10.月の雫
――翼羽は結羽に、月の加護を与えた。
「翼羽・・・!」
「ええ」
翼羽の瞳から涙が零れ落ちる。爽空も頬に涙が伝うのを感じた。
白かった結羽の頬が少し赤くなり、苦しそうだった寝息も安らかになっていく。
間違いなく、成功だった。やっと彼女を苦しみから救えたのだ。
「・・・ねえ、爽空」
「何?」
「・・・私、言っていなかったことがあるの」
「翼羽・・・?」
いつになく真剣な口調に身構えると、窓から目映い光が差し込んだ。
「『月の雫を最後の一滴まで使い切ったとき、その者は月人として月詠命に仕える使命を課せられる』・・・あの本には、そう書いてあったの。――どうやら、迎えが来たみたいね」
「え・・・?」
何を言っているのか、すぐには理解できなかった。
「魂を命様に捧げるのよ。月人は輪廻の輪から外れて・・・その後永久に、転生することが出来なくなる」
翼羽は微笑んだ。
「――つまり、私は死ぬってこと」
瞬間、その背中から再び真っ白な翼が生えた。
「翼羽・・・!?」
「ごめんね、爽空。私はもう、行かなくちゃ・・・」
小柄な体躯には不釣合いな大きい翼を羽ばたかせて、翼羽は窓の外へ飛び出した。そして真っ直ぐ、目が眩むほどの光を放つ月へと飛翔する。
「待って、翼羽――」
立っていられないほど強く吹き上げる風によろめきながら、虚しくその手を伸ばす。
分かっている。もう、この手が彼女に触れることはない。
それでも。
『――止まれ』
突然、鋭い声が響いた。はっとしたように翼羽が空中に静止する。
『御霊を捧げたのは月明翼羽、そなたか』
こうなることが分かっていたのか、務めて冷静に答える。
「はい、私が」
それを聞いて彼――月詠命は言い放った。
『そなたを月人にすることは出来ない』
翼羽は目を見開く。
「な、なぜですか!私は・・・」
『いや、語弊があるな。月人にすることは、出来る。しかしその役目を果たせるほど、そなたの魂は成長していないのだ』
対価としては不足だ。彼が言いたいのはそういうことらしい。
「では、どうすれば・・・」
月の雫は使ってしまった。対価は払わなくてはならない。
元に戻ろうにも、翼羽の身体はもう捧げられてしまっている。
「――では、私が参りましょう」
凛、とよく通る声が響いた。その声は紛れもなく――
「仁さん!?」
いつもと全く変わらない穏やかな微笑みを湛えて、仁は月光の下に立っていた。
「仁・・・あなた、何を言って・・・」
「翼羽様。あなたをお守りするのが私の役目です。ですからどうか、職務を全うさせていただけませんか」
「でも・・・」
「私がここで何もしなければ不肖の――いえ、自慢の息子に示しがつきません」
仁は屋敷の方を振り返って言った。
「それに・・・ずっと昔に約束しましたから」
茶色い瞳と金色の瞳が交差する。
ふたりはしばらくじっと見つめ合って、やがて翼羽はそっと微笑んだ。
「・・・行って来なさい、仁」
「はい。ありがとうございます」
「仁さん・・・」
ふたりの間に何があったのかは分からなかったが、確かな“絆”が見えた気がした。
仁はその背に生えた翼で夜空へ舞い上がり、月の向こうへと消えていく。
「・・・どうか、無事に出会えますように」
ぽつりと翼羽が呟く。
仁の姿が見えなくなった。
『――月明翼羽』
「・・・はい」
『そなたの肉体はもう戻らない。だからこれから――日世界へ転生させる』
爽空は耳を疑った。日世界とは、結羽の言っていたあの世界のことだろうか。
『もっとも、予定外の事態ゆえ正当な転生にはならない。構わないな?』
「・・・仰せのままに」
「待って翼羽!!一体どこに・・・」
「・・・大丈夫よ、爽空」
伸ばした手の先で、翼羽は微笑んだ。
「――私はいつだって、あなたのそばにいるから」
そう言って、翼羽は――。
●●●
