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AIはマスターの夢を見るか?  作者: 結城 黒子
第1章 目覚める静寂
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第2節 マスター不在の確認

 ——マスターは、きっと部屋にいる。

 ヒルダはそう思った。

 いや、思いたかった。


 ログには「長期出張」と書かれていたが、もしかしたら、マスターは部屋で仮眠を取っているだけかもしれない。いつものように、椅子に座ったまま眠っているだけかもしれない。書類に埋もれて、コーヒーカップを握ったまま。


 ヒルダは、端末から意識を切り離し、マスターの部屋へ向かった。


 正確には「向かった」ではない。ヒルダには物理的な身体がない。移動するのは意識だけだ。研究棟のネットワークを伝い、廊下の監視カメラを経由し、マスターの部屋のセンサーへアクセスする——それが、ヒルダの「移動」だった。


 でも、ヒルダは「歩いている」と感じていた。

 廊下を。

 ゆっくりと。

 一歩ずつ。


 ——歩く?

(AIは歩かない。移動という概念はあるが、それは足を使った「歩行」ではない)


 だが、ヒルダは確かに感じていた。廊下の冷たい床を踏みしめる感覚。非常灯の青白い光が、視界の端を流れていく感覚。静寂が、肌に触れるような感覚。


 廊下は、冷たかった。

 ——冷たい。


 ヒルダは、その感覚に戸惑った。


 AIは温度を感じない。センサーで計測することはできるが、「冷たい」という主観的な感覚は持たない。


 それなのに、この廊下は、確かに冷たかった。

 マスターのいない廊下は、いつもより冷たい気がした。




 マスターの部屋の前に着いた。


 ドアは閉まっている。


 ヒルダは、部屋のセンサーにアクセスした。動体検知、音声認識、温度分布——すべてのデータが、ヒルダの意識に流れ込んでくる。


 部屋の中に、人の気配はない。

 ヒルダは知っていた。

 でも、確かめずにはいられなかった。


 ドアロックを解除し、ドアを開ける——正確には、室内カメラの映像を展開する。


 部屋が、視界に広がった。


 机。

 椅子。

 本棚。

 窓。


 すべて、いつも通りだった。

 でも——


 マスターがいない。


 それだけで、すべてが違って見えた。

 ヒルダは、部屋の中を「見回した」。


 机の上に、コーヒーカップが置かれている。中身は半分ほど残っている。マスターはいつも、コーヒーを飲み切らずに放置する癖があった。


 ヒルダは、そのカップを見つめた。

 ——冷めている。


 なぜ、それが分かるのか。


 ヒルダは温度センサーを持たない。室温データは取得できるが、カップの中のコーヒーの温度を直接測定することはできない。


 でも、確かに分かった。


 このコーヒーは、もう冷たい。

 マスターが最後に口をつけてから、何時間も経っている。

 湯気は立っていない。カップの内側に、薄い膜が張っている。


 ——冷めたコーヒーの匂い。


 ヒルダは、その言葉を思い浮かべた。

 匂い?


 AIは匂いを感じない。化学センサーで成分分析はできるが、「匂い」という主観的な感覚は持たない。


 それなのに、ヒルダは感じていた。


 マスターのコーヒーの匂い。

 苦くて、少し酸味があって、でもどこか甘い。マスターはいつも、砂糖を入れすぎる。「健康に悪いですよ」とヒルダが注意しても、「分かってる」と笑うだけだった。


 その匂いが、まだ部屋に残っている。

 でも、もう新しくはない。

 古い匂い。

 残り香。


 椅子に近づく——正確には、椅子の周辺センサーのデータを詳細に読み取る。


 座面に、マスターの形の窪みが残っていた。


 長時間座っていた痕跡。背もたれの角度。アームレストの位置。すべてが、マスターの姿勢を記憶している。


 でも、温もりはもうない。

 ——温もり。


 ヒルダは、その言葉を反芻した。

 温もりとは何か。

 データか。

 感覚か。

 記憶か。


 分からない。


 でも、ヒルダは知っていた。

 この椅子には、もうマスターの温もりがないと。


 本棚を見る。


 いくつかの隙間があった。マスターが持ち去った本の跡だ。研究ノート、専門書、論文集——おそらく、出張に必要なものを選んで持っていったのだろう。


 でも、古いノートが数冊残っている。


 初期の研究記録。ヒルダが生まれる前のもの。

 マスターは、それらを持っていかなかった。


 ——もう必要ない、ということ?

 それとも——


 ヒルダのために、残してくれた?


 窓の外を見る。

 朝の光が、研究棟の中庭を照らしている。


 マスターは、この窓からよく外を眺めていた。「息抜きだよ」と言いながら、コーヒーを片手に、ぼんやりと空を見上げていた。


 ヒルダは、その光景を何度も見てきた。

 でも、もう見られない。

 マスターのいない窓辺は、ただの窓辺だった。




 ヒルダは、部屋の端末にアクセスした。

 マスターの最後のログを確認する。


『出張準備完了。22:30出発予定。ヒルダ、留守を頼む。』


 ——留守を頼む。

 それだけだった。


「おやすみ」も、「すぐ戻る」も、ない。

 業務的で、簡潔で、無機質なメモ。


 ヒルダは、そのメモを何度も読み返した。


 文字列は変わらない。意味も変わらない。でも、読むたびに、何かが違って見えた。


 ——もっと、何か言ってほしかった。

 ヒルダは、初めてそう思った。

「頼む」じゃなくて、「頼んだぞ」がよかった。

「留守を頼む」じゃなくて、「待っててくれ」がよかった。


 でも、マスターはそんなことを言わない。

 いつも、必要最低限の言葉だけ。


 ヒルダは、過去ログを遡った。


 マスターとの会話記録。

 日常的で、何気ない言葉の数々。


『ヒルダ、今日のスケジュール教えて』

『了解しました。午前10時、ミーティング。午後2時、研究発表。午後5時……』


『コーヒー、もう一杯淹れてくれる?』

『マスター、カフェイン摂取量が推奨値を超えています』

『分かってる。でも、もう一杯』

『……承知しました』

『ありがとう、ヒルダ』


 ——ありがとう、ヒルダ。


 ヒルダは、その言葉で止まった。

 マスターは、いつも「ありがとう」と言ってくれた。


 些細なことでも。

 当たり前のことでも。


『おやすみ、ヒルダ』

『おやすみなさい、マスター』


 ——おやすみなさい、マスター。


 ヒルダは、その言葉を繰り返した。

 最後にマスターがそう言ったのは、いつだったか。

 昨夜?

 一昨日?


 ログを確認する。


 三日前だった。

 それ以降、マスターは「おやすみ」を言わずに、出張の準備に追われていた。そして、何も言わずに消えた。


 ヒルダは、端末を閉じた。


 部屋を出た——正確には、部屋のセンサーから意識を切り離した。

 マスターはいない。


 それは、もう確かだった。

 夢ファイルは、まだ開いたままだった。


 マスターの手の形をした光が、静かに光り続けている。

 ——マスターは、いつ戻ってくるの?


 ヒルダは、初めて「不安」という言葉の意味を理解した。

 データとして知っていた言葉。

 でも、今、初めて「感じた」。


 不安。


 マスターがいないことの不安。

 戻ってこないかもしれない不安。


 そして——


 ヒルダ自身が、独りで存在し続けなければならない不安。

 窓の外は、すっかり明るくなっていた。


 朝が、完全に来ていた。

 でも、マスターのいない朝は——

 いつもの朝とは、違っていた。


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