雨の中
愛する妻へ。
もしもこのページを開けたなら、笑っても構わないから、どうかこの先も読んでほしい。これはただの思い出話だが、私にとっては大切なことなのだ。
彼に初めて会ったのは、土砂降りの雨の日だった。初めて会った時、雨宿りの小屋の薄明かりの下で、あの人は確かに微笑って居た。
その頃の私は莫迦な少年で、悪童で、五年ぶりの帰郷の途中だった。所詮十七の童である。一人で居るのに慣れていなかった私は、だから、雨の薄闇の中で彼に会えて嬉しかった。
小屋の中で私達は、いろいろな話をしたと思う。故郷のこと、旅のこと、家族のこと、恋のこと、朋輩のこと。
小屋の床にランプを置いて、その橙色の光の中で、彼が故郷に居る家族の話をしたから、私は幼い頃からずっと想いを寄せていた貴女のことを、彼に話したのだ。また彼が今まで旅した土地のことを話してくれたから、私は十二の頃から働きに出ていた工場の、赤ら顔で小柄な親父さんのことを話した。
そうやって他愛のない話をして雨の一夜をやり過ごし、翌朝は小降りになった雨の中を二人、発った。
私達は、そこから一緒に旅をした。彼の故郷が、私のこの村からさらに北へ上った所だと聞いたからだ。彼もまた帰郷の旅の途中であったのだ。
旅の途中で、何度も彼の笑顔を見た。私よりもずっと年上なのに、笑うとまるで同い年のように見えるのが不思議だった。目下の私のことを見下したりするようなことは決してせず、常に対等に扱ってくれた。良い友に出遇えた、と言って微笑った。
私は彼を尊敬していた。彼が好きだった。一緒に居たのは十日ぐらいのものだったが、それでも私は彼を尊敬していたのだ。師のように慕っていた。
そう――だから故郷に、この村に帰ってきた時、私は本当は彼を行かせたくなかった。ここに居てほしいと願った。願ったけれど、彼が家族に会うのを楽しみにしているのを知っていたから、口には出さなかった。否――出せなかったのだ。
この村で彼は一泊して――貴女は彼に会ったろうか?彼の、あの柔らかな笑顔を見ただろうか?――翌日、やはり柔和な笑みを湛えて、彼は私に別れの挨拶を述べたのだ。
私はやはり淋しかった。しかしその感傷も、家族や貴女との再開の喜びを噛み締めているうちに消えていった。
貴女は覚えているだろうか――。
帰って来た翌々日――あの人が去った次の日は、村祭りの日だった。私が貴女に求婚した日だ。
白状しよう。私は貴女に好かれていると思えなかったから、半ば玉砕覚悟の上での求婚だったのだ。ところが意に反して、貴女は私の願いを聞き届けてくれた。今――思い出すなら恥ずかしいだけの、青臭い言葉の羅列に、たった一言だけ貴女は応えてくれた。
ええ、喜んで――と、そう貴女は言ったのだ。
そうして私は妻を得て、子供を得た。手に職をつけ、家族を養う幸福を覚えた。
だが――噫。だが――。
私は彼を忘れていた。雨の中で出会った彼、共に旅をした彼、家族の話をして嬉しげに微笑んでいた彼のことを――私は忘れていたのだ。
二度目に彼に会ったのも、やはり雨の日だった。初めて会った時から二十年は経とう。
私は雨合羽に身を包み、だから雨宿りはせず、故に――激しい雨に濡れそぼって立ちすくんでいた彼の前を、通り過ぎて行こうとした。彼は私に声をかけた。
ああ、君は――そう彼は言った。しかし私は、それが誰だかわからなかったから、ただじっと立っていた。
雨の中、ただ黙ったまま。
雨のせいで彼の表情はわからなかったけれど、微笑っては居なかったように思う。むしろ、今から考えれば――泣いていたかもしれない。
しばらく無言で立ち竦んでから、私は彼に、雨宿りしたいのですかと尋ねた。彼はゆるゆると首を振って、穏やかなよく響く声で、いいえもう善いのです、さようなら、とそう言った。
そしてゆっくりと南へ足を向けて、一度も振り返らずに去って行ったのだ。
思い出したのはその日の晩だ。隣の村で用事を済ませて、帰宅して貴女の顔を見た時に。あの明々とした橙のランプの色とともに――まざまざと。鮮やかに。
私は――追い掛けようと思ったのだ。彼は微笑ってはいなかったから、忘れた私を怒っているのかもしれないと、そう思った。だから私はその時、彼を追い掛けよう、そして詫びねばならないと、そう思ったのだ。
だが、貴女も知っての通り、私はそうしなかった。私はあの時と同じように――ただひたすらに、悠然とした彼の姿に憧れた、青臭い少年の日のままに――彼のことが好きだった。尊敬していたし、憧れてもいた。
でも――。思い出せば思い出すほどに、私には彼が、まったく変わっていないとしか思えなかったのだ。印象の話ではない。彼は歳をとっていなかった。私は二十年前の彼と同じくらいの年齢になっていたから、彼はとうの昔に老人になっていた筈なのに――私と同じくらいの年齢に見えたのだ。
貴女が知っているように、私は臆病者だ。そしてまた卑怯者でもある。
怖かったのだ。
彼がもしも、人とは違うものだったなら――と、そんなふうに私は考えたのだと言ったら、貴女は笑うだろうか。
私はあの時彼が哀しい顔をしたわけを、考えないようにして今まで生きてきたのだ。
彼に二度目に会った日、私は貴女に彼のことを話した。勿論、ただ昔の友人を気づかずにやり過ごしてしまった、悪いことをした――と、そう話しただけで、彼が歳をとっていないように見えたなどという戯言は言わなかった筈だ。
あの時、ねぇ貴方それで良かったの――と聞いた貴女に、もう昔のように青臭く生きては居ないからと、そう答えたように思う。言い訳だ。私はただ、彼が怖かっただけだ。
だから今こうして、この話を書き付けているのも、何処かに変わらずに生きているかもしれない彼への、卑怯で幼稚な言い訳だ。忘れたふりをして生きるには、私は弱いのだ。いつまで経ってもあの日の雨の中に、白く煙る景色の中に閉じ込められているようで、苦しいのだ。
だから――明日か明後日か、近いうちにきっと私が死んだ後で、貴女がもしもこの日記を開いてこれを読んだなら、信じてくれとは言わない、覚えていてほしいのだ。あの雨の日から抜け出すために、他の誰にも言えないから、こうして貴女に託そうとしている卑怯者だ、私は。
だから――そう。耄碌した老人の戯言と、そう思ってくれて構わない。ただ、老い先短い莫迦な夫の我が儘だと思って、覚えていてほしいのだ。
そして最後に――。私は無粋な人間だから、気の利いたことは言えないけれど。
こんなにみすぼらしく老いて、病で動けなくなっても猶、ずっと付き添ってくれた貴女に、私は感謝している。有難う。
私の妻アイリスへ――愛を込めて。
こーんにちーは!
何か変なものを書いてしまいました。なにこれ、何小説?って感じで、粗筋には「幻想小説」なんて書いてますがまずジャンルが不明です。ホラーなのか……?
というわけで、一応ホラーです。
それはそうと、今回こっそりルビで遊んでみました。あまり洒落たルビのふりかたは出来ないんですが、まあ大目に見てください。
感想いただけると涙ぐみます。馬鹿のように喜びます。
では、ありがとうございました。