第四十話「引き揚げ命令」
十二月十六日午前八時。
月魔族のヴァルマ・ニスカは昨日の夕方、ペリクリトルの北東八十kmにあるリッカデール村近くに到着していた。
彼女は傀儡とした冒険者カースティから、ルナの情報を得て、文字通り飛んで来ていたのだ。
(昨日は既に村に入られていたわ。でも、今日は村から離れたところで、御子様を説得しなければ……それにしても鬱陶しい霧ね……)
リッカデールは朝から濃い霧に覆われ、時折冷たい霧雨が落ちていた。
そのため、偵察に出るはずの冒険者たちはリッカデールから出てこず、彼女は徐々に焦り始めていた。
(この霧のせいで、今日は森に入らないなんてことはないわよね。この村は思った以上に防備がしっかりしているし、傀儡の記憶では腕の立つ冒険者たちが多くいるということだった。もし、今日か明日に御子様が外に出られなければ、ペリクリトルから引き揚げ命令を持った伝令が来てしまう。そうなると、ここにいる冒険者たちが一斉に移動することになるわ。ここに数十人の冒険者を相手にする戦力はない。早くしないと……時間はそれほどないわ……)
彼女の焦りとは関係なく、霧は一向に晴れる兆しを見せない。逆に午後になると、冷たい雨が強くなり、この先、ルナたちが村を出て行くとは考えられなかった。
(今日は無理ね。夜に村に侵入するという手もあるけど……駄目ね。急いで来たから、翼魔とハーピーしか手元にいない。宿の中に忍び込むための戦力がいない……私が一人で潜入して、傀儡を手に入れるというのも無理ね。ここで私に何かあれば、計画が破綻してしまう……)
ヴァルマの戦力は翼魔四体とハーピー五匹だが、翼魔はともかくハーピーは夜目が効かない。このため、夜襲を掛けることが出来ず、悶々とした状態で村を見つめていた。
その日の夕方、馬を駆る二人の冒険者風の男がリッカデール村に向かっていた。
彼らは昨日、レイの進言を受けたランダルが偵察を取止めてペリクリトルに引き揚げるという命令を与えた伝令だった。
彼らはあと一kmで目的地に着くというところで僅かに油断した。
霧雨の中、先頭を行く馬の首に真っ黒な魔法の矢が突き刺さる。
馬はもんどりうって倒れ、伝令も騎上からぬかるんだ道に投げ出されていた。
後ろを走っていた伝令は馬を止め、剣を引抜き、「誰だ!」と叫ぶ。
翼魔二体がふわりと彼の前に舞い降り、頭上から若い女性の柔らかい声が聞こえてきた。
「降伏しなさい。抵抗すれば命を貰うわよ」
伝令は腕に自信がある冒険者だったが、目の前の翼魔と頭上の女魔族の姿に気圧されていた。
「もう一度言うわ。武器を捨てて、降伏しなさい。これ以上時間を掛けるなら、片方を殺す。一人いれば十分なのだから」
その言葉に地面に投げ出された男が呻くように「降伏する」と手を挙げた。
騎上の男は「貴様!」と叫ぶが、すぐに馬を走らせようと鞭を入れた。
馬が駆け出そうとした瞬間、その伝令の背中に二本の闇の矢が突き刺さっていた。彼の背後には更に二体の翼魔が立っていた。背中に魔法を受けた伝令は鞍から滑り落ち、そして、二度ほど痙攣した後、動かなくなった。
ヴァルマは首を小さく振り、「周りをもっと警戒することね」と言って、降伏した男に声を掛ける。
「武器を捨てなさい。そして、ゆっくり立ち上がって……」
彼は彼女の言う通りに腰の剣を剣帯ごと外し、ゆっくり立ち上がった。
そして、「殺さないでくれ。頼む……」と涙混じりに懇願する。
ヴァルマは美しい顔に妖艶な笑みを浮かべて、
「ええ、殺さないわ。少しの間、私の僕になってくれればね」
伝令の男は「僕だと! どういうことだ!」と叫ぶが、翼魔に跪かされ、両腕を押さえつけられる。
ヴァルマは漆黒の翼を広げて、彼の目の前に舞い降り、ゆっくりと背後に回った。
そして、細い筒のような物を取り出し、伝令の首元から背中に差し込む。
暴れる男に「痛くしないから、大人しくしていなさい」と言って、ゆっくりと呪文を唱え始めた。
呪文が唱えられ始めると、彼の目から徐々に怯えが消えていく。呪文が終わった時には全く別人になったような自信に満ち溢れた目に変わっていた。
ヴァルマはその様子に納得し、「さて、あなたは何をしに行くのかしら?」と笑いながら、尋問を始めた。
