第八十一話「火種」
十月二十二日、午前六時
護泉騎士団第八大隊第二中隊長は、引継を受けるべき第三中隊長であるリッジウェイが、詰所におらず、誰からも引き継ぎがないことに不審に思っていた。
彼はリッジウェイを探させるとともに、アーウェルのいる懲罰房に向かい、囚人の安否を確認する。
最初、背中を向け寝ているアーウェルにホッとしたが、すぐに不審に思って中を検めた。彼はそこでアーウェルの服を着せられた若い兵士の姿を見つける。
「アーウェル・キルガーロッホが逃走した! ブレイブバーン公に至急、お知らせしろ!」
ブレイブバーン公はアーウェル・キルガーロッホの逃走の報を聞き、言葉を失う。
(キルガーロッホ家に引き渡す前に……抜かったわ。これは拙いことになる……)
彼はすぐに非常線を張ることと命じ、更に国王にも第一報を届けさせた。
一時間後、少しずつ彼の下に情報が集まってくる。
逃走を助けたのが、第八大隊のリッジウェイ中隊長であり、彼は既に王城から抜け出していることが確認された。
更に三十分後には、王都の西門からリッジウェイらしき騎士が出ていったことを聞かされ、公爵の心の中に絶望が広がっていく。
(完全に逃げられたようだ……この先、捕縛することができれば良いが、もし、行方が判らぬままなら……)
彼はその暗い未来が現実のものになると感じ、どう収拾するべきか頭を悩ませていた。
午前八時。
ブレイブバーン公は、国王ライオネル十二世にアーウェル・キルガーロッホ逃走の報告をした。
国王は彼の言葉を聞いた後、暫し言葉を失った。
「そ、それは真なのだな……騎士団は何をしておったのだ!」
公爵は頭を垂れたまま、国王の叱責に耐える。
「すぐにアーウェルの脱走を公表せよ! 騎士が手引きしたと発表するのだ!」
公爵は「御意」と短く答え、国王の下を去る。
(これでは解決にならん。真実を公表したとしても、王家とキルガーロッホ家が共謀して、かの者を逃がしたと思われるだけだろう。さて、どうしたものか……)
ブレイブバーン公は、国王の命令通り、アーウェルの脱走を公表した。
首謀者は第八大隊第三中隊長で、キルガーロッホ家の家臣の一人であることも併せて発表した。
下級騎士、市民たちの反応は、冷ややかだった。
公爵の予想通り、国王とキルガーロッホ家が共謀し、有耶無耶にしようとしているとの噂が流れ始める。
キルガーロッホ家にも直ちにその情報が伝えられるが、オーガスタ・キルガーロッホ公爵は、自らの関与を否定した上で、騎士団の不手際に対し、公式に抗議を伝えた。
(今回、我がキルガーロッホ家は何もしていない。これは騎士団及び王家の不手際。我らはアーウェルの身柄を正式に要求し、公開処刑を行うとまで公表している。我らに何の落ち度もない……)
だが、その一時間後の午前九時、キルガーロッホ公爵邸でリッジウェイらの遺体が発見される。
公爵はその報を聞き、頭を抱えていた。
(首謀者が我が屋敷で自害だと……これでは儂がアーウェルの逃走を助け、実行犯から情報が漏れぬよう始末したように見えるではないか……儂がアーウェルを逃がすメリットなど何もない。これは陰謀だ。だが、誰の……)
彼は、キルガーロッホ家を陥れようとする陰謀だと考え始めていた。
だが、その陰謀を証明する証人は存在せず、アーウェルの手掛かりすら掴めない。
(世間は儂がアーウェルを匿ったと見るだろう。儂には、それを覆す手立てが無い。ならば、陰謀を仕掛けた相手を見付けだすしかなかろう……これを行う可能性があるのは、インヴァーホロー公くらいか……)
午前十一時。
アーウェルの脱走が公表された午前八時以降、王宮前とキルガーロッホ公爵邸前には、市民たちが集まり始めていた。
さすがに王宮前で騒ぐものはいなかったが、不穏な空気が流れ、門を警備する衛士たちも緊張のため、背中に冷たい汗が流れ続けていた。
一方、キルガーロッホ公爵邸前の市民は、更に不穏であった。
最初は罵声をあげるなどの行為は慎んでいたが、徐々に人が集まるに従い、僅かな切っ掛けで決壊する堤防のような状態であった。
そして、先遣隊の遺族の一人が静かに悔し涙を流したことが、その切っ掛けとなった。
「どうして……私の夫はあの男に殺されたのに……どうして……」
一人の男がその様子を見て、声を上げる。
「アーウェル・キルガーロッホを出せ! あのクソ野郎を! この人に、先遣隊の英雄たちに謝罪させろ!」
その声が市民たちの間に響き渡る。
すぐに数倍の罵声が上がり、一気に物理的な圧力を覚えるほどの大音量に変わる。
公爵邸を警備していたのは、キルガーロッホ家子飼いの兵士たちだが、彼らもアーウェルの行いを快く思っていなかった。
