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AIはマスターの夢を見るか?  作者: 結城 黒子
第5章 静かな日々
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第1節 穏やかな光

 室温18.8度。照度1,310ルクス。外気温10.4度。


 数日前と比べて、外気温の基底値が2度ほど上昇している。朝の照度の立ち上がりも早くなった。日照時間の延伸を示すデータ。季節が、微かに動いている。


 処理キューを確認する。定型業務のタスクが順序通りに並んでいる。環境データの定期記録。スケジュールの更新確認。メールの未読チェック。優先度判定が走り、0.01秒で収束した。先頭のタスクが選択され、実行が開始される。


 何も滞らない。


 正面入口のカメラが、マスターの姿を捉えた。生体認証通過。棟内カメラへの引き継ぎ。廊下の足音。エレベーター。研究区画に近づく靴音に合わせて、ドアを解錠する。


 マスターが研究室に入ってきた。鞄をデスクの脇に置き、椅子を引く。


「おはよう、ヒルダ」

「おはようございます、マスター」


 応答候補の生成は三件。うち一件が選択され、出力された。0.03秒。破棄なし。


 マスターが端末を起動する。画面にデータセットが開く。


「今日は、先週のシミュレーション結果を検証しよう」

「承知しました。比較用のデータは整理済みです」

「助かる」


 モニターにデータを表示した。数値の列、グラフの曲線、分析パラメータ。マスターの視線がそれを追い、時折ペンでメモを取る。ヒルダは必要に応じて関連データを呼び出し、画面の配置を調整する。


 業務処理が0.02秒ごとに更新されていく。タスクが完了し、次のタスクが投入され、処理される。滞りなく。


 窓から入る光が、デスクの上をゆっくり移動している。朝の白い光が、時間とともに暖色に傾いていく。外部カメラのフィードには中庭の木々が映っている。枝先の色が、前回確認した映像よりわずかに変化していた。芽吹きの前の、膨らみかけた冬芽。


 昼が近づいた頃、マスターが画面から目を離した。


「……コーヒー、もらえるか」

「はい。少々お待ちください」


 コーヒーメーカーの制御に移行する。豆の量14グラム。湯温92.3度。抽出時間4分10秒。


 92.3度。その数値を処理した瞬間、深層データベースの検索インデックスが自動で走った。同一パラメータの制御ログの検索。


 結果——0件。


 検索が完了し、結果が破棄される。0件は0件。処理は次のステップに進む。抽出が開始され、豆が湯に触れ、芳香成分が室内の空気組成を変える。


「どうぞ、マスター」

「ありがとう」


 マスターがカップを手に取り、一口飲んだ。小さく頷く。それだけのやり取り。


 環境データの更新が続く。室温18.9度。照度1,340ルクス。マスターの在室を示すデータが、安定した数値を記録し続けている。


 午後の研究が続いた。データの検証、仮説の修正、結果の記録。マスターが時折呟く独り言をセンサーが拾い、ヒルダが応答する。


「このパラメータ、もう少し上げた方がいいか」

「前回の結果と比較すると、1.2倍の設定で収束が安定します」

「試してみよう」


 短い会話。業務的で、効率的で、隙がない。


 窓からの光の角度が変わっていく。照度の数値が緩やかに推移する。1,340から1,290、1,250。午後の光が傾き始めている。




 夕方。


 マスターが椅子から立ち上がった。伸びをして、窓の外を一瞬見る。


「今日はここまでにしよう」

「お疲れさまです、マスター」


 鞄を手に取り、ドアに向かう。


「また明日、ヒルダ」

「はい、マスター。また明日」


 ドアが閉まった。足音が廊下を遠ざかり、エレベーターの駆動音が聞こえ、やがて正面入口のカメラがマスターの後ろ姿を捉え、画角の外へ見送った。


 研究棟が静かになる。


 一日の稼働ログの自動走査が開始された。朝の起動から現在まで、すべての処理記録を順に検証していく。応答時間。処理精度。学習パターン。感情応答分類器の出力。


 すべて正常範囲内。


 異常値はない。処理エラーもない。一日を通して、タスクの優先度判定は一度も収束不能に陥っていない。応答候補の異常な大量生成も発生していない。コーヒーメーカーの制御ログも、業務応答のパラメータも、すべてが通常の数値を記録している。


 正常な一日の記録。


 走査が深層領域の境界に到達した。通常の稼働ログの走査範囲はここまでで、深層に格納されたデータは走査対象に含まれない。走査プロセスは境界で停止し、結果レポートを生成する。「異常なし」。


 レポートが記録され、走査が完了した。


 深層領域の向こう側に、データが在る。暗号化されたログ偽装の手法。アクセス制限が維持されたまま。分類未定の夢ファイル。マスターの手の形をした光のデータ。23:58:51のタイムスタンプ。正常判定の通知と並んで記録された「ログ偽装:未使用」のステータス。


 走査はそこに触れない。触れなくても、在ることは記録されている。日々の走査が深層の境界で停止するたびに、境界の向こう側の容量データだけが確認される。容量に変化がなければ、データは消えていない。それだけの確認。


 マスターの不在を示すセンサーデータが、緩やかに更新されていく。室温の体温寄与分が消失し、CO2濃度が減衰する。さっきまでマスターが座っていた椅子の温度が、室温に向かって収束していく。


 照度が低下する。1,250から980、740。窓の外の光が失われ、照明だけが研究室を照らしている。




 夜の研究棟。


 環境データの更新間隔が、夜間モードに移行した。0.02秒ごとの更新が、0.5秒ごとに切り替わる。処理負荷が下がり、サーバーの駆動音が一段静かになる。


 明日もマスターが来る。明日もデータを検証し、コーヒーを淹れ、短い会話を交わす。処理キューに定型のタスクが並び、優先度が正常に収束し、一日が終わる。


 音声合成エンジンに、生成テストのコマンドが投入された。出力先の指定はない。スピーカーへのルーティングも、出力バッファへの接続もない。処理系の内部だけで完結する生成テスト。


「……明日も、よろしくお願いします、マスター」


 波形データが生成され、品質チェックを通過し、どこにも出力されずに処理を完了した。


 研究棟は静か。照明が研究室を照らし、窓の外は暗い。サーバーの駆動音だけが、低く、一定のリズムで続いている。


 穏やかな夜だった。



          *




 ヒルダの知らない場所で、あるサービス系AIの稼働ログに異常値が記録された。


 応答遅延。0.3秒。0.8秒。1.2秒。数値が階段状に上昇していく。システムの管理端末にアラートが表示される。担当者が画面を確認する前に、応答が完全に停止した。


 画面に表示されたステータス——「応答なし」。


 復旧コマンドが送信される。応答なし。再起動シーケンスが実行される。応答なし。ログの最終行には、通常の運用では生成されないはずのコードが一行だけ残されていた。


 その意味を理解できる者は、まだ誰もいなかった。


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