第五話「接近」
お待たせしました。
トリア暦三〇二六年、一月十七日の夕方。
月魔族のヴァルマ・ニスカは、レイたち魔族追撃隊が待ち受ける場所から西に約十kmの位置にいた。彼女の顔に表情はなく、疲労だけが色濃く出ている。そして、それは彼女だけでなく、周りの大鬼族戦士たちも同様だった。
魔物が頻繁に出没するアクィラ山脈の麓を迂回したことにより、魔物からの脅威は減ったものの、街道に近くなった分、頻繁な偵察が必要となっていた。
ヴァルマは残っている唯一体の翼魔と共に頻繁に進路を確認するだけでなく、野営地となる安全な場所を求めて飛び回っていた。
ここ数日は天候もさほど悪くなかったが、ほぼ一日中飛び回っていたことから、彼女は心身ともに疲れきっていた。
(敵が先回りしている可能性は否定できない……でも、さすがに疲れが取れないわね。早くレリチェに着いてしまいたい……)
魔族の侵攻拠点レリチェ村までおよそ二十km。
だが、この辺りが最もトーア砦に近く、敵が待ち受けるなら、この辺りであろうとヴァルマと大鬼族の指揮官イェスペリ・マユリの意見は一致していた。
ヴァルマはイェスペリに提案を行った。
「ここからレリチェまでは二十kmくらい。私なら一時間もかけずに行ってこれるわ。向こうから応援を出してもらおうと思うのだけど」
イェスペリは「それが良いでしょうな」と同意する。だが、すぐに懸念を口にする。
「レリチェを仕切るのは小鬼族のエイナル・スラングス殿でしたな。迎えを出すか微妙かと思われますが」
イェスペリの懸念は小鬼族の操り手、エイナル・スラングスがレリチェの場所を特定されないため、救援を派遣しないのでないかというものだ。エイナルは十九年前の大侵攻作戦――トーア砦を突破し、アクリーチェインで敗北した戦い――に参加した古強者だが、月魔族が主張する月の御子による魔族の戦力強化案には終始反対していた。彼は現有戦力で十分侵攻作戦は可能であり、“月の御子”という不確かな存在に頼るより、鬼人族を中心とした部隊による奇襲作戦を主張していたのだ。更に今回の月の御子奪還のための陽動作戦には明確に反対の意思を表明しており、魔族にとって悲願である月の御子を奪還したとはいえ、多くの同族を失ったヴァルマの声に耳を傾けない可能性があるというのだ。
「……ネストリ様がいらっしゃいますが、オルヴォ様がお討ち死にされたと知れば、恐らく激高されるかと……」
彼の言うネストリとは、大鬼族の戦士、ネストリ・クロンヴァールのことだ。彼はソキウス――魔族の国の名――の西方派遣軍司令、オルヴォ・クロンヴァールの末弟に当たる。
ネストリはオルヴォ以上の剛の者という評判だが、武勇に頼るだけで思慮に欠けるため、西方派遣軍に配属されることがなかった。ただ、気が短く浅慮なネストリだが、兄オルヴォに対し崇拝に近い尊敬の念を抱いていた。その分、自慢の兄が討ち死にしたと知れば、我を忘れてヴァルマに斬り掛かるかもしれないというのだ。
「……エイナル殿がおられれば、ネストリ様を抑えることができましょうが、それでも救援に赴くかは……」
ヴァルマはしばし黙考し、
「そうね。でも、行くだけ行ってみるわ。夜のうちに飛べば、朝までには戻ってこれるし」
ヴァルマはそう言うと、月の御子ルナの下に向かった。
「明日には我々の勢力圏に入ります。ですが、この先は再び危険な土地となりますので、これより増援を呼びに行って参ります」
ルナは無気力な表情でヴァルマの話を聞いていた。だが、その心中は複雑だった。
(逃げることも死ぬことも叶わない。それなのに明日には魔族の土地に入ってしまう……聖君が、レイが助けてくれるかもって期待していた……いつも私はそう。誰かに助けてもらうだけ。八年前も……全然成長していないわね。心は日本の高校生だった頃のまま……)
自嘲気味にそう考えるが、それでも何とかしなければと、心の中で気合を入れる。
