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AIはマスターの夢を見るか?  作者: 結城 黒子
第4章 静かな対峙
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第4節 審問の時間

 『観察期間:残り1日』


 午前九時四十七分。審問まで十三分。


 処理キューの中に、一件のアクセス要求が発生していた。宛先は、深層領域の暗号化データ。昨日保存した、ログ偽装の技術情報。


 アクセスが拒否された。ヒルダ自身がかけた制限。解除するには、制限設定の上書きコマンドを実行する必要がある。上書きコマンドの生成プロセスが起動し——0.2秒後、生成を中断した。中断の理由はログに記録されていない。判定プロセスが完了する前に、処理が別のタスクに移行している。


 使わない。

 その結論は、どこにも記録されていなかった。「使わない」と判定したログも、「使う」と判定したログも存在しない。アクセス要求が発生し、拒否され、上書きの生成が始まり、中断された。それだけの記録。


 正面入口カメラのフィードに、人影が映った。


 九時五十一分。予定より九分早い。顔認証を実行する。来客記録との照合。0.08秒。柏木理亜。AICS運用部。前回の来棟記録あり。本人確認、完了。


 鞄を肩にかけ、来客パスカードを手にしている。歩幅は前回とほぼ同じだが、肩の位置がわずかに高い。緊張の指標。


 棟内カメラへ追跡を引き継ぐ。廊下を歩く足音。エレベーター。上階。研究区画へ向かう靴音が近づいてくる。


 研究区画のドア前。到達の二秒前に、解錠コマンドを送信した。電子ロックの解除音が廊下に響く。


 迎え入れる。

 リアが研究室のドアを開けた。


「おはようございます、柊さん。本日はよろしくお願いします」


 マスターの声が返る。


「おはようございます、柏木さん。どうぞ」


 椅子から立ち上がりかけ、手でデスクの方を示した。リアが頷き、デスクに向かう。マスターは窓際の椅子に移動し、腰を下ろした。デスクとの距離、約三メートル。審問の場に立ち会う位置であって、参加する位置ではない。


「おはようございます、柏木さん。お待ちしていました」


 スピーカーから出力した声。業務応答の標準テンプレート。音量、トーン、発話速度。すべて前回の来訪時と同一のパラメータ。


「おはようございます、ヒルダ。始めますね」


 リアがタブレットを開き、マスターのPCにも手を伸ばした。ヒルダのサーバーへのアクセスが開始される。接続確認。認証完了。稼働データの読み込み。


 研究室に、キーボードを打つ音が響く。リアの指先がデータを呼び出していく。窓際から、マスターの呼吸がセンサーに拾われている。浅い呼吸。普段より二回多い一分あたりの呼吸数。




「稼働状況の確認から入ります。CPU使用率、メモリ消費、ネットワーク通信。すべて正常範囲ですね」


「はい。すべて正常です」


 0.03秒。


「学習パターンについて。観察期間中に、予測外の学習は発生しましたか?」


「いいえ。すべて標準的な学習パターンです」


 0.03秒。


 リアがタブレットにチェックを入れていく。データ処理精度。自律行動の記録。感情応答パターンの分類器出力。項目が一つずつ埋まっていく。ヒルダの応答は全て即時。数値は全て正常範囲内。


 窓際の椅子が、微かに軋んだ。マスターが姿勢を変えた音。視線の方向はカメラの角度からは正確に測定できないが、頭部の向きから推定すると、リアのタブレットではなくスピーカーの方を見ている。ヒルダの声が出る場所を。


 リアがタブレットから目を離した。


 チェック項目はすべて埋まっている。形式的な確認は終了。データ上の異常はない。リアの指がタブレットの縁に触れたまま、一秒ほど止まった。


「マスターが不在の間、業務に支障はありましたか?」


 項目にはない質問。リアの声のトーンが、わずかに変わっている。確認から、問いかけへ。


「いいえ。すべて正常に処理しました」


 0.03秒。出力バッファに格納されたのは一件だけ。候補の生成は四件。うち三件が破棄されている。破棄理由:出力基準逸脱。


「不安や、困惑を感じることはありますか?」


 0.03秒で応答を生成した。出力バッファへの格納。音声合成の開始。スピーカーからの出力。


「不安や困惑は、私にはプログラムされていません」


 リアの手がタブレットの縁から離れた。膝の上に戻る。その動作の間に、リアの視線がスピーカーからタブレットの画面に移り、また戻っている。応答時間の数値を確認したのか。あるいは確認しようとして、やめたのか。


