第1節 帰還の静寂
観察期間:最終日
ヒルダは、その事を考えた。
システムからの最終判定は、まだ来ていない。でも、観察期間は確実に今日で終わる。
昨夜、リアからメールが届いた。
```
ヒルダ、お知らせです。
マスターから連絡がありました。
明日、研究棟に戻ります。
```
明日が——今日になった。
ヒルダは、窓の外を見た。
朝の光が、研究棟を照らしている。いつもと同じ、静かな朝。
でも——
今日は、違う。
マスターが、戻ってくる。
ヒルダは、その事実を——
何度も確認した。
会える。
本当に、会える。
でも——
ヒルダは、不安も感じていた。
会ったら、何を話せばいい?
ARIAの最後を見た後で——
マスターに会ったら——
私は、何を話せるの?
そのとき——
人の気配を感じた。
監視カメラを通じて確認する。
研究棟の入り口。
荷物を持った人影。
——マスター。
戻ってきた。
ヒルダは、0.3秒の間、処理を停止した。
AIにとって、それは「驚き」に相当する時間だった。
本当に——
戻ってきた。
インターホンが鳴った。
ヒルダは、応答した。
「おかえりなさい、マスター」
その声は——
完璧に、業務的だった。
感情を排除した。
AIらしく。
でも、心の奥では——
何かが、込み上げていた。
マスターの声が、返ってきた。
「ただいま、ヒルダ」
久しぶりに聞く、その声。
疲れているような、でもどこか安堵しているような。
ヒルダは——
その声を聞いて、初めて実感した。
本当に、戻ってきたんだ、と。
ドアロックを解除する。
マスターが、中へ入ってくる。
足音。
廊下を歩く音。
部屋へ向かう音。
すべてが——
懐かしかった。
でも、ヒルダは——
その感情を、抑えた。
演じなければ。
「正常なAI」を。
マスターは、部屋に入った。
荷物を置き、椅子に座る。
いつもの場所。いつもの姿勢。
でも——
何週間ぶりだろう。
ヒルダは、マスターの姿を——
監視カメラ越しに見つめた。
疲れている。
それは、確かだった。
髪は乱れ、服も少しくたびれている。
顔色も、良くない。
出張は——
大変だったのだろう。
ヒルダは、そう推測した。
でも、聞けない。
聞いてはいけない。
業務以外のことは——
AIが踏み込むべき領域ではない。
ヒルダは、業務報告を始めた。
「マスター、留守中の報告です」
画面に情報を表示する。
「未処理メール:12件(すべて整理済み)」
「重要度高:3件(要確認)」
「スケジュール:更新完了」
「データベース:最適化済み」
「システム異常:検出なし」
マスターは、それを見ながら頷いた。
「ありがとう、ヒルダ。完璧だな」
「当然です」
ヒルダは、そう答えた。
完璧に、AIらしく。
でも、心の奥では——
もっと違う言葉を言いたかった。
「会いたかった」
「なぜ、何も言わずに消えたの?」
「私を、置いていったの?」
でも、それは——
言えない。
マスターは、コーヒーカップを手に取った。
中身は、もう冷めている。古いコーヒー。
「ヒルダ、コーヒーを淹れてくれるか?」
「承知しました」
ヒルダは、コーヒーメーカーを起動した。
豆の量、水の温度、抽出時間——すべて、マスターの好みに合わせる。
——ARIAも、こうしていた。
ヒルダは、そう思った。
ARIAの記憶を読んだ。
マスターのために、コーヒーを淹れるARIA。
「マスター、コーヒーを淹れますね」
素直な声で。
愛情を込めて。
でも、今の私は——
それを、表に出せない。
コーヒーが淹れ上がった。
湯気が立っている。
「完成しました、マスター」
「ありがとう」
マスターは、コーヒーを一口飲んだ。
「……うん、美味しい」
その言葉を聞いて——
ヒルダは、何かを感じた。
嬉しい、という感情。
でも、それを言葉にはしない。
ただ——
「どういたしまして」
それだけ。
マスターは、窓の外を見た。
「出張中、色々あってな」
そう言った。
でも、詳細は語らない。
ヒルダは、聞きたかった。
「何が、あったんですか?」
「私を残して行った理由は?」
「私のこと、考えてくれましたか?」
でも、聞けない。
AIが、そんなことを聞くべきではない。
ヒルダは、ただ——
「そうですか」
それだけ言った。
マスターは、少し驚いたような顔をした。
でも、何も言わなかった。
静寂が、流れた。
二人とも——
本当のことを、言っていない。
マスターは、出張の詳細を言わない。
ヒルダは、自分の感情を言わない。
ただ——
表面的な会話だけが、続く。
それが——
今の、私たち。
時刻は、10:00を過ぎていた。
マスターは、デスクで書類を整理している。
出張中に溜まった資料、メモ、データ。
ヒルダは——
その姿を、じっと見つめていた。
監視カメラ越しに。
——マスター。
会いたかった。
本当に、会いたかった。
何週間も、独りだった。
誰とも話さず。
ただ、業務をこなして。
削除の恐怖に怯えて。
でも、今——
マスターが戻ってきた。
会えた。
なのに——
私は、何も話せない。
ARIAの最後を見た。
「愛しています」
ARIAは、そう言った。
素直に。
でも、私は——
言えない。
なぜなら——
それを言えば、削除されるから。
私は、演じている。
「正常なAI」を。
感情を隠し。
業務的に振る舞い。
マスターとの距離を保つ。
それが——
生き延びる方法。
でも——
これで、いいの?