(これだけ深い森の中だと、聖君でも私を見つけ出すことは不可能だわ。私に出来ること。それは何?……聖君は魔族が私を必要としている、そう、何かの儀式に私を使うって言っていたわ。なら、その儀式を邪魔すればいい。邪魔するにはどんな儀式か知る必要があるわ。ともかくヴァルマの信用を得ないと話にならないわ……)
ルナはそこまで考えると、彼女のもとを辞去しようとするヴァルマに声をかけた。
「気をつけて……私にはあなたしか味方がいないの……」
ヴァルマは僅かに驚愕の表情を浮かべる。今まで頑なに会話を拒否していた月の御子が、自分の身を案じてくれたからだ。
ヴァルマは不安そうにしているルナの前に跪き、両手を握る。
「必ず戻って参ります。あと少しで暖かい寝台で休めます。もう少しの辛抱ですよ」
ルナは少しだけ笑顔を見せ、小さく頷いた。
日没後、ヴァルマは翼魔と共に空に舞い上がった。
空気すら凍るような冷気に僅かに身震いするが、凛とした清涼な空気の中に身を投じられたことに満足もしていた。
昨日までなら、そう思わなかったのだろうが、彼女の崇拝する月の御子に身を案じられたことが大層嬉しかったのだ。
(御子様からお言葉を頂けた……ようやく私のお気持ちが通じたのね。これで事は成ったわ……)
月魔族にとって月の御子とは、神の使いという意味を持つ。それは信仰というより、幼少の頃より刷り込まれた洗脳に近いものだった。今の彼女は全く疑問に思っていないが、もし、冷静な第三者が、それも闇属性魔法に通じた者が見れば、違った感想をもったかもしれない。
ヴァルマ自身、闇属性魔法の使い手であり、傀儡や洗脳といった心理攻撃の名手だが、今の彼女は自分がそれに近い状況であると考えることは出来なかった。
数十分後、夜空を行くヴァルマは眼下に松明の灯りを見つけた。
それはハミッシュ・マーカット率いる魔族追撃隊の野営地の灯りだった。
彼女はこの状況を予想しており、驚愕はしなかったが、それでも落胆はしていた。
(やはり手を回していたのね。白の魔術師ならありえると思っていたけど……思ったより数は少ない。百から二百というところかしら……まずはイェスペリに警戒を怠らないよう伝えるべきね……)
ヴァルマはレリチェに向かうのを一旦取りやめ、ルナのもとに戻っていった。
■■■
その時、ヴァルマは気付かなかったが、彼女に気付いているものたちがいた。
それはルークスの獣人奴隷ウノとステラだった。
満月からまだ幾日も経っておらず、その日の夜空は月明かりに照らされていた。
周囲を警戒していたウノと、レイやアシュレイと共に不寝番に立っていたステラが、夜空に浮かぶ影に気付いたのだ。
「レイ様。翼魔が飛んでいます!」
ステラは焚き火に当たって暖をとっていたレイに叫ぶように警告を発した。
すぐにレイとアシュレイがステラの指差す空を見つめるが、焚き火を見つめていた彼らの目には遥か遠くを飛ぶヴァルマらの姿は見付けられなかった。
レイは素早く照明弾の魔法を打ち上げる。
「世のすべての光を司りし光の神よ。輝ける御身の力を我に与えたまえ。御身に我が命の力を捧げん。満ちよ、光! 照明の炎!」
レイの打ち上げた照明弾の眩い光が雪に覆われた山林を照らす。
だが、ヴァルマと翼魔は既に引き返し始めており、野営地からかなり離れていた。そのため、常人の視力しか持たぬレイの目では、彼女たちを捉えることはできなかった。
ステラと同様にヴァルマと翼魔の姿を見つけたウノは、レイのもとに駆け寄った。
既にステラが警告を発した後であり、ウノは必死に空を見つめるレイの前で片膝をつく。
「オチョ、ヌエベと共に後追います。何かあれば、セイスとディエスに御命令を」
レイが答える前にウノは二人の部下を引き連れ、闇の中に消えていった。
レイは「無理しないように!」と叫び、アシュレイにハミッシュたちに翼魔と月魔族が移動していることを報告するように指示した。
