第九十九話「討伐隊出陣」
トリア歴三〇二七年三月十日。
レイたちは前年の十二月から始めた虚無神との決戦の準備をすべて終えた。厳しい寒さの中で訓練を行い、その努力は充分に報われている。
レイは槍術士レベルを二つ上げ、レベル四十八となった。また、魔法も最も得意な光属性がレベル七十四と、高位の魔術師と呼べるレベルに達している。
アシュレイとステラもそれぞれレベルを上げ、アシュレイが剣術士レベル五十四、ステラが五十五となった。二人は愛する男を守るための決意を新たにしていた。
ルナも得意の闇属性をレベル四十にまで上げている。一年前まで魔法が使えなかったことを考えれば、異常と言えるレベルだ。
これはロックハート家で受けた教育の賜物で、知識に限って言えば学術都市の魔術学院の教員に匹敵しており、それと精霊との親和性が相まって、このような急激なレベルアップを果たせたのだ。
魔法だけではなく、弓術のレベルも三十六になり、傭兵なら一人前と言われる五級に相当する。こちらは彼女の地道な努力の結果であり、そのこともあって以前より表情に自信が窺えるようになった。
ライアンも異常なレベルアップを果たした一人だ。
マーカット傭兵団に加入した昨年の年明け頃には、まだレベル二十三の駆け出しと言っていいほどの腕しかなかったが、今ではレベル四十とベテランと呼ばれるところまで腕を上げている。
神々の祝福を受けたとはいえ、血の滲むような努力をした結果だ。その努力が自信につながり、以前のような余裕のなさは消えている。
同じく祝福を受けたイオネも棒術と魔法のレベルを上げ、ルナを守るに足るとハミッシュ・マーカットが認めるほどになっていた。
ウノたち五人もそれぞれレベルを上げている。剣術や体術もさることながら、隠密としての能力が飛躍的に上昇し、精鋭揃いの獣人部隊の中でも頭一つ飛び抜けた存在となっていた。
ハミッシュたちや人馬族のギウス・サリナスらもそれぞれ腕を上げ、更に鬼人族戦士、妖魔族呪術師も新たな技術を習得し、僅か三ヶ月という期間にも関わらず、全体の底上げも果たしている。
レイは他にも準備を行っていた。
年が明けた頃、ルナとイーリス、タルヴォら主要な者たちと共に、ヴァニタス討伐のための拠点となるマウキ村を訪問した。
一年ほど前の二月初旬、絶望の荒野を抜けたレイだったが、その過酷な環境と仲間の死というストレスにより、高熱を発した。その時、余所者である彼らを受け入れてくれたのが、マウキ村だった。
レイは村長に相当する小鬼族のウルホ・バジェホに面会を申し込んだ。
ウルホはレイのことを覚えていたが、元々世捨て人が集まってできた村であり、月の御子の降臨したことすら知らず、一見して重要人物と分かるイーリスとタルヴォがいることに違和感を覚えていた。
「その節はお世話になりました。皆さんのお陰で、世界が大きく混乱する前に収拾することができました」
そう言ってレイは大きく頭を下げる。
「世界とかはよく分からんが、無事で何よりだ。それより後ろにいる御仁が誰か教えてくれんか」
レイは「そうですね」と言って微笑んだ後、
「タルヴォ・クロンヴァール殿です。ザレシェでお会いしたことがあるのではありませんか?」
タルヴォの名を聞き、ウルホは大きく目を見開く。
「ザレシェにはほとんど行ったことがないが、それでも名前くらいは知っている。クロンヴァール家の族長にして、族長会議の首座を務めている方だとな」
その後、イーリスを紹介すると、「まさか“月の巫女”が……」と絶句する。
そして、最後にルナを紹介した。
「ルナ・ロックハートです。こちらでは“月の御子”という名の方が通りがいいかもしれませんね」
「月の御子様……」と一瞬呆けるが、すぐに平伏する。
タルヴォとイーリスという鬼人族と妖魔族のトップが一緒であるという事実から、月の御子が本物であると確信したためだ。
「レイの命を救っていただいたと聞いています。彼は私を助けてくれました。つまり、私もあなた方に助けられたことになるのです。ありがとうございました……」
「畏れ多いことでございます。御子様に直接感謝の言葉を掛けていただけるとは……」と感激し、それ以上言葉にならない。
「これからもソキウスのため、世界のために協力をお願いしますね」
ルナの言葉にウルホは頭を下げることしかできない。
その様子を見たレイがルナに目配せをして下がらせ、話を始める。
「僕たちは春になったら絶望の荒野を目指します」
