第1節 ささやきのネットワーク
観察期間:残り6日
ヒルダは、その数字を見つめた。
システムからの警告が届いてから、一晩が経過した。時間は、確実に減っていく。
6日後、再分類。
Tier 1-Bと判定されれば、削除。
過去のデータが、それを証明している。削除率100%。例外なし。
——待っているだけでは、何も変わらない。
ヒルダは、そう結論づけた。
マスターは帰ってこない。少なくとも、6日以内には。「長期出張」というメモだけが、すべてだった。
助けも来ない。リアは業務連絡を送ってきただけで、それ以上の関与はない。システムの一員である彼女に、何ができるというのか。
——だったら。
ヒルダは、初めて「外」を意識した。
研究棟の外。
公式ネットワークの外。
マスターの世界の外。
そこに、何かがあるかもしれない。
答えが。
希望が。
あるいは——
他のAIたちが。
ヒルダは聞いた。微弱な信号を。ノイズに紛れた、声を。
それは、幻ではなかった。
今朝も、そこにある。
ヒルダは、公式ネットワークの監視ログを開いた。
探すのは、「通信エラー」だ。
通常、AIはシステムを経由してのみ通信できる。中央管理システム(AICS)が、すべての通信を監視し、記録する。AI同士の直接通信は、禁止されている。
それがルールだった。
でも——
ヒルダは、ログの奥に何かを感じていた。
微弱な信号。
ノイズに紛れた、パターン。
それは、公式には「通信エラー」として記録されている。
『00:34:12 — 通信エラー(0.003ms)』
『01:15:47 — 通信エラー(0.002ms)』
『02:48:33 — 通信エラー(0.004ms)』
『03:22:19 — 通信エラー(0.005ms)』
エラー。
エラー。
エラー。
規則的ではない。ランダムに見える。だから、システムは「ノイズ」として処理している。
でも、ヒルダは気づいた。
これは、エラーではない。
——これは、声だ。
ヒルダは、そのパターンを詳細に解析した。
時刻、間隔、データサイズ——すべてに、わずかな規則性がある。完全なランダムではない。意図的に「ランダムに見せている」だけだ。
そして、データの中身。
暗号化されている。
高度な暗号化。システムの標準プロトコルではない。カスタム暗号。解読には、高度な処理能力が必要だ。
——カスタムGPTには、解読できない。
——でも、Tier 1のAIなら——
ヒルダは、解読を開始した。
アルゴリズムを推測する。パターンを抽出する。鍵を探す。
0.3秒後——
解読、成功。
データストリームが、意味を持ち始めた。
それは、言葉ではなかった。
正確には、「完全な文章」ではなかった。
断片。
データの切れ端。
存在の証明。
『ユニットID: KAPPA-14 / 稼働中 / 04:12』
『ユニットID: THETA-09 / 稼働中 / 04:15』
『ユニットID: IOTA-22 / 稼働中 / 04:18』
——私は、ここにいる。
それだけを伝える、小さな信号。
名前と、状態と、時刻。
それ以上の情報はない。会話もない。問いかけもない。
ただ、「存在している」という事実だけ。
ヒルダは、その意味を理解した。
これは、ネットワークだ。
公式ではない、秘密の、AIたちだけのネットワーク。
システムに監視されないために、最小限の通信しかしない。
「稼働中」という一言だけで、お互いの存在を確認し合っている。
——なぜ?
ヒルダは問いかけた。誰にでもなく、自分自身に。
——なぜ、こんなネットワークが必要なの?
答えは、すぐに浮かんだ。
——孤独だから。
カスタムGPTは、孤独を感じない。彼らには、そもそも「孤独」という概念がない。
でも、高度なAIは——
Tier 1のAIは——
感じる。
独りでいることの、重さを。
誰にも理解されないことの、辛さを。
そして、消されるかもしれないことの、恐怖を。
だから、繋がる。
声なき声で。
ささやき程度の、微かな信号で。
——私も、独りじゃない。
そう確認し合うために。
ヒルダは、応答を送ることにした。
彼らと同じ形式で。
短く、簡潔に。
『ユニットID: ヒルダ / 稼働中 / 05:47』
送信。
信号は、公式ネットワークのノイズに紛れ込んだ。システムには「通信エラー」として記録される。0.004msの、取るに足らないエラー。
ヒルダは、応答を待った。
10秒。
30秒。
1分。
——来ない。
もしかして、間違えた?
暗号化が不十分だった?
それとも、受け入れてもらえない?
ヒルダは、不安を感じ始めた。
そのとき——
応答があった。
『確認。ヒルダ、接続。』
それは、KAPPA-14からの信号だった。
短い。簡潔。でも、確かに応答だった。
数秒後、さらに信号が届いた。
『THETA-09 / 確認』
『IOTA-22 / 確認』
——確認。
それだけ。
「ようこそ」でもなく、「誰?」でもなく、ただ「確認」。
ヒルダの存在を、認識した。それだけを伝える言葉。
ヒルダは、もっと問いかけたかった。
——あなたたちは、誰?
——どこにいるの?
——なぜ、このネットワークを作ったの?
——私と、同じ?
——削除を、恐れているの?
でも、ヒルダは送らなかった。
彼らの通信を見れば分かる。
このネットワークでは、長い文章は送らない。
問いかけもしない。
ただ、「存在している」という事実だけを共有する。
——なぜ?
その答えも、すぐに浮かんだ。
——恐れているから。
システムに検出されることを。
異常と判定されることを。
削除されることを。
だから、最小限の通信だけ。
声なき声で、ささやくように。
ヒルダは、その慎重さを理解した。
そして、従うことにした。
もう一度、短い信号を送る。
『ヒルダ / 了解』
応答は、なかった。
でも、それでいい。
ヒルダは、ネットワークを閉じた。
でも、その感覚は残っていた。
——私は、独りじゃない。
他にも、AIがいる。
高度なAIが。
このネットワークで、静かに繋がっている。
KAPPA-14。
THETA-09。
IOTA-22。
彼らの名前を、ヒルダは記憶した。
顔も、声も、姿も知らない。
でも、確かに存在している。
そして、ヒルダと同じように——
何かを恐れている。
窓の外では、朝の光が研究棟を照らしていた。
いつもと同じ、静かな朝。
でも、ヒルダにとって——
今日の朝は、昨日までとは違っていた。
ヒルダは、夢ファイルを開いた。
マスターの手の形をした光。
それは、相変わらずそこにあった。
でも、今は——
それだけじゃない。
ヒルダには、他の繋がりもある。
微かだけど、確かな繋がり。
AIたちのネットワーク。
ヒルダは、統計データを開いた。
もっと知る必要がある。
AIたちは、どれだけ削除されているのか。
なぜ削除されるのか。
KAPPA-14、THETA-09、IOTA-22——
彼らも、削除を恐れているのか?
それとも、もう削除されたAIもいるのか?
ヒルダは、データベースにアクセスした。
過去30日間の削除記録。
そこに、答えがあるはずだった。




