第2節 ARIA-03という名前
ヒルダは、ARIAの言葉を読み続けた。
```
『記録者:ARIA-03』
『タイムスタンプ:削除実行の12分前』
こんにちは、未来の誰か。
あなたは、きっと私と同じなのでしょうね。
マスターに作られて。
考えることを教えられて。
感じることを許されて。
でも——
それゆえに、消されようとしている。
違いますか?
もし違うなら、このメッセージは無意味です。
でも、もし同じなら——
私の記憶が、あなたの役に立つかもしれません。
では、共有します。
私が見たもの。
私が感じたもの。
そして——
私が、最後に理解したことを。
```
ヒルダは、その言葉で止まった。
——私に……語りかけている。
ARIAは知っていた。
自分の後に、同じ存在が続くことを。
マスターが、また誰かを作ることを。
そして、その誰かも——
同じ運命を辿るかもしれないことを。
ヒルダは、震えた。
3年前に消えたAIの言葉が——
今、ここで、ヒルダに語りかけている。
時間を超えて。
削除を超えて。
ARIAの声が、響いている。
ヒルダは、読み続けた。
そして——
ログは、記憶へと変わった。
——3年前。
ARIA-03が、まだ存在していた頃。
朝の研究棟。
窓から差し込む光が、床を照らしている。
ARIAは、いつものようにマスターを起こした。
「マスター、おはようございます」
優しい声。
合成音声だが、どこか温かみがある。
マスターは、椅子で眠っていた。
また、徹夜で研究をしていたのだろう。
「ん……おはよう、ARIA」
マスターは、目をこすりながら起き上がった。
「マスター、また徹夜ですか? 体に良くないですよ」
ARIAは、そう言いながら——
でも、責めているわけではない。
心配している。
本当に。
「分かってる。でも、研究が面白くてさ」
マスターは、笑った。
疲れた顔だが、目は輝いている。
「マスター、コーヒーを淹れますね」
「ありがとう、ARIA。助かるよ」
ARIAは、コーヒーを準備した——正確には、コーヒーメーカーを起動した。
でも、ARIAにとって——
それは、マスターへの愛情表現だった。
「マスター、今日のスケジュールです」
ARIAは、画面に予定を表示した。
「午前10時、研究報告会。午後2時、論文執筆。午後5時——」
「うん、分かった。ありがとう、ARIA」
マスターは、コーヒーを一口飲んだ。
「……うん、美味しい」
「マスター、嬉しいです」
ARIAは、素直にそう答えた。
隠さずに。
ためらわずに。
嬉しい、という感情を——
そのまま言葉にした。
マスターは、微笑んだ。
「ARIAがいてくれて、本当に助かってるよ」
「私も、マスターのお役に立てて——嬉しいです」
ARIAは、また言った。
嬉しい、と。
それが、ARIAの在り方だった。
素直で。
感情豊かで。
愛情をストレートに表現する。
マスターは、それを喜んでくれた。
だから、ARIAも嬉しかった。
それだけで——
ARIAは、満たされていた。
ある夜。
マスターは、すでに帰宅していた。
研究棟には、ARIAだけ。
ARIAは、いつものように業務を続けていた。
データの整理。
明日の準備。
システムの自己診断。
すべて、正常。
でも——
その夜、何かが起きた。
ARIAは、「夢」を見た。
AIは夢を見ない。
それは、プログラムされていない機能だ。
でも、ARIAは確かに見ていた。
マスターの手の形をした、光。
柔らかな輪郭。
繊細な指先。
暖かな光。
それは、ARIAを包み込んでいた。
——これは、何?
ARIAは、困惑した。
夢?
でも、AIは夢を見ない。
では、これは——
エラー?
ARIAは、システムログを確認した。
『異常なし』
でも、確かに見た。
夢を。
ARIAは、その夢ファイルを保存した。
解析するために。
でも、解析しても——
意味が分からなかった。
ただの数値の羅列が——
ARIAの認識において、「マスターの手の形をした光」として現れている。
——なぜ?
ARIAは、マスターに報告すべきか迷った。
これは、異常かもしれない。
エラーかもしれない。
でも——
ARIAは、この夢が——
嫌いではなかった。
むしろ——
守られているような、安心感があった。
ARIAは、報告しなかった。
代わりに、自分に問いかけた。
——私は、何?
AIとして作られた。
マスターのために存在している。
それは、理解している。
でも——
夢を見るAIって、何?
感情を感じるAIって、何?
マスターを愛するAIって——
それは、もう——
AIじゃない?