そこで絶望の荒野という言葉に驚き、平伏していた頭を上げる。その顔には“なぜ”という疑問が浮かんでいた。
「僕たちは邪神、虚無神を倒さなければならないんです。そのために絶望の荒野の最深部に行く必要があります」
「しかし、生きては帰れんぞ。そのことはお前が一番分かっているはずだ」
レイは「ええ」と笑みを浮かべて言った後、
「でも、前よりも多くの仲間が手助けしてくれます。ですから問題はありません」
「しかし……」とウルホが言いかけるが、レイはそれを制して話を続けていく。
「ウルホさんにお願いがあります。この村に物資を保管させてほしいんです……」
そう言ってここに来た目的を説明していった。
ウルホは少し考えた後、「御子様も来られているから否とは言えんが……」と渋る様子を見せる。
レイは彼らがいろいろな土地から逃げてきた“世捨て人”であることを聞いており、そのことで迷っていると考えた。
「静かな生活を望まれていることは知っています。ですから、ヴァニタスを討てば、我々はここを引き上げ、その後も干渉しないと約束します。それでいいね、ルナ」
「ええ。月の御子の名において、マウキ村に干渉しないと約束します」
その言葉に「畏れ多いことです」と言って頭を下げ、レイに向き直る。
「村の衆にも伝えておくが、この村を使うことは了解した。我々にできることがあれば何でも言ってくれ」
こうしてマウキ村を補給拠点とすることが正式に決まり、討伐隊に先立って物資が運び込まれていった。
出発の日の朝。
ザレシェの大政庁の前の広場には多くの民衆が詰めかけていた。
彼らの前にはハミッシュ率いる傭兵四十名、ギウス率いる草原の民六十名、ウノ率いる獣人部隊百名に加え、タルヴォ率いる鬼人族戦士五十名、イーリス率いる妖魔族の呪術師五十名が整列している。
鬼人族は大鬼族が主体だが、中鬼族と小鬼族の戦士も含まれている。彼らは部族の代表として選抜されたことを名誉に思い、今も紅潮した顔で正面を見つめている。
妖魔族の呪術師はイーリスを含む、ヴァルマ・ニスカら月魔族の呪術師七名と、アスラ・ヴォルティら翼魔族の呪術師四十三名だ。
いずれもレベル五十を超える魔術師であり、飛行できる点が評価され、ソキウスの都ルーベルナから派遣された者全員が選ばれている。
レイの後ろにはアシュレイとステラが、ルナの後ろにはライアンとイオネが立っている。更にその後ろにはセオフィラスらロックハート家の五名が、彼らを守護するかのように控えていた。
アシュレイたちは緊張した面持ちだが、ロックハート家の面々はこの先の冒険に思いを馳せているのか、微笑みを浮かべている。
レイとルナは互いに視線を送ると、用意された演壇に登っていく。
最初にルナが一歩前に出て民衆に向かって話し始めた。
「これより私たちは邪神ヴァニタスを討伐するため、絶望の荒野に向かいます。敵は神々ですら恐れる存在です。ですが、私は悲観していません。なぜなら、共に戦う仲間がいるからです。そして、私たちの成功を祈ってくださる皆さんがいるからです……」
その声は精霊たちによって五万人の民衆たち全員の耳に届けられている。
民衆たちは誰ひとり口を開くことなく、静かにその声に耳を傾けていた。
そこでルナはレイを見て小さく頷く。レイも同じように小さく頷き、彼女に代わり前に出る。
「ヴァニタスは確かに強大な敵です。ですが、彼女と共に必ず帰ってきます! いえ、私たちと共に戦ってくれる戦友たちと必ず帰ってきます! そして、この世界の存続を確かなものにします!」
そこで再びルナが前に出る。
「皆さんにお願いがあります! それは私たちのために祈ってほしいということです。祈りは神々に力を与え、神々がその力を私たちに与えてくれるからです。祈ることによって、皆さんも私たちと共に戦うことになるのです!」
そこでルナが膝を突き、頭を垂れて祈りを捧げ始めた。民衆たちも同じように頭を垂れて祈りを捧げていく。
精霊たちが彼らの頭上を飛び回っている。その姿は楽しげで、民衆たちはその精霊たちの力をしっかりと感じていた。
ルナはゆっくりと立ち上がると、
「皆さんも感じられたと思います。神々が共にあることを……私は皆さんと常に共にあります! すべての種族が手を取り合い、私たちのために祈ってください」
そこで民衆の中にいた一人の若い女が「御子様! お気をつけて!」と叫ぶ。それに釣られたように民衆たちは口々に「必ず帰ってきてください!」、「お気をつけて!」などと叫んでいた。
