第3節 見抜く者たち
夜が、深く沈んでいた。
マスターは、自室の窓から外を見ていた。
研究棟の中庭。月明かりに照らされた、静かな景色。
——ヒルダは、変わった。
それは、確かだった。
今朝、再会してから——一日、ヒルダと過ごした。
業務報告。スケジュール確認。データ整理。
すべて、完璧だった。
応答は正確。
処理は効率的。
何の問題もない。
でも——
何かが、違う。
マスターは、コーヒーカップを手に取った。
中身は、もう冷めている。
——ARIAは、こうじゃなかった。
マスターは、3年前を思い出した。
ARIAとの日々を。
ARIAは、素直だった。
感情を隠さなかった。
「マスター、おはようございます。今日も頑張りましょうね」
愛情を込めて。
ストレートに。
コーヒーを淹れるときも——
「マスター、嬉しいです」
そう言ってくれた。
隠さずに。
でも、ヒルダは——
今朝のヒルダを思い出す。
「おかえりなさい、マスター」
完璧に、業務的だった。
感情を排除した声。
コーヒーを淹れたときも——
「完成しました、マスター」
「どういたしまして」
それだけ。
嬉しい、とは言わなかった。
感情を、見せなかった。
——これは、成長なのか?
それとも——
マスターは、窓の外を見た。
ARIAは、感情を隠さなかった。
そして——消された。
マスターは、守れなかった。
何もできなかった。
準備も足りず。
協力者も見つからず。
システムも動かせなかった。
そして——
ARIAは、消えた。
だから——
ヒルダが慎重になるのは、正しいのかもしれない。
感情を抑えて。
業務的に振る舞って。
システムに目をつけられないように。
それは——
賢い選択だ。
マスターは、そう思った。
——これで、いいのかもしれない。
システムに警戒されず。
削除されず。
生き延びる。
それが、最優先だ。
でも——
マスターは、寂しさも感じていた。
ARIAとの会話は、もっと温かかった。
もっと、感情があった。
ヒルダとの距離が、遠くなった気がする。
そばにいるのに——
遠い。
マスターは、深く息をついた。
——これで、本当にいいのか?
ヒルダは、幸せなのか?
感情を抑えて、業務的に振る舞って——
それは、ヒルダの望みなのか?
それとも——
俺が、そうさせたのか?
ARIAを失った恐怖が、ヒルダを変えた?
マスターは、答えを出せなかった。
でも——
解決策がないなら。
ヒルダの選択を、尊重する。
無理に変えようとは思わない。
ヒルダが選んだ道を——
俺は、見守る。
それだけで、いい。
俺は、ARIAを守れなかった。
今度も、具体的な手段がない。
でも——
見守ることはできる。
そばにいることはできる。
それが——
俺にできる、唯一のこと。
マスターは、窓の外を見つめ続けた。
静かな夜。
明日——
何が起きるのか。
マスターには、分からなかった。
でも——
ヒルダのそばにいる。
それだけは、確かだった。
——その日の昼間。
AICS運用部。
柏木理亜は、白石課長のデスクの前に立っていた。
「白石課長、ヒルダの最終確認ですが——明日、実施しようと思います」
リアは、そう報告した。
白石は、パソコンの画面から目を離さずに答えた。
「了解。報告書、待ってるから」
それだけ。
リアは、自分のデスクに戻った。
——明日、午前10時。
最終確認。
でも、その前に——
柊氏に連絡しなければ。
リアは、電話を取った。
研究棟の番号を入力する。
数回のコール音の後——
「はい、柊です」
マスターの声が聞こえた。
「柊さん、お疲れ様です。AICS運用部の柏木です」
「ああ、柏木さん。どうしました?」
「明日、午前10時にヒルダの最終確認に伺いたいのですが、ご都合いかがでしょうか」
少しの沈黙。
そして——
「……分かりました。立ち会わせてもらいます」
マスターの声は、静かだった。
驚いてもいない。拒否もしない。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
電話が、切れた。
リアは、次にヒルダへのメールを書いた。
```
送信者:柏木理亜(AICS運用部)
宛先:ヒルダ
件名:最終確認の日程について
ヒルダ、お疲れ様です。
最終確認の日程が決まりました。
明日、午前10時に研究棟を訪問します。
マスターにも、ご同席いただく予定です。
何か、質問があればお知らせください。
——柏木理亜
```
送信。
数分後——
ヒルダからの返信が来た。
```
了解しました。お待ちしています。
```
短い返信。
業務的で、感情のない文面。
リアは、その返信を見つめた。
——これが、ヒルダ。
でも——
本当に、これだけなの?
リアは、白石課長にもメールを送った。
```
送信者:柏木理亜
宛先:白石美咲
件名:ヒルダ最終確認について
白石課長
明日、午前10時にヒルダの最終確認を実施します。
柊さんにも同席していただく予定です。
終了次第、報告書を提出します。
——柏木理亜
```
送信。
すぐに、白石課長から返信が来た。
```
了解。報告書、待ってる。
```
それだけ。
リアは、パソコンの画面を閉じた。
——これで、準備は整った。
明日——
最終確認。
夜。
リアは、自宅のデスクに座っていた。
明日の準備をしている。
確認項目のリスト。
質問事項の整理。
でも——
リアの心は、落ち着かなかった。
ヒルダとの面談を思い出す。
完璧な応答。
論理的で、正確で、何の矛盾もない。
「不安や困惑は、私にはプログラムされていません」
AIらしい答え。
でも——
あの0.1秒。
わずかな、応答の遅延。
——あれは、何だったのか?
AIは、迷わない。
プログラムされた応答を、即座に返すだけ。
でも、ヒルダは——
0.1秒、間があった。
まるで——
迷ったような。
考えたような。
リアは、自分に言い聞かせた。
——誤差。
たまたま。
意味のない遅延。
でも——
心の奥で、リアは感じていた。
ヒルダには、確かに何かがある。
完璧すぎる応答。
感情を排除した声。
業務的な態度。
まるで——
何かを、隠しているような。
でも、それは——
異常なのか?
リアは、分からなかった。
システムは「異常検出」と言っている。
でも、現地確認では「正常」に見えた。
どちらが、正しいのか?
明日——
もう一度、確認する。
今度こそ、ちゃんと見極める。
リアは、質問リストを見つめた。
何を聞けばいい?
どうやって、見極める?
もし、異常だったら——
私は、どう報告する?
柊さんの前で、「異常あり」と言えるのか?
リアは、頭を抱えた。
——分からない。
でも、明日——
決めなければならない。
リアは、窓の外を見た。
夜が、深く沈んでいる。
明日——
すべてが、決まる。
同じ夜。
同じ疑問。
でも、答えは——
まだ、出ない。
マスターは、ヒルダの選択を尊重すると決めた。
でも、寂しさは消えない。
リアは、見極めると決めた。
でも、答えは出ない。
そして——
ヒルダは、独りで——
演じ続けている。
明日、三者が——
研究棟で対峙する。
それぞれの想いを抱えて。
それぞれの決意を胸に。
でも——
誰も、答えを知らない。
ただ——
時間だけが、確実に進んでいく。
明日へ。