十分後、ヴァルマは伝令の男、ビリーから偵察の終了と引き揚げの命令が出たことを知り、この情報をどう使おうか考えていた。
(命令にはいつ誰を引き揚げさせろという指定が無かったわ。確か六組のパーティがいたはずだから、二組ずつ引き揚げろと言えば、こちらの戦力でも十分に圧倒できる。明日ヘーゼルのパーティともう一組を引き揚げさせて、街道で待ち伏せすれば……)
彼女はその考えをビリーに命令し、翼魔とハーピーたちに死んだ伝令と馬の処理を命じた。
ルークスの獣人部隊の長ウノと彼の配下の五名は、リッカデール村に向けて走り続けていた。
鍛えられた獣人の彼らは陽が落ち、暗闇が支配する街道を昼間と変わらぬ速度で走り抜けていく。
十二月十六日の深夜にリッカデール村の手前約一km、数時間前に伝令たちが襲われた現場に差し掛かった。先頭を走るウノは静かに左手を上げ、部下たちを止める。
「血の匂いが残っている。いや、ここに馬が転倒した跡がある。周りを確認しろ」
彼の消え入るような小さな声の命令に、部下たちは即座に周囲に散っていった。
すぐに痕跡は見付かり、街道から二十mほど森に入ったところに、伝令の持ち物や馬の鞍などが隠されていた。
(馬具を見る限り、ペリクリトルの冒険者ギルドの馬のようだ。まだ、それほど時間は経っていない……アークライト様がおっしゃっていた伝令で間違いないようだ。だが、伝令は二名のはず、だとしたら……)
伝令の遺品を調べるため、屈んでいたウノは、僅かに殺気を感じた。
彼は本能に従い横に飛んだ。その直後、漆黒の矢が彼のいた場所に突き刺さっていた。
「トレス、クアトロ! 周囲を警戒しろ! シンコ、セイス、オチョ! 敵は北だ! 行け!」
ウノは小さいが鋭い声で部下たちに命令を出す。
彼を狙った敵は闇に溶け込んでおり、ほとんど見えなかったが、攻撃が北から行われたことに気付き、すぐに三名の部下を向かわせたのだ。
彼は警戒しつつも、更に遺品を漁るが、身元を示すものは何もなかった。
敵を追った三人は月明かりもない闇の森の中で、二体の巨大なコウモリのような魔物の姿を見つけた。だが、その魔物はすぐに北に飛び去り、追いかけることは叶わなかった。
報告を受けたウノは警戒しつつ、これからの行動方針を考えていた。
(リッカデールに入り、このことを告げても良いが、恐らく信じてはもらえまい。傀儡となった伝令が我らを魔族の手先だと言い張る可能性もある。アークライト様よりお預した命令書はあるが、我らの身分では信じてもらえぬ可能性が高い。ならば、魔族の動きを牽制しつつ、ルナという方を見張る方が良いかもしれん……)
彼は部下たちとリッカデール村に密かに潜入し、ルナを見張ることにした。
月魔族のヴァルマはウノたちの姿を見つけ、先手を打った。
しかし、思った以上に手練であり、この闇の中でも自分たちに勝機が小さいと判断する。
(何なの、あの獣人たちは!? 白の魔術師の仲間の獣人も厄介だったけど、こいつらの方が更に厄介だわ。それが六人も……どうして、こうついていないのかしら……)
彼女は悔しさのあまり、血が出るほど唇を噛み、その痛みで徐々に冷静さを取り戻した。
(向こうが隙を見せない限り、御子様をお連れするのは難しそうね。でも、隙を見せるような相手でもなさそう……それにしても、どこから湧いてきたの? こんな敵がいるなんて聞いていないわ……)
彼女はリッカデールでルナを拉致することを諦め、別の手段を考え始めた。
(あれほどの手練が移動中に隙を見せることは考えにくいわ。だとしたら、別の方法を考えないと……私に残された手駒は……あの女たちがいるわ。街の撹乱に使おうと思っていたけど、優先順位は御子様の確保。あの冒険者たちと娼婦を使って……でも、御子様の周りにあの獣人たちがいるなら、手が出せないわ。何とかして引き離さないと……)
彼女はカースティのパーティが既に捕らえられ、傀儡の魔法を解除されていることを知らなかった。
リッカデール村で偵察を命じられていた冒険者たちの下にギルドからの伝令のビリーがやってきた。
ビリーはすぐにリーダーたちを集め、ランダルの命令と称して、ヴァルマに命じられた嘘の命令を伝えていく。