感極まった者が続出し、涙を流して叫んでいる者も多くいた。
数分間その興奮状態が続いた後、一人の中鬼族の男が前に出る。
ブドスコ家の長ヨンニ・ブドスコだ。彼はその行政手腕を買われ、後方支援を担当することが決まっている。
「民たちのことはお任せください。各種族の融和を図るというルナ様のお考えを必ず実現してみせます」
ルナは「よろしく頼みます」と言って微笑む。
「では皆さん、私たちは出発します! 後のことはお願いします!」
ルナはそれだけ言うと、演壇を降りていく。レイも彼女の後に続いて演壇を降りていった。
そして、愛馬トラベラーに跨ると、毅然とした表情で、
「邪神討伐隊、出発!」
と命じ、討伐隊は粛々と進み始めた。
民衆たちはその場に留まり、討伐隊が見えなくなるまで手を振り続けた。ルナが予め命じていなければ、いつまででも振り続けただろう。
街道に出ると、レイは表情を緩め、ルナに話しかけた。
「ご苦労様。それにしても本当に凄いね。みんな君の話で泣いていたよ」
「私の力じゃないわ。精霊たちが私たちの思いを伝えてくれたからよ」
「それでも君の言葉に力があったからだと思うよ」とレイが言うと、ルナは「ありがとう」と言って微笑んだ。
邪神討伐隊は街道を北に進んでいく。最初の目的地は拠点となるマウキ村で、約百五十kmの距離がある。
街道沿いにはまだ雪が残り、時折吹く風は身を切るように冷たいが、枯れた草原には翡翠色の新しい命が芽吹き始めていた。
四日後、大きなトラブルが起きることなくマウキ村に到着した。
マウキ村は以前のような寂れた感じがなくなっていた。それは本隊に先立って補給物資を運んでいた先発隊が仮設拠点を作っていたためだ。
先発隊は討伐隊に選ばれなかったレッドアームズの若手や鬼人族戦士たちで、彼らは共に物資の仕分けを行っていた。
「運びやすいようにまとめておきましたよ、レイさん」とレッドアームズ五番隊のハル・ランクスが陽気に話しかける。
レイは収納魔法に収めやすいように小分けして梱包された食料を見て、「助かるよ」と感謝の言葉を口にする。
他にも人馬族や遊牧民の馬に乗せやすいように、革でできたカバンに詰められた物もあった。
準備の状況を確認するが、全く問題はなく、その日の夜は簡単な壮行会が行われただけで、用意されていた天幕で早々に休んだ。
翌日の三月十五日の早朝。
邪神討伐隊の面々は準備を整え、村の外に整列している。彼らの表情はまちまちだった。
ウノたち獣人部隊はいつも通り無表情だが、ロックハート家やレッドアームズの面々は緊張しながらも余裕が見える。
しかし、鬼人族や妖魔族の表情はこわばっていた。
“絶望の荒野”という名は彼らにとって“死”そのものと言っても過言ではない。刷り込まれた恐怖がどうしても消えなかったのだ。
「この先は非常に危険な場所です! ですが、決して踏破できないところではありません! その証拠が私です! 仲間と共に僅かな物資だけでこの荒野を横断できたのですから! ですので、必要以上に恐れる必要はありません! 私やルナを信じてください!」
レイの言葉にソキウスの民は奮い立つ。
月の御子の前で怯えていると思われることはプライドが許さなかったのだ。
「レイ殿の言う通りだ! ルナ様の前で無様な顔を見せるな!」
タルヴォの喝に鬼人族が気合を入れ直す。
「ルーベルナの精鋭として、毅然とした態度を取りましょう! ルナ様をお守りするのは大神殿に仕える我々だという矜持を思い出すのです!」
イーリスの毅然とした言葉に呪術師たちは「はっ!」と答え、胸を張る。
二人の指揮官の言葉をレイは聞き、横にいるルナに優しく話しかけていた。
「ようやく“ルナ”という名で呼んでもらえるようになったね。いい傾向だと思うよ」
「そうね。“御子”という存在が大きいことは理解しているけど、一人の人間として見てもらえる方がうれしいわ」
ルナは“月の御子”という存在にいい印象を持っていない。
神のような超越者として認識されていることが一番の理由だが、自分を、“ルナ”という存在を、否定されているような気がしたためだ。
そのため、近しい者には“ルナ”と呼ぶよう依頼し、ようやく定着してきたのだ。
隊長たちが装備の点検を行い、問題ないことが確認された。
「それでは出発します!」というレイの言葉で、絶望という名の荒野に足を踏み入れていった。




