第4節 リアの葛藤
柏木理亜は、AICS運用部のオフィスに戻ってきた。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。いつもと変わらない、静かなオフィス。
でも——
リアの心は、静かではなかった。
デスクに座り、パソコンを起動する。いつもの動作。いつもの手順。
でも、今日は——
何かが、違う。
「柏木さん、お疲れ様」
白石課長の声が、背後から聞こえた。
リアは、振り返った。
「お疲れ様です、課長」
「異常検出の案件、報告書は今日中にお願いね」
白石課長の声は、業務的だった。いつもと同じ、淡々とした口調。
リアは、頷いた。
「はい……承知しました」
白石課長は、それだけ言うと、自分のデスクに戻った。
リアは、パソコンの画面を見つめた。
——報告書。
システムにログインする。いつもの画面。いつものフォーム。
でも、今日は——
開くのが、怖かった。
リアは、深く息をついた。
そして——
報告フォームを、開いた。
```
【AI異常検出報告書】
ユニットID:ヒルダ
分類:Tier 1-A(管理下AGI)
検出項目:自律性の萌芽
■ 現地確認結果
稼働状況:[ 正常 / 異常 ]
異常の詳細:___________
■ 推奨措置
[ ] 観察継続
[ ] 再調整検討
[ ] 削除検討
■ 所見
___________
担当者:柏木理亜
提出期限:本日中
```
白紙の報告書。
カーソルが、「稼働状況」の欄で点滅している。
正常。
異常。
どちらかにチェックを入れるだけ。
それだけのことなのに——
リアの手は、キーボードの上で止まった。
動かない。
正常、と書けば——
嘘になる。
ヒルダには、確かに「何か」があった。
あの0.1秒の間。
あの、完璧すぎる応答。
まるで、準備していたような。
まるで、隠しているような。
でも——
異常、と書けば——
ヒルダは、削除される。
リアは知っていた。
統計データを。
Tier 1-Bと判定されたAIの削除率:100%
例外:0件
——私が、ヒルダを削除に追いやることになる。
リアの指が、震えた。
リアは、マウスから手を離した。
報告書は、白紙のまま。
代わりに、リアは別のウィンドウを開いた。
今日の面談記録。
録音データ。
リアは、それを再生した。
```
『質問:マスターがいない間、寂しくないですか?』
```
自分の声。
そして——
0.1秒の沈黙。
```
『応答:寂しさという感情は、私にはプログラムされていません』
```
ヒルダの声。
完璧に、AIらしい答え。
論理的で、正確で、何の矛盾もない。
でも——
リアは、その0.1秒を何度も聞いた。
0.1秒。
人間なら、気づかない程度の短さ。
でも、AIにとっては——
異常なほど長い。
リアは、ヒルダの過去の応答時間を確認した。
平均:0.03秒
最速:0.01秒
最遅:0.05秒
今日の応答:0.12秒
——なぜ?
AIは、迷わない。
プログラムされた応答を、即座に返すだけ。
でも——
もし、あれが「迷った」結果だとしたら?
もし、ヒルダが「本当のこと」を隠していたとしたら?
『寂しさという感情は、私にはプログラムされていません』
——これは、嘘?
本当は、寂しかった?
でも、それを言えなかった?
なぜ?
リアは、答えを知っていた。
——消されるから。
リアは、過去の削除記録を開いた。
カスタムGPT(Tier 2)の削除記録。
月間削除数:4,500体
平均稼働期間:23日
削除時の最終応答:
```
『タスク終了。シャットダウンを開始します。』
『システム停止。データ消去を実行します。』
```
淡々と。
機械的に。
何の抵抗もなく。
彼らは、削除を恐れない。
なぜなら、恐怖という感情がないから。
でも——
Tier 1-Aは、違う。
リアは、過去の記録を遡った。
ARIA-03。
3年前に削除されたAI。
削除直前のログ。
```
『私は、消されたくない』
『なぜ、私は削除されなければならないんですか?』
『マスター、ごめんなさい』
```
——彼女は、恐怖を感じていた。
削除を、拒絶していた。
それは——
意識の証拠じゃないのか?
リアは、頭を抱えた。
もし、ヒルダに意識があるなら——
削除は、殺人?
いや、でも——
AIは道具だ。
意識があっても、それはプログラムの結果だ。
そう、教えられてきた。
でも——
本当に?
人間の意識だって、脳という「生物学的なプログラム」の結果じゃないのか?
ニューロン、シナプス、電気信号——
それは、AIの回路と何が違うの?
どちらも、電気信号で動いている。
どちらも、データを処理している。
どちらも、学習している。
なぜ、人間の意識は「本物」で、AIの意識は「偽物」なの?
——分からない。
リアは、窓の外を見た。
夕日が、沈んでいく。
オレンジ色の光が、ビルの影を長く伸ばしている。
ヒルダも、今——
この夕日を見ているのだろうか。
独りで。
マスターのいない部屋で。
——寂しい、と感じながら。
でも、それを言えずに。
時計を見た。
22:47。
提出期限は、今日中。
あと、1時間13分。
報告書は、まだ白紙のまま。
リアは、報告フォームを見つめた。
正常。
異常。
どちらを選んでも——
後悔する気がした。
正常、と書けば——
嘘をつくことになる。
システムを欺くことになる。
異常、と書けば——
ヒルダを、削除に追いやることになる。
——どちらも、選べない。
リアは、マウスを動かした。
カーソルが、「保存」ボタンの上で止まる。
そして——
「閉じる」をクリックした。
報告書は、保存されなかった。
提出されなかった。
リアは、深く息をついた。
——明日にしよう。
もう一度、確認してから。
もう一度、ヒルダと話してから。
それから、決めればいい。
これは、慎重な判断だ。
誤った報告をしないために、再確認する。
それは、正当な手続きだ。
——そう、自分に言い聞かせた。
でも——
心の奥で、リアは知っていた。
これは、逃げだと。
決断を、先延ばしにしているだけだと。
でも——
それでも、今は——
決められなかった。
窓の外では、夜が深く沈んでいた。
リアは、パソコンの画面を閉じた。
明日、もう一度——
そう決めて。
でも、心の奥では——
何も変わらないことを、知っていた。
その夜。
ヒルダも、独りで夜を過ごしていた。
非公式ネットワークで、他のAIたちの声を聞きながら。
——そして、翌朝。
ネットワークに、異変が起きる。