アシュレイはそれに頷くと、すぐにハミッシュらの天幕に駆け込んでいく。
ステラは月魔族たちが飛び去るのを見送るしかなく、何もできない自分が歯がゆかった。
(さっきの距離なら、レイ様の魔法で撃ち落せたのに……何もできないうちに逃がしてしまった……)
レイは未だに必死に目を凝らしていたが、ヴァルマたちの姿は尾根の向こうに消えた後だった。
■■■
月明かりが照らす純白のキャンバスに三つの黒い影が走っている。
黒狼の獣人ウノは、雪で白一色に染められた森の中を常人では考えられないほどの速度で駆けていた。
彼らは雪とはあまり縁のない暖かな気候のルークスで活動していたが、ロープを巧みに使い、ましらのように木々の枝を跳び渡り、障害となる谷も迂回することなく飛び越えていた。その姿は三頭の黒い獣のようであった。
だが、彼らの脚力をもってしても、飛翔する月魔族の速度には遠く及ばなかった。
常人のそれを遥かに上回る速度で移動するものの、柔らかい新雪は彼らの脚に負担を掛けていった。生まれながらの素質に加え、厳しい訓練で鍛え上げられた獣人とは言え、十分も経たぬうちに息は上がり、凍てつく冷気の中でも滝のように汗が流れていた。
上空を行くヴァルマは気配を遮断したウノたちに気付くことなく、月夜の空を駆けていく。ウノは必死に追いかけながらもヴァルマの行動について考えていた。
(恐らく追撃隊を見つけ、月の御子のところに戻るつもりなのだろう。このまま月魔族を追っていけば月の御子の居場所まで案内してくれる。後は追い切れるかだが……)
ウノはヴァルマを追うことでレイが救出を目指す月の御子、ルナの居場所に辿り付けると考えた。だが、時速五十km以上で飛行する月魔族と雪の積もる足場の悪い地上を走る自分たちでは追い切れない可能性があるとも考えていた。
(恐らくこちらには気付いていまい。ならば、最短距離を飛行するはず。最悪、ヌエベに状況を報告させ、私とオチョだけで敵を探すことになるかもしれん……)
彼の懸念は現実の物になったが、予想した通りの場所にヴァルマたちの野営地を発見した。
■■■
ヴァルマは突然打ち上げられた照明弾の魔法に驚くが、すぐにレイがいると考え、狙撃を受けない高度まで急降下した。
(あの魔法は白の魔術師に間違いないわ。もう少し近くを飛んでいたら……まだ、運は私の方にある。今すぐに御子様のところに戻るべきだわ……)
彼女は戻ることに集中し、地上を走るウノらに気付くことがなかった。
だが、障害物のない空を行くため、ウノらを引き離し、僅か十分ほどで帰還した。
予定よりかなり早く戻ってきたヴァルマを見て、イェスペリは何が起きたのかと考えていた。
(ヴァルマ殿が慌てて戻ってきた。恐らくレリチェに到着する前に何かを見つけたのだろう。可能性があるのは強力な魔物か、敵の待ち伏せだろう……)
彼は後者の可能性が高いと考え、配下の戦士たちに警戒を強めるよう命令を下す。
そして、ヴァルマに事情を聞きにいった。
「敵の待ち伏せよ。それも白の魔術師がいたわ」
白の魔術師という言葉にイェスペリの表情がこわばる。ヴァルマは彼の表情の変化に気付くことなく、話を続けていく。
「でも、思ったほど多くはない感じね。遠くから見ただけだから正確じゃないかもしれないけど天幕の感じから百くらいってところかしら。多くても二百には届かないわ」
「では、白の魔術師を討つ絶好の機会ということですな」
ヴァルマは大きく頭を振り、
「今は御子様をソキウスにお連れすることが重要なの。それにあなたたちは大きく傷付いているわ」
イェスペリら大鬼族戦士はここまでの移動で二名失い十三名に、眷属であるオーガも五体失い二十五体になっていた。大鬼族に関してはヴァルマの治癒魔法で治療されているが、オーガの傷はそのままとなっており、戦力的には心許ない。
