エピローグ 0秒、手を離す
エピローグ
0秒、手を離す
10:15:00
受話器は、思っていたより重かった。
スピーカーの声はまだ何か言っている。佐伯は会議窓を最小化した。それだけで、整いすぎた声は小さな箱の中へ引っ込んだ。
番号表は見ない。真鍋の席の内線は、指が覚えている。
一桁。二桁。三桁。
呼び出し音は一度でつながった。
「はい、真鍋」
チャットの二文字よりずっと荒い声だった。少し鼻にかかって、返事の前にほんの短く息を吸う。
「今、役員会の接続流してるの、お前か」
受話器の向こうで、真鍋が黙った。
半拍遅れて、返る。
「は? 何の話だ」
「承認しろってチャットが来てる。お前の名前で」
「送ってねえよ」
今度は即答だった。
「役員はまだ会議室にも入ってない。そっち開くな。いま情シス呼ぶ」
そこで真鍋は、一度だけ言葉を切った。
「……お前、入ってないよな」
「入ってない」
「本当だな」
「本当だ」
短い沈黙があった。
疑われているのか、案じられているのか、佐伯には区別がつかなかった。たぶん真鍋の方でも、区別はついていなかった。
「……ならいい」
それで切れた。
偽だったと分かったことより、別の線で確かめられたことの方が、佐伯には大きかった。
スマホを取る。
母の番号。昔から変えていない名前。
呼び出し音が鳴る。
一度。二度。三度。
出ない。
留守番電話の案内が流れ出す前に、佐伯は自分で切った。
その数秒のあいだに、まだ来ていないはずのものが、まとめて喉元までせり上がった。
凍えたハンドルの冷たさ。焦げた鍋の匂い。
緑から黄へ、黄から赤へ落ちていく輪。
「軽微な生体変動」という、きれいな一行。
かけ直す。
一度。二度。
「……もしもし」
完璧ではない声だった。
少し遠く、受話器を持ち直す衣擦れが混じる。耳が遠くなった人特有の、相手の出方を半拍待つ間がある。語尾の手前で、わずかに息が引っかかる。
「おふくろ」
「ああ、あんた」
美津江は言った。
「ごめんね、台所にいて。寒いねえ、そっちは。雪? こっちはまだだけど、朝から膝がね。あんた、朝ごはんちゃんと食べた?」
用件より先に、どうでもいいことが三つ来た。
いつもなら、そこで受話器を耳から少し離していた。早く本題に入ってくれと思いながら、相槌だけを打っていた。
いまは、その三つが、どんな認証より確かだった。
「食べた」
佐伯は言った。
「それより、さっき変な電話あったろ」
「そうなんだよ」
母の声が、ようやく用件の高さまで上がる。
「あんたみたいな声でね、事故に遭ったから急いで手続き開けろって。なんだか妙で、怖くなって切っちゃったよ。それで、あんたに打ったの。あんたじゃないって言って、って」
最後のところだけ、母は少し早口になった。
不安の形まで、本物だった。
「正解だよ」
佐伯は言った。
「切ってよかった」
「そうかい」
向こうで、息が緩む。
「よかった。あたし、また変なことで騒いだかと思って」
また。
その一言で、いつかの夜が戻ってきた。声を真似る詐欺の特集を、母は不安そうに見ていた。うちも何か決めとくかい、と笑って言ったのを、自分は大げさだと笑い返した。笑っていたのは安心していたからではない。想像する手間を惜しんだだけだった。
「騒いでない」
彼は言った。
「ちゃんと気づいてくれて、助かった」
電話の向こうで、美津江が少し黙る。
褒められると思っていなかった人の黙り方だった。
「……あんた、今日どうしたの」
母が訊く。
「なんだか優しいね」
「今日は、そういう日なんだよ」
情シスの報告は、昼前に届いた。
会議接続は偽装。役員名義の音声は合成。真鍋のチャットアカウントには、なりすましの痕跡。あと三十秒遅ければ、承認導線の次の段階まで入っていたかもしれない。
佐伯はそれを聞きながら、驚くより先に、受話器の重さを思っていた。
ほんの数秒、手を離しただけだ。
それだけで、雪も、赤い輪も、母の沈黙も、まだ起こらずに済んだのかもしれない。
席を立つ前に、画面の縁から付箋を剥がした。
付箋は、思ったより素直に剥がれた。指の腹に、少しだけ粘りが残った。佐伯はそれを折らずに、財布の内側へ入れた。落とさない場所に。
夕方、残業を断った。
チャットに一行だけ届いた。
真鍋:今日は帰れ。
句点がついていた。
家へ着くと、結衣が先に卓についていた。
宿題を半分残し、赤鉛筆を転がしたまま、待っていたらしい。流しに茶碗の水音が残り、台所では味噌汁の湯気が細く立っている。白くもなく、均質でもない、普通の家の夕方だった。
「おかえり」
結衣が言う。
「今日はほんとに早いね」
「約束したからな」
佐伯は上着を脱ぎ、財布から付箋を出して、卓に置いた。
こまったら つきに しお
丸い字。少し右上がりの青いインク。会社の白い光の下より、家の明かりの下の方が、少しだけ頼もしく見えた。
「あ、それ」
結衣が身を乗り出す。
「はがしてきたの?」
「なくすと困るからな」
結衣は少し驚いた顔をして、それから、何でもないふりをした。
「結衣」
「ん?」
「これ、おばあちゃんにも教えようか」
結衣の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、書いてあげる。見えるように大きく」
それから少し考えて、付け足す。
「でもおばあちゃん、つきにって言う前に、いっぱいしゃべるよ」
佐伯は笑った。
「それは……まあ、いいんだ」
いっぱいしゃべるから、分かる。そう言いかけて、やめた。説明するより、次の電話でそれを聞けばいい。
結衣はもう赤鉛筆を持っている。新しい紙を引き寄せ、前に書いたのと同じくらい慎重な顔で、端に小さな丸をひとつ描いた。
「パパ」
紙から顔を上げる。
「月って、漢字むずかしいから、丸でもいい?」
「いいよ。分かれば」
「じゃあ、おばあちゃんの分は、もっと分かるようにする」
分かるようにする。
それでよかったのだ。最初から完璧にするのではなく、互いに分かるように、不格好な手間を少しずつ足していく。
たぶん、これで大丈夫だ。
明日になれば、また何かが急かしてくる。そのときもまた、手を離して確かめればいい。
外ではまだ風が少しあるらしく、窓がときどき細く鳴った。
卓の上には湯気の立つ椀があり、赤鉛筆があり、剥がしてきた青い付箋と、書きかけの新しい紙が並んでいる。
その夜、結衣の書いた新しい紙は、食卓の端でまだ乾いていた。