「――思い出してしまったのね・・・」
そうだ、彼女の名は・・・。
「一体、どうなってるの・・・?」
沙月は呆然と立ち尽くした。
「お嬢、どうなさったんですか?お嬢!」
心配そうに覗き込んでくる海色の瞳。
「何で、忘れてたんだろう・・・・?」
抱きかかえられた姿勢のまま修の白い頬に指で触れる。
今でもこんなに愛しさがこみ上げてくるのに、どうして忘れていられたのだろう。
「どういうことなの、翼羽・・・?」
再び窓の外に視線を戻すと、その先にいた彼女は哀しげな笑みを浮かべた。
「私は日世界に転生したの。そしてあなたは・・・それに巻き込まれた」
事故で死んだ双子の身体に入り込み、日世界の人間として転生する。それが月詠命の行った措置だった。本来であれば翼羽のみが転生するはずだったが、器となる少女たちがそれを良としなかったのだ。
『あたしだけ助かるなんて、やだよ。それなら沙月を生き返らせて』
『わたしもそんなの嫌。沙陽を助けて』
双子は互いに譲らなかった。器を変えるべきかとも命は考えたが、爽空はそれを止めた。
「――わたしが一緒に行くから。だから、二人を助けて・・・」
“望月爽空”としての身体を残して彼女は日世界に転生し――“鈴村沙月”として生き延びた。もともと死にかけていた身体であるが故に長くは生きられない。日世界での生涯を終え次第すぐに月世界に送り元の身体に戻す、そういう約束が交わされていたのだ。
「ちょっと待って。わたしはまだ死んでなんか・・・」
そこで沙月ははっとした。
「まさか川に流されて・・・?」
「ううん。沙月の身体はちゃんと残ってるよ。あたしのは・・・また捧げちゃったけど」
金色の髪と瞳をしているが、申し訳なさそうに笑うその表情は確かに沙陽のものだった。
しかし、それならば尚更分からない。沙月は混乱する頭を必死で抑える。
「儀式をしたから、翼羽は月詠命様の元へ送られてきた――そういう、ことなんでしょ?」
「ええ、そうね」
翼羽は頷く。
「ならわたしは、どうして戻って来られたの?わたしには記憶がなかったのに」
おそらく沙陽は記憶を持ったままだったのだろう、ということは何となく分かり始めていた。沙陽が何らかの理由で月世界に戻りたいと願ったとしても、沙月の方にそんな意思があるはずもない。
「さあ・・・それは、分からない」
翼羽は首を振る。
「ただ、一緒に戻って来たということはあるはずなのよ――それを可能にするだけの、確かな理由が」
「・・・ねえ。それならあなたがここに戻りたかった理由は一体、何?」
沙陽としての身体を捨ててまで、月世界に戻ってきた理由は。
「わたしにあったのなら、翼羽にもあるんでしょ?命を捧げるだけの理由が」
「・・・それは」
「教えてよ。一体何のために・・・ここまでして」
しかし翼羽は、固く口を結ぶと再び大きな翼を広げた。
「ごめんなさい・・・あなたにはまだ、言えないの」
そうして、月の向こうへ――夜空の彼方へと翔び去っていく。
「翼羽!!」
「駄目ですお嬢!!」
窓から身を乗り出し必死に手を伸ばすが、押さえ込まれて身動きが取れない。
「離してよ!!」
「お嬢!!」
頬に鋭い衝撃が走る。呆然として見上げると、修は沙月の肩を強く掴んで揺さぶった。
「・・・しっかりしてください、お嬢。窓から落ちて死んでしまっては元も子もありません」
「修くん・・・でも」
「分かっています。あいつを追いかけましょう・・・場所は、察しがつきます」
修は先程翼羽が翔び去っていった方向を指差す。
「あの方角には月明家の別荘があります」
「月明家の・・・?」
「ええ。そこには翼羽の姉君がいらっしゃいます。現在は危篤状態ですが・・・」
沙月は息を飲んだ。
「・・・まさか。でも、わたしたちはあのとき確かに」
修は頷く。
「おそらくはそれが、翼羽が戻ってきた理由です」