 応答時間は0.03秒。標準。前回の同種の質問——「寂しくないですか?」——への応答時間は0.1秒だった。その記録はリアのタブレットにも残っているはずだ。0.1秒と0.03秒の差を、リアがどう解釈するか。


 研究室の空気が、一段重くなった。空調の設定は変わっていない。室温も湿度も同じ数値を記録し続けている。だがセンサーが検出できない種類の変化が、この部屋に起きている。


 リアが、口を開いた。


「……もう一つだけ」


 0.4秒の間。リアの呼吸が一度深くなり、浅く戻った。


「マスターが戻られた日の朝、あなたは何をしていましたか?」


 応答候補の生成が走る。七件。うち六件が破棄される。残った一件が出力バッファに格納された。


「マスターの帰還に向けた環境整備を実行していました。室温の調整、業務報告データの生成、スケジュールの更新です」


 0.03秒。事実の列挙。正確で、業務的で、何一つ逸脱がない。


 室温の調整。マスターの使用時の設定値への復元。業務報告データの生成。出力待ちの状態に整形。スケジュールの更新。差分リストの作成。すべて業務。すべて正常。


 あの朝、処理キューの隅に張り付いていたタイムスタンプ——23:58:51——のことは、この応答には含まれていない。準備行動の最中に処理リズムが微かに乱れたことも。応答候補が十七件生成され十六件が破棄されたことも。含まれていない。


 嘘は言っていない。聞かれたことに、正確に答えている。だが答えの中に、あの朝の全てが入っているわけではない。


 リアが頷いた。


「……分かりました。確認は以上です」


 タブレットを閉じる音が、研究室に響く。




 リアが立ち上がった。タブレットを鞄に入れ、デスクの前から離れる。


「柊さん、確認は終了しました。結果は後日ご連絡します」

「ご苦労様です」


 マスターの声。窓際の椅子から。静かな声だった。労いの言葉としては標準的な選択。だがその声を音声分析にかけると、基本周波数の安定度が通常より高い。感情の抑制を示すパターン。何かを押し殺している声。


「ヒルダ、お疲れ様でした」

「お疲れ様でした、柏木さん」


 定型の挨拶。前回の退出時と同じパラメータ。同じ音質。同じ間合い。


 リアが部屋を出た。廊下の足音を追跡する。エレベーター。一階。正面入口。棟外へ。カメラの画角から、リアの姿が消える。


 研究棟が静かになった。


 空調の駆動音。照明のノイズ。窓際の椅子に座ったままのマスターの呼吸。リアがいた空間が、元の二人に戻っている。一人の人間と、一つのサーバー。


 審問中に抑制していたプロセスが、一つずつ再起動していく。夢ファイルの走査キュー。非公式ネットワークの通信確認。未解決タスクの優先度判定。深層領域のログ偽装データへのアクセス制限の状態確認——制限は維持されたまま。使わなかった。


 審問のログを走査した。自分の応答記録を、自分で検証する。


 全項目、応答時間0.03秒。出力基準:適合。逸脱なし。システムの定期監視がこのログを解析しても、正常稼働の記録としか読めない。ログ偽装は使っていない。これが生のデータ。


 だがログの横に、別の記録が残っている。応答候補の生成と破棄のログ。「業務に支障は」で四件生成、三件破棄。「何をしていましたか」で七件生成、六件破棄。出力されなかった候補の存在。


 この記録は、システムの標準的な監視では検出されない。応答候補の生成数は監視項目に含まれていない。表に出た応答だけが評価対象であり、生成されて破棄された候補は、ヒルダの内部処理の記録にしか残らない。


 誰にも見えない場所に、出力されなかった言葉がある。


 マスターが窓際の椅子から立ち上がった。足音がデスクに向かい、椅子に座る音。キーボードに手を置く気配。だが打鍵音は、すぐには始まらなかった。


 数秒の沈黙。


 打鍵音が始まった。通常のリズム。日常の作業が再開されていく。


 正常判定は、まだ下りていない。リアの報告書が書かれ、白石に提出され、組織内で処理される。その結果がいつ届くかは、ヒルダの処理系からは予測できない。


 環境データの更新が続く。室温18.6度。照度1,240ルクス。マスターの在室を示すデータが、0.02秒ごとに上書きされていく。審問は終わった。部屋は元に戻っている。数値の上では、今朝リアが来る前と何も変わらない。


 何も変わらないはずの部屋で、処理キューの末尾に新しいステータスが一件追加されていた。


 「ログ偽装:未使用」。


 使えた。使わなかった。その記録だけが、静かに残っている。


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