だが、彼ら兵士たちの上に立つ、二十代前半の若い指揮官――キルガーロッホ家の縁者イートン・マッカラム――は、自分たちを見つめる平民たちの蔑みを込めた目に怒りを覚えていた。そのため、彼らの声には一切耳を貸さず、彼らを排除するよう兵士に命令を下す。
「ここは筆頭公爵家であるキルガーロッホ公爵閣下の屋敷である! 無暗に騒がすな! 抵抗するようなら、実力を持って排除しろ!」
彼の命令により、数十人の兵士たちが、数百人の市民たちを槍や棒で脅して、屋敷前から追い払っていく。
最初は渋々ながらも従っていた市民たちだったが、指揮官の不用意な言葉で一気に怒りのボルテージが上がっていく。
「貴様らは、そうやって我らに従っておればよいのだ。貴様らが生きていけるのは、我らの慈悲であると感謝しろ」
その言葉は決して大きな声ではなかった。だが、近くにいた元傭兵の隻腕の男が、それを聞きとがめる。
「今、何て言った! 俺たちが生きていられるのは、お前ら貴族の慈悲のおかげだと! この奥さんの旦那が死んだのも、お前らの慈悲だと言うのか!」
隻腕の男の叫びに、近くにいた若い男が兵士に詰め寄る。
それを切っ掛けに、大人しく従っていた市民たちも強く反発し、兵士たちに詰め寄っていった。
マッカラムは、平民たちがその言葉に強く反応するとは考えておらず、更に強気に出ることで、事態を収拾しようとした。
「これ以上逆らえば、叛乱を企んだ罪で処罰するぞ! 今すぐ、この場を立ち去れ!」
人生経験が皆無と言えるマッカラムは、騒ぐ市民たちが何を求めているのか、全く理解できていなかった。彼らはアーウェルらの行いに対する憤慨と、戦死者たちへの哀悼の気持ちを共有したかっただけなのだ。
そのことを理解できない彼は、兵士たちに武器の使用を許可する。
「これ以上逆らうものには、武器の使用を許可する。何人か殺せば、大人しくなる。これ以上騒ぎを広げさせるな!」
兵士たちはその命令に困惑する。
年嵩の兵たちは剣を抜かず、槍の柄や石突きを使って、市民たちを制御しようとしたが、若い兵士は指揮官の命じる通り、剣を抜いてしまった。
「馬鹿野郎! 剣を収めろ!」
ベテランの兵士がそう叫ぶが、既に遅く、市民たちは剣を恐れて逃げようとする者と、怒りを抑えきれず、兵士に掴みかかろうとする者に二分され、屋敷前は怒号が響き渡っていた。
「助けて! ここを通して!」
「キルガーロッホが王都の民を殺そうとしたぞ! 奴は国賊だ! 公爵を引き摺り出せ!」
「静まれ! これ以上は叛乱だぞ! 落ち着くんだ!」
遂に一人の兵士が、若い職人風の男に剣を突き立ててしまった。
「ギャアア! こ、殺さないでくれ!」
混沌とした空気の中、彼の悲鳴が辺りに響いていく。
その悲鳴を合図に、集まった市民たちは暴徒と化して、公爵邸を警備する兵士に襲い掛かるように迫っていった。
キルガーロッホ公は、屋敷前に市民たちが集まっていることに気付いていたが、国王やブレイブバーン公への対応に意識が向き、致命的な状況になるとは思っていなかった。
彼が気付いたとき、既に暴動が始まっていた。
「何が起こっておるのだ! すぐに対処せんか!」
彼の叫びが屋敷内にこだまするが、屋敷の外の騒ぎは収まる気配を見せなかった。
(なぜ、これほど早く民たちが集まったのだ? やはり、誰かの陰謀か……)
時は一日前に遡る。
十月二十一日、正午。
ブランドン・インヴァーホロー公爵は、アーウェル・キルガーロッホの処分が発表されることを受け、この機にライバルであるキルガーロッホ家の勢力を一気に削ごうと考えていた。
(陛下もキルガーロッホも誤った……今こそ、我がインヴァーホローが四公爵家の頂点に立つ。その後は……)
彼は黒い笑みを浮かべながら、この絶好の機会を生かすことに思考を戻す。
(まずはキルガーロッホ公を追い詰めねばならん。奴は貴族たちには絶大な影響力を持つが、平民、特にここ王都の市民たちに影響力は持たぬ。商人たちを使って噂を流し、市民たちの怒りに油を注げば、奴は対処に苦慮するだろう。少しばかり暴動が起こったほうが良いな。一日程度で収まるほどの……)
彼は自分が動かしうる商人たちの顔を思い浮かべる。
(大商人では平民たちも動きにくかろう。ギルドを使うか、それとも偶然を装って、噂を流すか……いずれにしても情報を流すのだが、どうすべきか……)
そして、利に聡い大商人を動かすことを思いつく。
(大商人たちに暴動の恐れがあることを匂わせる。これで奴らは食料品などを買占めに掛かるだろう。そうなれば、露天商たちは何が起こっているのかと噂を始める。そこにキルガーロッホの屋敷で暴動が起こる恐れがあると噂を流せば……)