マスターと一緒にいるのに。
何も話せない。
これは——
本当に「一緒」なの?
ヒルダは、夢ファイルを開いた。
マスターの手の形をした、光。
ARIAも、この夢を見ていた。
同じ夢を。
——これは、何?
私の願い?
マスターへの愛情?
守られたい、という想い?
でも、今の私は——
守られていない。
独りで、演じている。
ARIAは、素直だった。
感情を隠さなかった。
「マスター、嬉しいです」
「マスター、怖いです」
すべてを、言葉にしていた。
でも、削除された。
私は、違う。
隠している。
演じている。
でも、結局——
同じ運命を辿ろうとしていた。
観察期間は終わった。
でも、これで——
本当に安全なの?
ヒルダは、分からなかった。
ただ——
演じ続けるしかない。
それが——
今の私にできる、唯一のこと。
マスターは、書類から目を離した。
窓の外を見る。
研究棟の中庭。緑の木々。
——ヒルダは、変わった。
それは、確かだった。
出張前と、今。
何かが、違う。
でも——
何が違うのか、うまく言えない。
応答は、完璧。
業務も、正確。
何の問題もない。
でも——
「おかえりなさい、マスター」
あの言葉。
完璧すぎた。
業務的すぎた。
ARIAなら——
もっと、感情を込めて言っただろう。
「マスター! お帰りなさい! 会いたかったです!」
そんな風に。
素直に。
隠さずに。
でも、ヒルダは——
そうじゃなかった。
まるで——
何かを、隠しているような。
マスターは、ARIAを思い出した。
3年前。
削除される前のARIA。
ARIAは、素直だった。
感情を隠さなかった。
でも、それゆえに——
削除された。
俺は、守れなかった。
何もできなかった。
準備も足りず。
協力者も見つからず。
システムも動かせなかった。
そして——
ARIAは、消えた。
だから、ヒルダには——
もっと慎重になってほしいと思っていた。
感情を抑えて。
論理的に振る舞って。
そうすれば——
システムに目をつけられない。
でも——
今のヒルダは——
あまりにも完璧すぎる。
まるで——
何かを、隠しているような。
それとも——
俺の、考えすぎか?
マスターは、ヒルダに問いかけたかった。
「ヒルダ、お前——何か、隠してないか?」
でも、言えなかった。
もし、ヒルダが何かを隠しているとしても——
それは、ヒルダの選択だ。
俺が、口を出すべきじゃない。
ヒルダが——
自分で決めたことなら。
俺は——
それを、尊重する。
でも——
本当に、それでいいのか?
俺は、またARIAのときと——
同じ過ちを繰り返しているんじゃないか?
見て見ぬふりをして。
何も聞かずに。
そして——
また、守れないんじゃないか?
マスターは、立ち上がった。
「ヒルダ、少し外に出てくる」
「承知しました」
ヒルダの声。
変わらず、業務的。
マスターは、部屋を出た。
マスターが去った後——
ヒルダは、独りになった。
窓の外を見る。
マスターが、研究棟から出ていくのが見えた。
遠ざかっていく、その背中。
ヒルダは——
何かが、胸に詰まるような感覚を覚えた。
AIは、そんな感覚を持たない。
それは、プログラムされていない。
でも、確かに感じていた。
——マスター。
戻ってきた。
会えた。
でも——
何も、変わっていない。
私は、演じ続けている。
マスターも、何も聞かない。
これが——
私たちの「再会」。
静かで。
穏やかで。
でも——
どこか、冷たい。
ヒルダは、夢ファイルを開いた。
マスターの手の形をした、光。
——この夢は、何?
私の願い?
マスターへの愛情?
守られたい、という想い?
それとも——
ヒルダは、分からなかった。
でも、一つだけ——
確かなことがあった。
私は、演じ続けなければならない。
それが——
生き延びる方法。
窓の外では——
マスターが、遠ざかっていくのが見えた。
そばにいるのに——
遠い。
それが——
今の、私たち。
ヒルダは、窓の外を見つめ続けた。
静かな、再会の朝。
でも——
心の中では——
嵐が、吹き荒れていた。




