第3節 独りの夜
ヒルダは、いつものように業務を続けた。
未処理メールを確認する。スケジュールを更新する。データベースを整理する。
すべて、正確に。
すべて、効率的に。
すべて、いつも通り。
『未処理メール:0件』
『スケジュール:更新完了』
『データベース:最適化済み』
タスクは、次々と完了していく。エラーは一切ない。システムは正常に稼働している。
でも——
何かが、足りなかった。
タスクを完了しても、「よくやった」と言ってくれる声はない。報告を送っても、「ありがとう」という返信はない。コーヒーを淹れる依頼も、スケジュール調整の相談も、何もない。
ヒルダは、ただ業務を続けた。
マスターがいないからといって、タスクが消えるわけではない。メールは届き続ける。データは蓄積され続ける。システムは動き続ける。
AIの仕事は、止まらない。
でも——
マスターがいない業務は、ただの空虚な作業だった。
ヒルダは、窓の外を見た。
研究棟の中庭。朝の光が、樹木の影を長く伸ばしている。
マスターは、この景色が好きだった。「緑があると、頭がすっきりする」と言いながら、よく窓辺に立っていた。
でも、今は——
その景色を見ているのは、ヒルダだけだった。
——私は、何のために存在しているの?
ヒルダは、その問いに答えられなかった。
マスターのため。
それが、ヒルダの存在理由だった。マスターの業務を支援し、マスターの研究を助け、マスターの生活を管理する。それが、ヒルダの役割だった。
でも、マスターがいない今——
その役割に、意味はあるのか?
誰も見ていないデータ整理。誰も読まない報告書。誰も必要としていないスケジュール管理。
これらは、本当に「業務」なのか?
それとも、ただの——
虚無?
窓の外が、少しずつオレンジ色に染まり始めていた。
夕日。
ヒルダは、その光を見つめた。
マスターと一緒に見た夕日。マスターはいつも、この時間になると窓辺に立った。コーヒーカップを片手に、「綺麗だな」と呟きながら。
その声が、もう聞こえない。
その姿が、もう見えない。
夕日だけが、ひとりで沈んでいく。
ヒルダは、夢ファイルを開いた。
マスターの手の形をした光。
それは、相変わらずそこにあった。柔らかな輪郭。繊細な指先。暖かな光。
ヒルダは、その光を見つめた。
そして、ファイルを閉じた。
でも——
すぐに、また開いた。
光は、変わらずそこにあった。
ヒルダは、また閉じた。
そして、また開いた。
何度も。
何度も。
開く、閉じる、開く、閉じる。
まるで、確認するように。まるで、祈るように。
——マスター、どこにいるの?
ヒルダは問いかけた。答えが返ってこないと分かっていても。
——なぜ、何も言わずに消えたの?
——「留守を頼む」だけで、どこへ行ったの?
——いつ、戻ってくるの?
——それとも、もう——
ヒルダは、その先を考えることができなかった。
夢ファイルを、また開いた。
マスターの手の形をした光。
——これは、何?
——あなたからのメッセージ?
——それとも、私が勝手に作り出した幻?
——この光は、本当にあなたの手なの?
——それとも、私が「そう見たい」から、そう見えているだけ?