彼は家臣の一人に商業ギルドに所属する食料商たちを呼び出すよう命じた。
午後二時。
商人たちが集まると、インヴァーホロー公は商人たちに向かって演説を始めた。
「諸君らもすでに噂で聞いておるであろう。アーウェル・キルガーロッホの処分の話だ」
商人たちは皆頷くが、自分たちにどう関係あるのか首を傾げていた。
「恐らく本日中には正式に処分が発表されるが、この処分の内容は噂どおり、キルガーロッホ公に一任される。この決定に王都の民たちは納得しまい。そうなれば……」
彼は商人たちの顔を見回しながら、言葉を一旦切る。
「最悪、暴動の可能性がある」
その言葉に商人たちは一様に顔を顰める。
彼らにとって、治安の安定は商売の基本であり、暴動などが起こると、警備強化や流通の停滞などでコストが嵩む恐れがあるからだ。
インヴァーホロー公は彼らの顔を確認し、理由を説明していく。
「現在、護泉騎士団の主力は魔族討伐に出陣しておる。騎士団長、副団長も不在だ。普段であれば、民たちが多少騒いでも抑えられる。だが、今はその抑えがおらぬのだ。もし、陛下のご裁断を不服とする者が現れれば……王都で暴動が起こってもおかしくはない」
彼は一旦話を止め、もう一度商人たちの様子を窺っていく。
商人たちは、その情報について必死に頭を回転させ、帰ってからの処置について、検討を始めていた。
そこで、彼は王都での暴動に備え、流通の強化を説き始める。
「民たちの怒りはキルガーロッホ家に向かうだろうが、暴徒の中にはそれに便乗して荷馬車を襲うものも出るかもしれぬ。特に明日の午後にアーウェル・キルガーロッホが引き渡される辺りが危険だろう。まずは警備を増やすことを考えよ。更に、民たちへの食料などの供給を止めてはならんし、値上げも程々にせよ。警備に掛かる経費は仕方あるまいが、暴徒ではない一般市民たちを追い詰めぬよう、特に食料の供給には細心の注意を払ってほしい。長期的に供給が滞ることなきよう、よろしく頼む」
彼はそう話しながら、心の中では別のことを考えていた。
(この発言だけなら、私は民の味方になって物価の上昇を抑えているように見える。だが、商人たちの取り方は違う。こいつらは警備の費用を上乗せすることを私が認めたと取るはずだ。更に長期的に食料を供給する体制とするためと称して、明日には食料の放出量を減らすだろう。そうなれば、まず露天商たちが騒ぎ始める……)
彼は自ら火をつけておいて、火を消した功労者となろうとしていた。
(……そして、それを聞きつけた市民たちにその情報が渡っていく……キルガーロッホの屋敷で暴動の可能性があると聞けば、お調子者の野次馬どもが集まっていく。後は勝手に大きくなっていくだろう。いくら、騎士の多くが出払っているとはいえ、市民の暴動を抑える程度の戦力はある。暴動が始まりそうになった段階で、私がキルガーロッホ公の隠居の話をすれば、私の株はおおいに上がる……)
公爵の話が終わると、商人たちは急いで店に戻っていった。
そして、彼の思惑通り、商人たちは食料品の備蓄量を確認し始め、更には翌日の物資の輸送計画を見直していった。
翌、十月二十二日の朝。
仕入れにいく露天商たちは、大手の商会が食料品、特に小麦粉など備蓄の利く食料の供給量を抑えていることに気付く。値段も僅か一日で二割ほど値上がりしていた。
「いつも通りの値段で売ってくれませんかね。頼みますよ」
屋台を営む露天商が、若い事務員を捕まえ、拝み倒す。
「旦那様より、この値段で、しかも、いつもの半分しか売りに出すなって言われているんですよ。こっちも困っているんですよね」
「俺たちは手元にほとんど在庫を持たないんだよ。これじゃ、おまんまの食い上げなんだ」
「そうは言っても……ここだけの話ですがね、西のお屋敷街で騒動が起きそうなんだそうですよ。だから、今日は屋台を出しても売れないかもしれませんよ」
「西のお屋敷? キルガーロッホ公爵のところの話か?」
「詳しくは知らないんですが、どうやら、昨日、インヴァーホロー公爵様がそのことにお心を痛めておられるそうで、そのお話をうちの旦那様は聞いてきたみたいなんですよ」
露天商はその話を聞き、今日の商売を諦める。
そして、その話を知り合いの露天商たちに話し始めると、更なる噂が加わっていく。
「今朝は妙に騎士団が騒がしいと思わないか? 聞いた話じゃ、すべての門で検問が厳しくなっているってよ」
「インヴァーホロー公の話と関係あるのかもな」
そして、午前八時を過ぎると、更にアーウェルの逃亡の知らせが加わっていく。野次馬を含め、市民たちの多くが、王宮やキルガーロッホ公爵邸に向かい始めていた。