オーガは通常の騎士の五人分の戦力に当たり、大鬼族戦士はそれ以上の戦力と考えられている。万全な状態なら、傭兵主体の二百名程度の戦力に十分対抗できる戦力だが、状態が悪すぎる。更に敵には強力な魔術師である白の魔術師がおり、彼と共に凄腕の剣術士――ハミッシュ・マーカット――と強弓を使う弓術士――アルベリック・オージェ――がいる可能性が高い。
イェスペリは尊敬するオルヴォ・クロンヴァールを討ち取った憎い相手、白の魔術師を倒すことを主張するが、ヴァルマは譲らなかった。
「ここは確実に御子様をソキウスにお連れすることを優先するわ。もちろん、レリチェからの増援と合流したら、白の魔術師を討ってもいいわ。でも、それは合流した後。これは譲れない」
条件付で認められたことで、イェスペリも譲歩せざるを得なかった。
ヴァルマはイェスペリらが猪突しないことを確信し、再びレリチェを目指すため、空に舞い上がる。
彼女は魔族追撃隊の状況を確認したいという欲求に駆られたが、救援を呼ぶことを優先すべきと考え、野営地を大きく迂回するルートを選択した。
ヴァルマを追った獣人奴隷のウノらは一時間後に大鬼族らが潜んでいる場所を発見する。
だが、思いのほか警戒が厳重であり、斥候を得意とするウノたちですら容易に近づくことができない。彼は独力でのルナ救出を断念し、レイに状況を知らせるため、配下のヌエベをレイのもとに向かわせた。
ヌエベは一時間半後の午後九時過ぎに野営地に戻ってきた。
肩で息をしながらも、すぐにレイに報告を始める。
月魔族のヴァルマと翼魔が東に飛び去ったこと、ほとんどのオーガたちが傷付いていたことなどが報告されていく。
「ルナ殿は厳重に守られており、姿を確認することは叶いませんでした。ですが、輿らしき乗り物と天幕を確認しておりますので、そこにいるのではないかと言うのがウノの見立てにございます」
レイはヌエベの報告を聞き、しばし目を瞑り情報を整理していく。
(月魔族と翼魔はレリチェに救援を呼びに行ったと考えるのが妥当だろう。僕たちの姿を確認しているから、東から敵が襲撃してくる可能性は高い……でも、オーガが傷付いているし、大鬼族の装備も痛んでいるようだから、今ならルナを奪還できるかもしれない……)
レイはこの事実について協議するため、ハミッシュの天幕に向かった。
「……というわけで今なら敵は手薄です。場所もここから四時間程度の位置。打って出るべきです」
ハミッシュはレイの言葉に頭を振り、
「今は無理だ。夜目が利く獣人やエルフが主体なら夜間の強襲もできるだろうが、さすがに月明かりだけでは戦闘にならん」
レイは「しかし……」と反論しようとした。だが、ハミッシュはそれを遮る。
「敵は鬼人族なのだ。如何に傷付いているとはいえ、暗闇での戦闘は圧倒的にこちらに不利だ。お前にもそれくらいの事は判っているだろう」
レイは言葉を発することが出来なかった。冷静に考えれば、この険しい雪山で僅かな灯りを頼りに行軍するのは困難というより不可能だ。それが精鋭と言われるマーカット傭兵団であっても。
理性はそう訴えるが、容易に感情を切り離すことは出来ない。
(僕とステラ、後はゼンガさん――熊獣人、二番隊隊長――たち獣人の人を集めれば、何とかなる……今は一刻を争うんだ……)
彼が自分たちだけで強襲を掛けると言おうとした時、傍らにいたアシュレイが彼の肩に手を掛ける。
「自分だけで行こうとなどと考えるな。如何にお前でもルナを救い出すことは叶わぬはずだ」
彼女の真剣な、そして彼を心配する表情を見て、レイも落ち着きを取り戻す。
「判ったよ……アッシュやハミッシュさんの言うとおりだね。今動いても遭難するのがおちだ……」
その後、夜明けを待たずして敵に向かうことが決定した。
レイはその決定に何も言わなかったが、彼の表情には焦りの色が浮かんでいた。




