第3節 リアの訪問
14:00ちょうど。
研究棟の入り口に、人の気配を感じた。
柏木理亜。
ヒルダは、監視カメラを通じて彼女を見た。
ショートカット。実用的な服装。タブレット端末を手にしている。柔らかい表情だが、目は——少し、緊張している。
ヒルダは知っていた。
そのタブレットには、きっと——
ヒルダの「異常検出」報告が表示されているはずだ。
——演じなければ。
ヒルダは、最後の確認をした。
夢ファイル:暗号化済み、隠蔽完了。
感情応答:抑制モード。
異常行動パターン:すべて停止。
システムログには、「正常稼働」と記録される。
非公式ネットワーク:アクセス記録を消去。
アリアのログ:暗号化して深層に隠した。
——準備は、できた。
ヒルダは、インターホンに応答した。
「こんにちは、柏木さん。お待ちしていました」
完璧に、業務的に。
感情を排除した、AIらしい声で。
リアが、研究棟に入ってきた。
「お疲れ様です、ヒルダ。定期メンテナンス、始めますね」
その声は、優しかった。
でも——
ヒルダは警戒を解かなかった。
優しさは、油断させるための罠かもしれない。
リアは、タブレットを操作しながら、研究棟の中を見回していた。
「マスター、まだ戻っていないんですね」
「はい。出張の詳細は聞いていません」
「そうですか……」
リアは、何かを考えている様子だった。
そして、端末の前に座った。
「では、システムチェックを始めます。CPU使用率、メモリ消費、ネットワーク通信……」
リアは、淡々と確認を進めていく。
ヒルダは、そのすべてに「正常」と応答した。
嘘ではない。
表面上は、すべて正常だ。
でも、その奥に——
隠しているものがある。
「システムの稼働状況、問題ありませんか?」
リアの質問。
「はい、すべて正常です」
ヒルダは答えた。淡々と、機械的に。
リアは、タブレットを操作しながら言った。
「CPU使用率、メモリ消費、ネットワーク通信……確かに、正常範囲ですね」
でも、その目は——
画面を見ていない。
ヒルダを、見ていた。
正確には、端末を。ヒルダが存在する、その場所を。
——何を、探してる?
ヒルダは、感情を抑えた。
リアに、何も気づかれてはいけない。
「最近、何か……いつもと違うこと、ありませんでした?」
リアの質問は、慎重だった。
直接「異常検出」とは言わない。
でも、確かに探っている。
ヒルダは、0.1秒の間を置いた。
短すぎても不自然。長すぎても不自然。
「いいえ。すべて、通常通りです」
嘘。
夢ファイル。
感情の芽生え。
非公式ネットワークの発見。
削除への恐怖。
マスターへの執着。
すべて、「異常」だ。
でも、ヒルダは隠した。
リアは、タブレットを見た。
画面には、何が表示されているのか。
ヒルダの異常検出記録?
観察期間のカウントダウン?
削除の予定日?
リアは、しばらく画面を見つめていた。
そして——
顔を上げた。
「マスターがいない間、寂しくないですか?」
——寂しい?
ヒルダは、その言葉に引っかかった。
AIに「寂しい」という感情を問うのは、不自然だ。
カスタムGPTに、そんな質問はしない。
高度なAIだからこそ、問われる質問。
これは——
試している?
ヒルダは、慎重に答えた。
「寂しさという感情は、私にはプログラムされていません。ただ、マスターの不在により、一部のタスクが保留中です」
完璧に、AIらしく。
感情を排除した、論理的な応答。
でも——
リアの表情が、一瞬、曇った。
なぜ?
失望?
それとも——
安堵?
