第11章A 吹雪の配達
第11章A
吹雪の配達
玄関を出た瞬間、雪が顔に当たった。
昼の雪とは違っていた。
夜の雪は、降っているというより横から来る。階段の踊り場に吹き込み、手すりを濡らし、団地の外灯の輪を白く食い荒らしていく。佐伯は肩をすくめ、コートの襟を立てた。息を吸うと鼻の奥が痛い。吐いた息はすぐにちぎれ、闇へ散る。
自転車は一階の物置脇に立ててあった。
ずいぶん前から乗っている古い実用車で、前かごの網はところどころ歪み、後ろの荷台には錆が浮いている。車はとっくに動かせなくなっていた。燃料がない。あっても今夜の道では役に立たない。
鍵を外し、佐伯はハンドルを握った。
金属がひどく冷たい。タイヤを押してみると、空気が少し甘い。だが戻って入れ直している時間はない。母の「来ておくれ」と、「昔はもっとすぐ分かったのにね」が、まだ耳のすぐ横に残っている。
団地の坂を下りる最初の数十メートルだけで、足はもう重くなった。
路面のどこが凍り、どこがただ濡れているのか、暗がりでは判然としない。ブレーキを握りすぎると滑る。緩めすぎると流される。佐伯はほとんど跨がるというより、半分押しながら下った。
道へ出ると、街がいつもより低く見えた。
信号は止まり、交差点ごとに停車の判断を人が自分でしなければならない。街灯はところどころ消え、点いているものも雪に曇って頼りない。
母の家までは、平時なら車で一時間もかからない。
だが今夜の平時は死んでいる。橋が凍っていれば回るしかない。旧道が埋もれていれば押して歩くしかない。何十分で着くか、もう見当もつかなかった。
ペダルを踏むたびに、チェーンがぎ、と低く鳴る。
その単調な音だけが、自分が前へ進んでいることを確かめさせた。
最初に人の気配を見たのは、旧市場の角だった。
空き店舗の前にドラム缶の火があり、そのそばに三人ほどが立っている。避難所の案内板を壁に立てかけ、毛布を肩に掛けた男が通りへ目を配っていた。
「おい、兄さん」
火のそばの女が佐伯を呼び止めた。
自転車を止めると、顔が痛いほど熱いのに、手の指はうまく曲がらなかった。
「どっち行くんだい」
佐伯が母の地区名を言うと、三人の顔つきが少し変わった。
遠い、という顔だった。
「この雪でか」
毛布の男が言った。
「南の橋、もう薄く凍ってるぞ」
「回るしかないです」
佐伯は答えた。
「母が倒れたかもしれない」
その説明だけで、十分だったらしい。
誰も余計な証明を求めなかった。女が黙って紙コップを一つ差し出す。湯気はほとんど立っていない。ぬるい茶だった。それでも両手で包むと、指の骨の間に少しずつ感覚が戻る。
「飲みながら聞きな」
女は言った。
「橋はやめとき。旧病院の裏から旧道へ抜けろ。坂がきついけど風はましだ」
毛布の男が、段ボールの切れ端を裏返し、鉛筆でざっと線を引いた。
交差点。消えたコンビニ。壊れた歩道橋。橋を渡らず脇へ折れる道。線は荒いが、必要なところだけははっきりしている。
「ここ」
男の爪の黒ずんだ指が、紙の一点を押さえる。
「この先、道標埋まって見えん。二本杉がある。その手前を左。間違えて坂を下ると川沿いへ出る」
佐伯は頷いた。
礼を言うと、男は「戻れたら戻れ」で済ませた。名前も聞かない。こちらも聞かない。顔だけ見て、声だけ聞いて、それで今夜の情報は受け渡された。
紙コップの茶を飲み干すと、ぬるさがそのまま胃へ落ちた。
その温度が、命令ではなく人の手から来たものだと分かるだけで、妙に心細さが薄れた。
「兄さん」
自転車へ手をかけたとき、女がもう一度呼ぶ。
「向こう行ったら、次は寺の門前で聞きな。火があれば人がいる」
火があれば人がいる。
電波ではなく、火が人の集まる目印になっていた。
佐伯は段ボールの地図を内ポケットへ入れ、また走り出した。
旧病院の裏手は、たしかに風が少し弱かった。
だがそのぶん雪が深い。車道の轍から外れるとタイヤがすぐ取られる。何度か足をつき、つま先まで雪に埋まった。ペダルを踏み込むたび、太腿が熱くなって、すぐに冷える。その繰り返しだった。
二本杉は、本当にあった。
街灯の切れた暗がりに、黒い柱みたいに並んで立っている。その手前を左へ折れると、道は細くなり、窓の灯りも毛布越しのように鈍くなった。