「ランダルさんからの命令は、毎日二組ずつ引き揚げさせると言うものだ。まずは、ハワードのパーティとヘーゼルのパーティが明日の朝一番にペリクリトルに向かう。その次は……」
その説明を聞いたヘーゼルが疑問を口にした。
「明日の朝引き揚げるのはいいとして、何で二組ずつなの? 理由は何?」
「俺も詳しくは聞いていないんだ。アークライトとか言う参謀が決めたことだって話なんだが、俺みてぇな学のねぇ奴にはあんな頭のいい奴の考えは分からんよ。知りたければ、帰ってから聞いてくれ」
ヘーゼルはその説明に納得できないものの、彼に聞いても分からないと矛を収めた。
(レイやアシュレイがドクトゥスから戻って来たのかしら? それにしても参謀になっているなんて。まあ、レイなら分からないでもないけど……でも、おかしいわね。レイなら絶対理由を言うはずなのに……)
ヘーゼルは部屋に戻り、自分のパーティメンバーに明日引き揚げることを告げた。
獣人の剣術士のファンは特に何も言わなかったが、ハルバート使いのライアンは、レイがペリクリトルに戻り、更には参謀になっていることに驚いていた。
「本当なんですか? あいつが戻ってきてるって。それも参謀になっているって……」
ライアンの問いにヘーゼルは微笑みながら、
「伝令から聞いただけだから、詳しくは知らないんだけどね。でも、彼ならランダルさんの参謀になっていてもおかしくはないわよ」
ライアンは悔しそうな顔を見せるが、それ以上何も言わなかった。
そして、ルナが徐に口を開いた。
「あの人が関わっていることはともかく、どうして二組ずつなのかしら? 街が危険で少しでも戦力がいるなら全部のパーティに帰還命令が出るはずでしょ。ここでの偵察が必要なら、中途半端に引き揚げさせる理由が分からないわ」
ヘーゼルは「そうね」と頷き、
「私もそう思ったんだけど、伝令も命令を持ってきただけだから、詳しくは知らないって言うのよ。ランダルさんらしくもないし、レイらしくもないから……」
歯切れの悪いヘーゼルにルナが「伝令が偽物ってことはないんですか?」と聞いた。
ヘーゼルは「それはないわ」と首を振り、
「オーブの確認もしたし、命令書は確かにランダルさんの署名が入ったものだった。まあ、命令書には“偵察に出ているパーティはすべて引き揚げること”としか書いてなかったんだけどね」
ルナは「そうですか……」と呟くが、それ以上議論しても無駄だと話を打ち切った。
これ以上質問がないと判断したヘーゼルは、
「それじゃ、明日の朝一番に出発するから、今日はゆっくり休んで。私はハワードと打合せをしてくるから」
そう言って部屋を出て行った。
残されたルナは、レイが戻ってきたことについて考えていた。
(ドクトゥスでの調べ物が終わったのかしら? でも、それはあのエルフの教授が来たから、それで解決したと思っていたんだけど。それとも……)
彼女はレイが自分に言った言葉を思い出していた。
(私が魔族に狙われているって言っていたわ。私を守るために戻ってきた? それは無いわね。街を守るために戻ってきたってところかしら。でも、少しだけ気になるわ……)
彼女はライアンの視線に気付き、今の考えを否定する。
(私はレイを否定したの。だから、戻ってきたのは街を守るために決まっているわ。何を考えているのかしら、私は……)
十二月十七日。
その日は朝からみぞれ混じりの雨が降っていた。
出発の準備を整えたヘーゼルたちは、もう一組のパーティ、ハワードたち五人と、伝令のビリーと共にリッカデールの門を出て行く。
彼女たちは気付いていないが、彼女たち十人の周囲をウノたちが警戒し、更にその後ろを月魔族のヴァルマ・ニスカたちが追いかけていた。
ヴァルマはウノたちの隙の無い厳重な警護の前に、やはり隙はないと諦め顔で彼らを見つめていた。
(やはり無理ね。この距離でもこちらに気付いていそうだし……ここでハーピーはともかく、虎の子の翼魔を失うわけにはいかない。手駒はカースティ冒険者のパーティとペリクリトルの娼婦ミッシェル、そして、昨日の伝令の男がいる。傀儡針――傀儡の魔法用の魔道具――の残りも少ないし、今ある手駒を有効に使わないと……)
ヴァルマはリッカデール街道でルナを拉致することを諦め、ペリクリトルに先回りすることにした。