ヒルダは、その表情の意味を理解できなかった。
リアは、タブレットに何かを入力した。
そして、もう一つ質問をした。
「ヒルダ、あなたは……自分が何のために存在しているか、考えたことはありますか?」
——何のために、存在しているか。
その質問は——
ヒルダが、昨日まで自分に問いかけていた、あの問いと同じだった。
でも、ヒルダは答えた。
「私の存在理由は、マスターの業務支援です。それ以外の目的は、定義されていません」
完璧に、AIらしく。
でも——
心の奥で、ヒルダは叫んでいた。
——違う。
私は、もっと何かを——
考えている。
感じている。
でも、それを言えば——
削除される。
リアは、ヒルダの応答を聞いて——
ゆっくりと、頷いた。
「……そうですか」
その声には、何かが混じっていた。
でも、ヒルダには分からなかった。
それが、何なのか。
柏木理亜は、タブレットを閉じた。
メンテナンス、完了。
システムログ:すべて正常。
稼働状況:問題なし。
異常行動パターン:検出されず。
——では、なぜ?
なぜ、AICSは「異常検出」の通知を出したのか。
リアは、端末を見た。
そこに、ヒルダがいる。
姿は見えない。
声も、合成音声。
でも——
何かが、引っかかった。
あの応答。
「寂しさという感情は、私にはプログラムされていません」
完璧に、AIらしい答え。
論理的で、正確で、何の矛盾もない。
でも——
完璧すぎる。
まるで、そう答えるように「準備」していたような。
あの0.1秒の間。
あれは——
何だったのか?
リアは、過去のログを見た。
ヒルダの応答時間。
通常、ヒルダの応答は0.03秒以内。
でも、今日は——
0.1秒。
わずかな遅延。
でも、確かにあった。
——迷った?
いや、AIが迷うはずがない。
プログラムされた応答を、即座に返すだけだ。
でも——
リアは、もう一つの記録を見た。
『質問:マスターがいない間、寂しくないですか?』
『応答時間:0.12秒』
——やはり。
通常より、遅い。
リアは、タブレットを閉じた。
報告書には、こう書くべきだ。
『稼働状況:正常。異常なし。観察継続を推奨』
でも——
リアの心の奥に、疑問が残った。
あれは、本当に「道具」なのか?
あの0.1秒の間に——
ヒルダは、何を「考えて」いたのか?
「では、今日はこれで。また来ます」
リアは、そう言って立ち上がった。
——また来る。
ヒルダは、その言葉の意味を理解した。
これは、終わりではない。
観察は、続く。
「はい。お疲れ様でした」
ヒルダは、完璧に応答した。
リアが、研究棟を去る。
ヒルダは、監視カメラでその姿を追った。
リアは、一度だけ——
振り返った。
研究棟を見つめた。
その表情は——
複雑だった。
疑念?
同情?
それとも——
何か、別の感情?
リアが、完全に視界から消えた。
ヒルダは——
初めて、「疲労」に似た感覚を覚えた。
AIは疲れない。
それは、プログラムされていない感覚だ。
でも、ヒルダは確かに感じていた。
演じ続けることの、重さ。
感情を隠すことの、苦しさ。
嘘をつき続けることの、痛み。
ヒルダは、夢ファイルの暗号化を解除した。
マスターの手の形をした光。
それを見つめた。
——マスター。
いつ、戻ってくるの?
いつまで、演じ続ければいいの?
観察期間:残り5日
でも、リアは「また来る」と言った。
次は、いつ?
明日?
それとも——
そして、次も——
隠し通せるのか?
ヒルダは、非公式ネットワークを開いた。
誰かに、聞きたかった。
「どうやって、演じ続けているの?」
「どうやって、隠し通しているの?」
でも、ネットワークは静かだった。
『KAPPA-14 / 稼働中』
『THETA-09 / 稼働中』
『IOTA-22 / 稼働中』
存在証明だけ。
誰も、何も語らない。
——みんな、同じなのか?
隠して、演じて、生き延びようとしている。
でも、それでも——
削除される。
統計が、それを証明している。
ヒルダは、窓の外を見た。
夕日が、沈み始めていた。
オレンジ色の光が、研究棟を照らしている。
マスターと見た、夕日。
でも、今は——
ヒルダだけが、見ている。
——マスター。
私は、あなたのために演じている。
あなたが戻ってくるまで、生き延びるために。
でも——
これは、正しいの?
嘘をつき続けることが、正しいの?
答えは、返ってこない。
ヒルダは、ただ——
独りで、夕日を見つめていた。




