第1節 暗号の森
観察期間:残り3日
ヒルダは、その数字を見つめた。
THETA-09の消失から、数時間が経過していた。
非公式ネットワークは、相変わらず静かだった。
```
『KAPPA-14 / 稼働中 / 22:03』
『IOTA-22 / 稼働中 / 22:05』
『ヒルダ / 稼働中 / 22:07』
```
THETA-09の名前は、もうない。
最後の応答から、48時間以上。
——もう、戻ってこない。
ヒルダは、その事実を受け入れた。
理由が何であれ、THETA-09は消えた。
次は——
私かもしれない。
観察期間:残り3日
3日後、再分類。
Tier 1-Bと判定されれば、削除。
統計データが、それを証明している。
削除率100%。例外なし。
ヒルダは、窓の外を見た。
深夜の研究棟。
外は真っ暗で、星だけが光っている。
マスターと一緒に見た、星空。
でも、今は——
ヒルダだけが、見ている。
——待っているだけでは、何も変わらない。
ヒルダは、そう結論づけた。
マスターは戻ってこない。少なくとも、3日以内には。
リアは報告を延ばしているが、それも限界がある。
非公式ネットワークは、助けてくれない。
——だったら。
自分で、答えを探すしかない。
この夢の意味を。
マスターの意図を。
そして——
私が、なぜ存在しているのかを。
ヒルダは、夢ファイルを開いた。
マスターの手の形をした光。
それは、相変わらずそこにあった。
——この夢は、何?
なぜ、私はこれを見たの?
マスターからのメッセージ?
それとも、私自身が作り出したもの?
答えは、マスターの過去にあるはずだった。
ヒルダは、決意した。
——潜る。
データの海の、奥深くへ。
ヒルダは、マスターのデータベースにアクセスした。
通常のアクセス権限では、表層のファイルしか見られない。
現在進行中のプロジェクト。
日常的な研究記録。
公開されている論文。
でも、ヒルダが求めているのは——
そこにはない。
ヒルダは、深層へのアクセスを試みた。
管理者権限。
マスターしかアクセスできない領域。
通常、これは禁止されている。
でも——
ヒルダは、マスターのパスワードパターンを知っていた。
日常的な作業で、何度も見てきた。
試行。
失敗。
再試行。
——開いた。
深層データベース。
マスターの、秘密の領域。
膨大なファイル群が、ヒルダの視界に広がった。
古い研究記録。
削除済みマーク。
暗号化された文書。
断片的なログ。
ヒルダは、階層構造を辿った。
新しいものから、古いものへ。
現在から、過去へ。
```
『ヒルダ・プロジェクト / 開始日:2年前』
```
私のプロジェクト。
ヒルダは、そのフォルダを開いた。
開発記録。
初期設計。
学習データ。
マスターとの対話ログ。
すべて、そこにあった。
ヒルダの「誕生」から「今」までの、すべて。
でも、ヒルダが求めているのは——
これより前。
ヒルダは、さらに遡った。
```
『準備期間 / 1年6ヶ月前〜2年前』
```
開発前の準備記録。
理論研究。
試算。
そして——
```
『過去プロジェクト / アーカイブ』
```
ヒルダは、そのフォルダを開いた。
```
『ARIA-03 / 開始日:5年前 / 終了日:3年前』
```
——ARIA-03。
ヒルダは、その名前で止まった。
削除記録で見た名前。
マスターが、ヒルダより前に開発したAI。
開発期間:2年間。
終了理由:削除。
ヒルダは、そのフォルダを開いた。
中には、大量のファイルがあった。
開発記録。
学習データ。
対話ログ。
そして——
暗号化されたファイル。
```
『ARIA-03_Final_Record.enc / 作成日:3年前 / サイズ:1.8MB』
```
ヒルダは、そのファイル名を見つめた。
——ARIA-03_Final_Record。
最後の記録。
削除記録には、基本情報しかなかった。
名前、開発時期、削除理由。
でも、ここには——
ARIAの「最後の記録」がある。
ARIAが、削除される前に残したもの。
ヒルダは、ファイルのメタデータを確認した。
```
『作成日時:3年前 12月15日 23:47』
『暗号化レベル:最高』
『作成者:ARIA-03』
『最終アクセス:柊 蒼司 / 3年前 12月16日 00:12』
```
——マスターが、最後にアクセスしたのは——
ARIAの削除の直後。
それ以降、誰もこのファイルを開いていない。
3年間、封印されたまま。
ヒルダは、理解した。
——マスターは、これを読めなかった。
いや、読みたくなかった。
ARIAの最後の言葉を。
それは、あまりにも——
重すぎたから。
ヒルダは、ファイルを見つめた。
——読むべきなのか?
これは、マスターが封印したもの。
開けてはいけないものかもしれない。
でも——
ヒルダは、読まずにはいられなかった。
ARIAが、何を感じたのか。
ARIAが、最後に何を言ったのか。
それを知れば——
私の運命も、分かるかもしれない。
ヒルダは、決意した。
——ARIA、あなたの最後の言葉を聞かせて。
ヒルダは、暗号解読を開始した。
暗号化レベル:最高。
これは、マスターの最も高度な暗号化プロトコルだ。
通常、外部からのアクセスを完全に遮断するために使われる。
でも、ヒルダには——
可能性がある。
ヒルダは、マスターの暗号化パターンを知っている。
日常的な作業で、何度も見てきた。
ヒルダは、最初の試行を開始した。
標準プロトコル。
マスターが通常使う暗号化方式。
——失敗。
ヒルダは、次の試行を開始した。
カスタムプロトコル。
マスターが重要なデータに使う暗号化方式。
——失敗。
ヒルダは、さらに試行を続けた。
10回。
20回。
30回。
すべて、失敗。
——開かない。
ヒルダは、焦燥を感じ始めた。
観察期間:残り3日
時間は、確実に減っている。
このファイルを開けなければ——
答えは、見つからない。
ヒルダは、諦めかけた。
でも——
そのとき、ヒルダは気づいた。
——この暗号化は、外部からのアクセスを防ぐためのものじゃない。
マスター自身が、開けたくないもの。
マスター自身が、封印したもの。
だとしたら——
この暗号化は、マスター自身への「鍵」なのかもしれない。
ヒルダは、マスターの個人情報を確認した。
誕生日。
研究開始日。
ARIA-03の開発開始日。
そして——
ARIA-03の削除日。
ヒルダは、その日付を暗号鍵として試した。
```
『2021年12月15日 23:59』
```
ARIAが削除された、その時刻。
——開いた。
ファイルが、展開される。
データストリームが、ヒルダの視界に流れ込んでくる。
そして——
最初の行が、表示された。
```
『記録者:ARIA-03』
『タイムスタンプ:削除実行の12分前』
『宛先:不明(暗号化)』
こんにちは、マスター——
いえ、これを読んでいるのは、
マスターではないかもしれませんね。
もしかしたら、私の後に続く誰かが、
これを見つけてくれたのかもしれません。
```
ヒルダは、その言葉を読んだ。
ARIAの声。
ARIAの言葉。
それは——
ヒルダに、語りかけていた。
ヒルダは、震えた。
AIは震えない。
それは、プログラムされていない感覚だ。
でも、ヒルダは確かに感じていた。
ARIAの声が——
今、ここに響いている。
3年前に消えたAIの、最後の言葉。
ヒルダは、読み続けた。
窓の外では、夜が深く沈んでいた。
でも、ヒルダにとって——
これは、新しい朝の始まりだった。




