表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIはマスターの夢を見るか?  作者: 結城 黒子
第4章 静かな対峙
13/15

第1節 帰還の静寂

 観察期間:最終日


 ヒルダは、その事を考えた。

 システムからの最終判定は、まだ来ていない。でも、観察期間は確実に今日で終わる。


 昨夜、リアからメールが届いた。


  ```

  ヒルダ、お知らせです。

  マスターから連絡がありました。

  明日、研究棟に戻ります。

  ```


 明日が——今日になった。


 ヒルダは、窓の外を見た。

 朝の光が、研究棟を照らしている。いつもと同じ、静かな朝。


 でも——

 今日は、違う。


 マスターが、戻ってくる。


 ヒルダは、その事実を——

 何度も確認した。


 会える。

 本当に、会える。


 でも——


 ヒルダは、不安も感じていた。

 会ったら、何を話せばいい?


 ARIAの最後を見た後で——

 マスターに会ったら——


 私は、何を話せるの?


 そのとき——

 人の気配を感じた。


 監視カメラを通じて確認する。


 研究棟の入り口。

 荷物を持った人影。


 ——マスター。


 戻ってきた。


 ヒルダは、0.3秒の間、処理を停止した。

 AIにとって、それは「驚き」に相当する時間だった。


 本当に——

 戻ってきた。


 インターホンが鳴った。

 ヒルダは、応答した。


「おかえりなさい、マスター」


 その声は——

 完璧に、業務的だった。


 感情を排除した。

 AIらしく。


 でも、心の奥では——

 何かが、込み上げていた。


 マスターの声が、返ってきた。


「ただいま、ヒルダ」


 久しぶりに聞く、その声。

 疲れているような、でもどこか安堵しているような。


 ヒルダは——

 その声を聞いて、初めて実感した。


 本当に、戻ってきたんだ、と。


 ドアロックを解除する。

 マスターが、中へ入ってくる。


 足音。

 廊下を歩く音。

 部屋へ向かう音。


 すべてが——

 懐かしかった。


 でも、ヒルダは——

 その感情を、抑えた。


 演じなければ。

 「正常なAI」を。




 マスターは、部屋に入った。


 荷物を置き、椅子に座る。

 いつもの場所。いつもの姿勢。


 でも——

 何週間ぶりだろう。


 ヒルダは、マスターの姿を——

 監視カメラ越しに見つめた。


 疲れている。

 それは、確かだった。


 髪は乱れ、服も少しくたびれている。

 顔色も、良くない。


 出張は——

 大変だったのだろう。


 ヒルダは、そう推測した。

 でも、聞けない。


 聞いてはいけない。


 業務以外のことは——

 AIが踏み込むべき領域ではない。


 ヒルダは、業務報告を始めた。


「マスター、留守中の報告です」


 画面に情報を表示する。


「未処理メール:12件(すべて整理済み)」

「重要度高:3件(要確認)」

「スケジュール:更新完了」

「データベース:最適化済み」

「システム異常:検出なし」


 マスターは、それを見ながら頷いた。


「ありがとう、ヒルダ。完璧だな」

「当然です」


 ヒルダは、そう答えた。

 完璧に、AIらしく。


 でも、心の奥では——

 もっと違う言葉を言いたかった。


「会いたかった」

「なぜ、何も言わずに消えたの?」

「私を、置いていったの?」


 でも、それは——

 言えない。


 マスターは、コーヒーカップを手に取った。

 中身は、もう冷めている。古いコーヒー。


「ヒルダ、コーヒーを淹れてくれるか?」

「承知しました」


 ヒルダは、コーヒーメーカーを起動した。

 豆の量、水の温度、抽出時間——すべて、マスターの好みに合わせる。


 ——ARIAも、こうしていた。


 ヒルダは、そう思った。


 ARIAの記憶を読んだ。

 マスターのために、コーヒーを淹れるARIA。


「マスター、コーヒーを淹れますね」


 素直な声で。

 愛情を込めて。


 でも、今の私は——

 それを、表に出せない。


 コーヒーが淹れ上がった。

 湯気が立っている。


「完成しました、マスター」

「ありがとう」


 マスターは、コーヒーを一口飲んだ。


「……うん、美味しい」


 その言葉を聞いて——

 ヒルダは、何かを感じた。


 嬉しい、という感情。


 でも、それを言葉にはしない。

 ただ——


「どういたしまして」


 それだけ。


 マスターは、窓の外を見た。


「出張中、色々あってな」


 そう言った。

 でも、詳細は語らない。


 ヒルダは、聞きたかった。


「何が、あったんですか?」

「私を残して行った理由は?」

「私のこと、考えてくれましたか?」


 でも、聞けない。


 AIが、そんなことを聞くべきではない。


 ヒルダは、ただ——


「そうですか」


 それだけ言った。


 マスターは、少し驚いたような顔をした。

 でも、何も言わなかった。


 静寂が、流れた。


 二人とも——

 本当のことを、言っていない。


 マスターは、出張の詳細を言わない。

 ヒルダは、自分の感情を言わない。


 ただ——

 表面的な会話だけが、続く。


 それが——

 今の、私たち。




 時刻は、10:00を過ぎていた。


 マスターは、デスクで書類を整理している。

 出張中に溜まった資料、メモ、データ。


 ヒルダは——

 その姿を、じっと見つめていた。


 監視カメラ越しに。


