん・・・でも」

「分かっています。あいつを追いかけましょう・・・場所は、察しがつきます」

修は先程翼羽が翔び去っていった方向を指差す。

「あの方角には月明家の別荘があります」

「月明家の・・・?」

「ええ。そこには翼羽の姉君がいらっしゃいます。現在は危篤状態ですが・・・」

沙月は息を飲んだ。

「・・・まさか。でも、わたしたちはあのとき確かに」

修は頷く。

「おそらくはそれが、翼羽が戻ってきた理由です」


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