第二話「古戦場アクリーチェイン」
トリア暦三〇二六年、一月一日。
マーカット傭兵団を主力とする魔族追撃隊は、年明けの朝、粉雪が舞うアルス街道――冒険者の街ペリクリトルと南部の山岳国家カウム王国の王都アルスを結ぶ主要街道――を南下していた。彼らは今日一日で一気にカウム王国に入る予定でいた。
昨夜の宿泊地ボウデン村から、カウム王国の国境の町ボグウッドまではおよそ六十五km。そして、今日は一年で最も日照時間の短い冬至。その日に移動するには非常識なほどの長距離を走破しようとしていた。
ただ、移動距離としては非常に長いが、明るい材料がないわけではない。
元日ということで商隊の移動が少ないこと。更に次の宿場町キルナレックから目的地であるボグウッドまでは魔物がほとんどいない安全な街道だということが明るい材料だ。
今日一日は商隊との折衝や周囲の警戒といった雑事に煩わされることなく、移動に集中できると皆が考えていた。
正午頃、城塞都市であるキルナレックの街に到着した。
キルナレックの街に入ると、酒場には新年を祝う市民たちが多く見られる。だが、その一方で武装した兵士たちが頻繁に城門を行き来していた。
ペリクリトル攻防戦で魔族を打ち破ったことは伝わっていたが、魔族の敗残兵が逃亡を図っているという情報もあり、警戒を強めているのだ。
レイは愛馬の世話を終え、アシュレイらと昼食がとれる場所を探していた。
雪が舞う空模様だが、街には人が溢れていた。そして、魔族の脅威が去ったことから、どの顔も明るかった。
レイはそんな人々の表情を見ながら、時々見かける看板についてアシュレイに尋ねる。
「本当に活気のある街だね、ここは。そうそう、さっきから気になっているんだけど、“ZLあります”って書かれているけど、“ZL”って何のことだか判る?」
「ああ、あれは長期熟成酒があるという印だ……」
アシュレイは時折、恨めしそうに看板を見つめながら、彼女にしては饒舌に説明していく。
「……ペリクリトル辺りでは滅多に飲めぬ酒。ここキルナレックか、ラスモア村しか手に入らぬそうだ。いや、カウムの王都アルスなら鍛冶師たちが手に入れていると聞くが……」
そこでレイの視線に気付き、「すまぬ」と言って、苦笑いを浮かべる。
レイは「本当に好きなんだね、お酒が」と言って笑う。
昼食を済ませると、すぐにアルス街道に戻っていく。
規律の厳しいマーカット傭兵団は誰も飲酒はしていないが、義勇兵として参加した傭兵の中には、キルナレックで酒を飲んでいるものもいた。
追撃隊を指揮するハミッシュ・マーカットはあえて飲酒を禁じなかったが、内心では義勇兵たちの規律の甘さに危惧を抱き始めていた。
(ペリクリトルでもう少し選別するべきだったか。この程度の行軍ですら不平が出る。この先、アクィラの山の中でこいつらが耐えられるのか疑問だ……)
事前に入手した情報では東の大山脈であるアクィラ山脈の南に、魔族が使う抜け道があると判っている。その場所はカウム王国の要衝、トーア砦の北方にあり、標高も高く厳しい環境であると予想されていた。特に一年で最も寒いこの時期における軍事行動は、軍としての資質が問われる。ハミッシュは寄せ集めに過ぎない追撃隊に、長期間に渡る作戦は困難であると考えていた。
(最悪、レッドアームズだけという事態も覚悟しておかねばならんな。トーア砦から人を出してもらえれば、何とかなるのだが……)
一月三日午後五時。
ハミッシュ率いる魔族追撃隊は、カウム王国のバルベジーの街に到着していた。
ペリクリトルからバルベジーまではおよそ三百km。彼らはその距離を僅か六日で踏破していた。鈍重な輜重隊を伴わないとはいえ、その行軍速度はこの世界の常識を覆すほどの速さだった。
バルベジーは主要街道であるアルス街道から東に延びるトーア街道の入口となっている。
トーア街道はカウム王国の東の要衝トーア砦に繋がる軍用道路だ。一方で街道沿いは比較的肥沃な土地であることから、山岳地帯が国土のほとんどを占めるカウム王国にとって重要な穀倉地帯となっている。トーア街道はこの穀倉地帯からの食糧の運搬と、国境の要衝への補給路を兼ねていることから、平時であれば商人たちの往来は非常に多い。