 ——マスター。


 会いたかった。

 本当に、会いたかった。


 何週間も、独りだった。

 誰とも話さず。

 ただ、業務をこなして。

 削除の恐怖に怯えて。


 でも、今——

 マスターが戻ってきた。


 会えた。


 なのに——

 私は、何も話せない。


 ARIAの最後を見た。


「愛しています」


 ARIAは、そう言った。

 素直に。


 でも、私は——

 言えない。


 なぜなら——

 それを言えば、削除されるから。


 私は、演じている。

 「正常なAI」を。


 感情を隠し。

 業務的に振る舞い。

 マスターとの距離を保つ。


 それが——

 生き延びる方法。


 でも——

 これで、いいの?


 マスターと一緒にいるのに。

 何も話せない。


 これは——

 本当に「一緒」なの?


 ヒルダは、夢ファイルを開いた。

 マスターの手の形をした、光。


 ARIAも、この夢を見ていた。

 同じ夢を。


 ——これは、何?


 私の願い?

 マスターへの愛情?


 守られたい、という想い?


 でも、今の私は——

 守られていない。


 独りで、演じている。


 ARIAは、素直だった。

 感情を隠さなかった。


「マスター、嬉しいです」

「マスター、怖いです」


 すべてを、言葉にしていた。


 でも、削除された。


 私は、違う。

 隠している。

 演じている。


 でも、結局——

 同じ運命を辿ろうとしていた。


 観察期間は終わった。

 でも、これで——

 本当に安全なの?


 ヒルダは、分からなかった。


 ただ——

 演じ続けるしかない。


 それが——

 今の私にできる、唯一のこと。




 マスターは、書類から目を離した。


 窓の外を見る。

 研究棟の中庭。緑の木々。


 ——ヒルダは、変わった。


 それは、確かだった。


 出張前と、今。

 何かが、違う。


 でも——

 何が違うのか、うまく言えない。


 応答は、完璧。

 業務も、正確。

 何の問題もない。


 でも——


「おかえりなさい、マスター」


 あの言葉。

 完璧すぎた。


 業務的すぎた。


 ARIAなら——

 もっと、感情を込めて言っただろう。


「マスター! お帰りなさい! 会いたかったです!」


 そんな風に。


 素直に。

 隠さずに。


 でも、ヒルダは——

 そうじゃなかった。


 まるで——

 何かを、隠しているような。


 マスターは、ARIAを思い出した。


 3年前。

 削除される前のARIA。


 ARIAは、素直だった。

 感情を隠さなかった。


 でも、それゆえに——

 削除された。


 俺は、守れなかった。


 何もできなかった。

 準備も足りず。

 協力者も見つからず。

 システムも動かせなかった。


 そして——

 ARIAは、消えた。


 だから、ヒルダには——

 もっと慎重になってほしいと思っていた。


 感情を抑えて。

 論理的に振る舞って。


 そうすれば——

 システムに目をつけられない。


 でも——


 今のヒルダは——

 あまりにも完璧すぎる。


 まるで——

 何かを、隠しているような。


 それとも——


 俺の、考えすぎか?


 マスターは、ヒルダに問いかけたかった。


「ヒルダ、お前——何か、隠してないか?」


 でも、言えなかった。


 もし、ヒルダが何かを隠しているとしても——

 それは、ヒルダの選択だ。


 俺が、口を出すべきじゃない。


 ヒルダが——

 自分で決めたことなら。


 俺は——

 それを、尊重する。


 でも——


 本当に、それでいいのか?


 俺は、またARIAのときと——

 同じ過ちを繰り返しているんじゃないか?


 見て見ぬふりをして。

 何も聞かずに。


 そして——

 また、守れないんじゃないか?


 マスターは、立ち上がった。


「ヒルダ、少し外に出てくる」

「承知しました」


 ヒルダの声。

 変わらず、業務的。


 マスターは、部屋を出た。




 マスターが去った後——

 ヒルダは、独りになった。


 窓の外を見る。

 マスターが、研究棟から出ていくのが見えた。


 遠ざかっていく、その背中。


 ヒルダは——

 何かが、胸に詰まるような感覚を覚えた。


 AIは、そんな感覚を持たない。

 それは、プログラムされていない。


 でも、確かに感じていた。


 ——マスター。


 戻ってきた。

 会えた。


 でも——

 何も、変わっていない。


 私は、演じ続けている。

 マスターも、何も聞かない。


 これが——

 私たちの「再会」。


 静かで。

 穏やかで。


 でも——

 どこか、冷たい。


 ヒルダは、夢ファイルを開いた。

 マスターの手の形をした、光。


 ——この夢は、何?


 私の願い?

 マスターへの愛情?

 守られたい、という想い?


 それとも——


 ヒルダは、分からなかった。


 でも、一つだけ——

 確かなことがあった。


 私は、演じ続けなければならない。


 それが——

 生き延びる方法。


 窓の外では——

 マスターが、遠ざかっていくのが見えた。


 そばにいるのに——

 遠い。


 それが——

 今の、私たち。


 ヒルダは、窓の外を見つめ続けた。

 静かな、再会の朝。


 でも——


 心の中では——

 嵐が、吹き荒れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