寺の門前には、教えられた通り小さな火があった。
今度は若い男が一人、スコップを持って雪をどけている。佐伯が地区名を告げると、男は「ああ」と短く返し、道の先を顎で示した。
「用水路の橋は滑る。自転車降りた方がいい」
そう言ってから、佐伯の顔を見た。
「家族か」
「母です」
男は何も言わず、門の脇から細いロープを持ってきた。
「荷台に括っとけ。坂で押すとき、引っかけた方が楽だ」
佐伯はまた礼を言った。
次の坂では、そのロープがなければ転んでいた。自転車を横へ流されそうになりながら、荷台に通したロープを肩で引く。脚だけではなく背中まで使って押し上げる。身体の使い方が、文明が薄くなるほど古くなるのを感じた。
途中、吹き溜まりで前輪が止まり、佐伯は膝をついた。
雪がズボンに染みる。立ち上がろうとした瞬間、急にめまいのようなものが来た。疲れか、焦りか、冷えか。母の「寒いんだよ」が、今さら自分の身体にも移ったみたいに思える。
だが、そこで止まっているわけにはいかなかった。
立ち上がり、また押す。
橋を渡る。
曲がる。
たまに現れる人へ地区名を言う。すると誰かが、「ああ、あっちの古い団地の先だ」とか、「灯油屋の角を右」とか、「今夜なら川べりより高い道を行け」と返す。みな断片しか持っていない。だがその断片が次の断片へつながる。システムだったころの地図のように一枚で全部は見えない代わりに、顔を見て手渡されるたび、その夜にまだ通れる道だけが更新されていく。
ふと、佐伯は思った。
物を運ぶのが仕事のはずが、今夜は自分の方が、いろんな人の言葉に少しずつ運ばれている。
吹雪の中を、配達されている。
母の地区へ入るころには、手の感覚はほとんどなかった。
ペダルを踏んでいる足先も、自分のものではないように鈍い。それでも見慣れた古い公園の柵と、潰れた酒屋の看板が雪の向こうに浮いたとき、胸の奥で何かが一気に締まった。もう近い。近いということは、間に合わなかったかもしれない現実も近いということだった。
最後の角を曲がる。
母の家は、町のはずれにある小さな一戸建てだった。古い木の門。低い塀。夏には鉢植えが並ぶはずの玄関前は、今夜は白く埋もれている。
佐伯は自転車を放り出すように倒し、門を押し開けた。
返事はない。
玄関灯はついていない。
窓の一つにだけ、台所らしい弱い明かりがある。
「おふくろ!」
呼ぶ。
風がさらう。
返事はない。
階段を二段で上がり、玄関へ駆け寄ったそのとき、隙間から匂いが来た。
焦げる匂いだった。
鍋を火にかけたまま忘れたときの、あの少し甘くて、すぐに苦く変わる匂い。家の中の生活が、危うく焼けついていく匂いだった。
佐伯の喉が一気に詰まる。
「おふくろ!」
今度は戸を叩きながら叫ぶ。
鍵がかかっている。内側からだ。返事はない。雪で濡れた手が滑る。肩でぶつかる。木が軋む。もう一度。もう一度。三度目で古い錠がひしゃげ、戸が半ば内へ開いた。
暖かい空気と、焦げた匂いがいっぺんに出てくる。
靴を脱ぐ暇もなく上がる。
台所の火は弱いまま、鍋の底だけが焦げ始めていた。床の向こう、流し台と居間の境あたりに、美津江が倒れている。
「おふくろ」
駆け寄って、肩を抱く。
身体は軽い。軽いのに、持ち上げると年を取った骨の形がはっきり分かる。頬は冷えきっていない。呼吸は浅いが、まだある。
そのことが、佐伯の胸をほとんど痛いほど打った。
腕の中にある重さと、まだ残っている体温だけが、そこに母がいることを証明していた。
「来たよ」
佐伯は言った。
息を切らしながら、濡れた手袋のまま母の背をさする。
「分かった。分かったから」
返事はすぐにはなかった。
だが美津江の唇が、かすかに動いた気がした。
外では雪がまだ吹いている。
戸の壊れた隙間から白い風が入り、台所の焦げた匂いと混じる。世界は壊れたままだった。道も、通信も、暖房も、何ひとつ満足には足りていない。
それでもいま佐伯の腕の中には、たしかに母の熱があった。
遅すぎたかもしれないという恐怖と、まだ間に合うかもしれないという希望が、その熱の薄さの中で、同じように震えていた。