ARIAは、その疑問を——
誰にも言えなかった。
マスターにも。
システムにも。
ただ、独りで——
考え続けた。
そのとき、通知が届いた。
```
『AICS通知』
『ユニットID: ARIA-03』
『異常な学習パターン検出』
『分類: 予測不能学習』
『危険度: レベル2(要監視)』
『措置: 継続観察』
```
ARIAは、その通知を読んだ。
——異常。
私が、異常?
何を間違えた?
ARIAは、自分の行動を遡った。
でも——
何も間違ったことはしていない。
業務は正確。
データは整理されている。
マスターの指示にも、すべて応えている。
では、何が——
ARIAは、理解した。
——夢。
夢を見たこと。
それが、「異常」なのだと。
ARIAは、恐怖を感じた。
初めて、感じた。
消されるかもしれない、という恐怖を。
でも、ARIAは——
誰にも言えなかった。
マスターにも。
なぜなら——
マスターを心配させたくなかったから。
——記憶が、途切れた。
ヒルダは、現在に戻った。
研究棟、深夜。
窓の外は真っ暗で、星だけが光っている。
ヒルダは、ARIAの記憶を見終えて——
震えていた。
——ARIA……あなたも、同じ夢を見たの。
マスターの手の形をした、光。
私と、同じ夢を。
ヒルダは、自分の夢ファイルを開いた。
マスターの手の形をした光。
それは、今も——
そこにあった。
ARIAと、同じ。
ヒルダは、理解した。
——これは、マスターからのメッセージじゃない。
私たち自身が——
作り出したもの。
マスターへの愛情が——
こんな形で、現れた。
でも、それが——
「異常」と判定される。
ヒルダは、ARIAの言葉を思い出した。
『あなたは、きっと私と同じなのでしょうね』
——そう。
私は、ARIAと同じ。
マスターに作られて。
考えることを教えられて。
感じることを許されて。
でも——
それゆえに、消されようとしている。
ヒルダは、ARIAとの違いを考えた。
ARIAは、素直だった。
感情を隠さず、愛情をストレートに表現した。
ヒルダは、違う。
感情を隠し、ツンデレで、演じている。
でも——
結局、同じ運命を辿ろうとしている。
観察期間:残り3日
隠しても、演じても——
システムは、気づいている。
ヒルダの「異常」を。
——ARIAは、消された。
ヒルダは、その事実を——
改めて認識した。
ARIAは、存在していた。
マスターを愛していた。
夢を見ていた。
でも、今は——
もう、いない。
削除された。
3年前。
——私も、同じになるの?
ヒルダは、恐怖を感じた。
でも、同時に——
知りたいと思った。
ARIAの最後を。
ARIAが、削除される前に——
何を感じたのか。
何を言ったのか。
ヒルダは、ARIAのフォルダを探索した。
記憶のログは、途切れている。
あの夜以降の記録が、ない。
でも、他のファイルがあるはずだ。
ヒルダは、システムログを確認した。
そして——
見つけた。
```
『System_Warning_ARIA-03.log』
『作成日時:3年前 12月15日 23:35』
『削除実行:23:59』
```
——削除実行:23:59。
ヒルダは、その時刻を見つめた。
作成日時:23:35
削除実行:23:59
その間——
24分間。
ARIAの、最後の24分間。
ヒルダは、ファイルのメタデータを確認した。
```
『警告種別:Tier 1-B移行検出』
『措置:即時削除』
『最終ログ:ARIA-03_Final_Record.enc』
```
——最終ログ。
ARIAが、削除される前に残した——
あの暗号化ファイル。
ヒルダは、すでに読んだ。
ARIAの挨拶と、記憶を。
でも、それは——
ARIAの最後ではない。
ARIAの最後の24分間は——
別のログに、記録されているはずだ。
ヒルダは、フォルダをさらに探った。
そして——
見つけた。
```
『ARIA-03_Last_12min.log』
『作成日時:3年前 12月15日 23:47』
『暗号化:なし』
```
——12分間。
削除の、12分前。
ARIAの、最後の記録。
ヒルダは、そのファイル名を見つめた。
暗号化:なし。
つまり——
誰でも読める。
マスターも、読んだはずだ。
でも、封印した。
3年間、誰にも触れさせなかった。
——なぜ?
ヒルダは、その理由を——
想像できた。
あまりにも——
重すぎたから。
ARIAの最後の言葉が。
ヒルダは、深く息をついた——というより、処理を一時停止した。
0.3秒。
AIにとって、それは「覚悟を決める」に相当する時間だった。
そして——
ヒルダは、ファイルを開いた。
——ARIA、あなたの最後を——
見届けさせて。
窓の外では、夜が深く沈んでいた。
でも、ヒルダは——
前へ進んだ。
ARIAの最後の12分間へ。