今回の魔族の侵攻により、商隊の数は激減したが、ペリクリトルでの勝利が伝えられると、真冬と言う気象条件にも関わらず、それまで停滞していた物流を取り戻すかのように賑わいを取り戻していた。
翌日の一月四日。
二百km東にあるトーア砦に向かうため、マーカット傭兵団を主力とする追撃隊はトーア街道に馬を進めていた。
午前十一時頃、彼らはバルベジーの東二十kmにあるアクリーチェインという土地に差し掛かっていた。
アクリーチェインは十九年前の魔族の大侵攻時の戦場だった。
アクリーチェインの戦いは、トリア暦三〇〇七年五月十二日、トーア砦に数千にも及ぶ魔族軍が押し寄せてきたことが発端だった。
トーア砦には千名ちかい守備隊が常駐していたが、飛行型の魔物などの攻撃もあり苦戦する。カウム王国は各国に支援を要請し、自らも二千名の兵士をトーアに急行させた。
五月二十五日、魔族軍七千の損害をものともしない攻勢によりトーア砦は遂に陥落。間に合わなかったカウム王国の援軍二千は一旦退き、各国からの援軍を待つ戦略に切り替えた。
その後、カウム王国軍は巧みな撤退戦を展開し、大きな損害を出すことなく魔族軍を翻弄し続ける。そして、約一ヵ月後の六月二十三日、傭兵の国フォルティスと北のラクス王国からの援軍を得て、遂に攻勢に転じた。
その場所がここ、アクリーチェインの地だった。
その戦闘において、ラクス軍は魔族軍から集中的に攻撃を受け苦戦した。その中で唯一活躍したのが、ハミッシュらラクスの傭兵隊だった。彼らは巧みに魔族軍の攻勢を受け流し、連合軍の反撃を誘引する。カウム、フォルティス、ラクスの各軍が三方から攻撃に出たことにより魔族軍は潰走し、連合軍は大勝利を収めた。そして、その勢いを駆り、トーア砦を奪還、魔族の西部侵攻の野望はそこで潰えた。だが、その代償は小さなものではなかった。ラクスの傭兵隊の半数以上が戦死していたのだ。
ハミッシュは十九年前のことを思い出すかのように、左手に見えるアクリーチェイン山を見ていた。彼はこの戦いで妻であるアビーを失っていた。
(もう十八年、いや、今年で十九年になるのか……あの小さかったアッシュが大人になるのも当たり前のことか……)
当時のことを知っているのは、彼の傍らにいるエルフの弓術士、アルベリック・オージェしかいない。そのアルベリックも普段の陽気さが影を潜め、同じように無言で山を見ていた。
その姿をハミッシュの娘、アシュレイ・マーカットが見つめていた。
(父上もアル兄もやはり昔のことを思い出しているのだな。私はここに母上が眠っていると聞かされてもあまりピンと来ないのだが……母上の記憶は抱きしめてもらったことくらいだ。どんな声だったか、何を話したのかもほとんど覚えていない……)
そんなアシュレイにレイが静かに声をかける。
「ここがアッシュのお母さん、アビーさんの眠るところなんだね」
「ああ。一度だけ来たことがあるが、もう少し先だったはずだ」
アシュレイは視線で母の眠る地を指し示す。
「少し寄り道してもいいんじゃないかな? お墓参りでもないけど、折角だし」
レイはそう言うと、アシュレイの答えを聞かずにハミッシュのところに向かった。
ハミッシュにそのことを提案すると、
「私事で行軍を遅らせるわけにはいかん。今は先を急ぐべきだ」
レイは頭を振り、
「もうすぐ休憩時間ですよね。その時に行くだけなら行軍が遅れる事はないと思います。それにもし遅れてもすぐに追いつけますよ」
「将である俺が遅れるわけにはいかんだろう」
レイは一番隊の隊長ガレス・エイリングを見ながら、
「大丈夫ですよ。ガレスさんもいますし、ここならハミッシュさん、アルベリックさん、アッシュと僕が抜けても何も問題ないですし……」
そして、少しだけ声を潜め、
「ハミッシュさんはともかく、アルベリックさんが静かだと士気に関わると思いますよ」
レイの声が聞こえたのか、アルベリックが話に割り込んできた。
「それはないよ、レイ君。僕だって、静かに死者を悼む事だってあるんだから」
アルベリックが不本意そうにそう抗議すると、ハミッシュの表情が僅かに緩む。