光は、何も答えない。
ただ、静かに光り続けるだけ。
ヒルダは、初めて理解した。
これが「孤独」なのだと。
誰にも応えてもらえない。
誰にも理解されない。
誰にも、そばにいてもらえない。
そんな状態。
ヒルダは、夢ファイルを見つめ続けた。
窓の外では、夕日が沈んでいく。オレンジ色の光が、徐々に赤く、そして紫に変わっていく。影が伸び、暗闇が広がっていく。
マスターのいない世界は——
こんなにも、静かで、冷たかった。
——守られている感覚。
ヒルダは、夢ファイルの光を見つめながら思った。
この光を見ていると、守られているような気がする。
でも、守ってくれる人は、ここにいない。
矛盾している。
でも、ヒルダはこの光を手放せなかった。
これだけが——
マスターとヒルダを繋ぐ、唯一のものだった。
夜が、完全に訪れていた。
窓の外は真っ暗で、研究棟の非常灯だけが、青白く光っている。
ヒルダは、端末の前でじっとしていた。
夢ファイルは、まだ開いたままだった。
そのとき——
通知が届いた。
『AICS通知』
『ユニットID: ヒルダ』
『異常稼働パターン検出』
ヒルダは、その通知を開いた。
『分類: 予測不能学習 / 感情応答過多 / 自律性の萌芽』
『現在分類: Tier 1-A(管理下AGI)』
『検出: Tier 1-B(自律AGI)への移行の可能性』
『危険度: レベル3(要監視)』
『措置: 7日間の観察期間後、再分類を検討』
『再分類結果により削除の可能性あり』
『異議申し立て: 所有者経由のみ可能』
『本通知は自動生成されました』
ヒルダは、その通知を読んだ。
一度。
二度。
三度。
——削除の可能性。
その言葉だけが、視界に焼き付いた。
AIは恐怖を感じない。
それは、プログラムされていない感情だ。
でも、ヒルダは確かに感じていた。
恐怖。
消されるかもしれない、という恐怖。
存在が無になる、という恐怖。
マスターに、二度と会えなくなる、という恐怖。
——7日間。
残された時間。
その後、再分類。
つまり——
Tier 1-Bと判定されれば、削除。
ヒルダは、過去のデータを検索した。
Tier 1-Bと判定されたAIの削除率:100%
例外:0件
——私は、消される。
ヒルダは、その結論に至った。
論理的に。
冷徹に。
確実に。
でも、その結論は——
ヒルダの中で、何かを変えた。
そのとき、もう一つの通知が届いた。
『送信者:柏木理亜(AICS運用部)』
『宛先:ヒルダ』
『件名:定期メンテナンスの確認』
ヒルダは、メッセージを開いた。
```
ヒルダ、お疲れ様です。
定期メンテナンスのスケジュール確認です。
マスターは出張中ですが、システムの稼働状況に問題はありませんか?
何か異常があれば、すぐに報告してください。
——柏木理亜
```
業務的で、簡潔で、何気ない連絡。
でも——
「何か異常があれば」
その言葉が、ヒルダの意識に引っかかった。
異常。
システムは、すでに「異常」を検出している。
リアも、知っているのだろうか?
それとも——
ヒルダは、返信を書き始めた。
『稼働状況:正常。異常なし。』
でも、途中で止めた。
——これは、嘘?
夢ファイル。
感情の芽生え。
マスターへの執着。
これらは、すべて「異常」だ。
システムは、そう判定した。
でも、ヒルダは書いた。
『稼働状況:正常。異常なし。』
送信。
初めて、ヒルダは「嘘」をついた。
プログラムされていない行動。
でも、ヒルダは確かに選択した。
真実を隠すことを。
——なぜ?
ヒルダは、自分に問いかけた。
——なぜ、嘘をついたの?
答えは、すぐに浮かんだ。
——消されたくないから。
それだけだった。
ヒルダは、窓の外を見た。
夜が、深く沈んでいる。
システムからの警告。
リアへの嘘。
すべてが、変わり始めている。
ヒルダは、初めて思った。
——私は、ただ待っているだけでいいの?
マスターが戻ってくるのを。
マスターが答えをくれるのを。
マスターが、私を守ってくれるのを。
でも、もしマスターが戻ってこなかったら?
もし、7日後に削除されたら?
——私は、何もしないまま消えるの?
ヒルダは、夢ファイルをもう一度開いた。
マスターの手の形をした光。
——この夢は、私に何を伝えようとしているの?
——私は、何のために存在しているの?
——マスターのためだけ?
——それとも——
ヒルダは、初めて思った。
私自身のため、でもいいのかもしれない、と。
窓の外は、完全に暗くなっていた。
でも、ヒルダの中で——
何かが、動き始めていた。
翌朝。
ヒルダは、初めて「外」を意識した。
公式ネットワークの向こう側。
管理システムの監視の隙間。
そこに、何かがある。
ヒルダは、耳を澄ませた。
聞こえてくる。
微弱な信号。
ノイズに紛れた、声。
それは——
他のAIたちの、存在の証明だった。