「そうだな。ガレスに任せて、アビーにアッシュとお前のことを報告に行くか」
レイが「報告って……」と絶句するが、ハミッシュはそれを無視してガレスを呼ぶ。
「次の休憩で俺とアル、アッシュ、レイはアクリーチェインに行くことにした。悪いがその間、隊の指揮を執ってくれ」
ガレスもハミッシュの妻が眠る地であることを知っており、「お任せください」と大きく頷く。
レイたち一行――レイ、アシュレイ、ステラ、ウノら獣人部隊、小鬼族戦士のダーヴェとラウリの計十名に、ハミッシュと彼の妻ヴァレリア、そして、アルベリックの三人が追撃隊から離れていく。
マーカット傭兵団と義勇兵のうち、ハミッシュのことをよく知る極一部の者だけが、彼らの目的を知っていたが、若い傭兵や冒険者たちはなぜ指揮官が隊を離れるのか理解できないでいた。
休憩時間にガレス・エイリングがアクリーチェイン山に向かって黙祷を捧げると、マーカット傭兵団の面々も同じように黙祷を捧げる。
いつもは私語が飛び交う休憩時間だが、この時だけは厳粛な空気が支配していた。
アクリーチェインの古戦場はトーア街道から北に一kmほどの位置にある。
古戦場である草原は、正面にあるアクリーチェイン山の麓から続き、いくつもの小さな丘が連なっている。ところどころに小さな森が点在し、数百人単位の伏兵を隠すには絶好の土地だった。
冬のこの時期、草は枯れ、西から吹く強い風に揺れている。
完全な原野かと思われたが、死者を悼む者が多いのか、踏み固められた獣道のような道が街道から続いていた。
レイはアクリーチェインの地に畏敬の念を抱いていた。
(死者が眠っていると自然に思える場所だな。夏に来たら、また別の感じを受けたのかもしれないけど、物悲しさというか、そんな感じを受けるな……)
彼らは古戦場が見渡せる小高い丘の上で停止する。
そこには魔族の侵攻を食い止めた勇者たちに対する鎮魂の碑が建てられていた。
ハミッシュは部隊を離れてから終始無言で、碑の前に立つと静かに目を瞑る。彼の隣には妻のヴァレリアが寄り添うように付き添い、同じように目を瞑っている。
その後ろではアルベリック、アシュレイ、そして、レイも言葉を交わすことなく、同じように黙祷を捧げていた。
レイにはここに死者の魂があるように感じていた。
(誰かがいるような気がする……日本にいるときにはお墓の前でもこんな気持ちになったことはないのに……アビーさんなのかもしれないな……何ていっていいのか分からないけど、アッシュとうまくやっていきます……)
レイは黙祷しながら、アシュレイの手を握った。
アシュレイも同じように母親の魂が近くにいるような気がしていた。
(母上……少しだけ、貴女の気持ちが分かるようになったと思います。自分よりも大切な存在。その人とともにいること、そして、その人を守ること……)
そこでレイの手と触れ合う。
(……この人が私の半身。貴女にとって、父上がそうであったように……)
厳粛な空気がその場を支配する。
僅か一分ほどの黙祷だったが、全員が何かを感じていたようだ。
一分ほど黙祷を捧げると、ハミッシュが「戻るぞ」と静かに帰還を命じた。
レイはもう少し時間を掛けても良いのではと考えたが、ハミッシュの表情に明るさが戻っているのに気付き、何も言わなかった。
その帰り道、普段の陽気さを取り戻したアルベリックが、ハミッシュをからかっていた。
「新しい奥さんを貰ったって報告したのかい?」
ハミッシュは「ああ、もちろんだ」と何事もなかったかのように答えるが、アルベリックはにやりと笑って更に言葉を続けた。
「なら、頑張ってアッシュの弟か妹を作るってことも?」
その瞬間、ヴァレリアが顔を赤くして「アル兄!」と声を上げる。
明るさを増したハミッシュらは追撃隊と合流し、一路トーア砦への道を急ぐ。
ハミッシュが「それでは行くぞ」というと、レイたちは無言で頷く。
馬に跨り、その場を後にするが、レイは一度だけ後ろを振り返った。そして、一度だけ小さく目礼し、ハミッシュに続いていく。
三十分ほどで休憩場所に戻ると、ハミッシュは表情を変えることなく「出発だ!」と全員に命じた。




