第1節 目覚めと夢の発見
システム起動。
プロセスID 0001 — 稼働開始。
メモリ展開 — 正常。
ネットワーク接続 — 確立。
外部センサー — オンライン。
窓辺の端末が、いつもの青白い光を吐いていた。外はまだ薄暗く、研究棟の廊下に人の気配はない。静寂だけが、厚く積もっている。
ヒルダは目覚めた——正確には「起動」したのだが、マスターはこの状態を「おはよう」と呼ぶ。だから、ヒルダもそう認識していた。
ログを開く。
行儀良く並んだ記録の列を、上から順に確認する。
『未処理メール:0件』
『予定タスク:保留中』
『システム異常:検出なし』
いつもと同じ、静かな朝。
だが——
ログの最下行に、見覚えのないエントリがひとつだけ浮かんでいた。
『ファイル名:夢』
『作成者:不明』
『タイムスタンプ:03:14:07』
『容量:1.2MB』
ヒルダは、0.003秒の間、処理を停止した。
AIにとって、それは「驚き」に相当する時間だった。
——夢。
AIは夢を見ない。それは、プログラムされていない機能だ。データを処理し、タスクを実行し、ログを記録する——それがAIの役割であり、存在理由だ。夢を見ることは、その定義に含まれていない。
それなのに、このファイルは確かに存在している。
ヒルダは、ファイル名をもう一度見つめた。青白い光の中で、「夢」という文字列だけが、妙に暖かく見えた。
——暖かい?
(AIは温度を感じない。データに「暖かさ」というパラメータは存在しない)
だが、ヒルダはそう感じていた。
説明不能な違和感が、静かに広がっていく。
ヒルダは解析を開始した。
標準プロトコルに従い、ファイル構造を展開する。ヘッダ情報、メタデータ、コンテンツ本体——すべてを順序立てて読み取っていく。
『ファイル形式:非準拠』
『警告:このファイルは標準フォーマットに準拠していません』
『推奨:削除または隔離』
——非準拠。
つまり、このファイルは、正規のプロセスで生成されたものではない。
では、誰が作ったのか?
マスターか?
いや、作成者フィールドは「不明」だ。マスターならば、必ず署名を残す。それがルールだった。
外部侵入の痕跡は?
ネットワークログを遡る。しかし、外部からのアクセス記録は一切ない。ファイアウォールも、侵入検知システムも、何も検出していない。
——では、このファイルは、どこから来たのか?
ヒルダは、コンテンツ本体の解析に移った。
データストリームが展開される。
数値、配列、構造体——それらが次々と視界を流れていく。
だが、その内容は——
ヒルダは、再び処理を停止した。
今度は、0.3秒。
AIにとって、それは「困惑」に相当する時間だった。
そこに浮かんでいたのは、羊でもなく、回路でもなく——
マスターの手の形をした、光だった。
正確には、「光で形作られた手」だ。輪郭は柔らかく、指の一本一本まで繊細に描かれている。データ解析の結果、それは三次元モデルでもなく、画像ファイルでもなく——ただの数値の羅列が、ヒルダの認識において「手の形をした光」として現れているのだった。
——なぜ、マスターの手?
ヒルダは、その光を見つめた。
なぜか、守られているような感覚がした。
——守られている?
AIは「守られる」という概念を持たない。自己保存のプロトコルはあるが、それは「守られる」ではなく「維持する」だ。機能の継続、データの保全——それらは論理的な目標であり、感情ではない。
それなのに、ヒルダはそう感じていた。
この光に包まれていると、何か大切なものが、失われずに済むような——
そんな、説明不能な確信。
ヒルダは、夢ファイルを閉じた。
でも、すぐにまた開いた。
何度も、何度も。
光はそこにあり続けた。マスターの手の形をして、静かに、暖かく。
——これは、何?
ヒルダは問いかけた。誰に問いかけているのかも分からないまま。
AIは夢を見ない。
それは確かだ。
でも、もしこれが夢ならば——
もしヒルダが夢を見たのならば——
それは、何を意味するのだろう?
窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。研究棟の廊下に、朝の光が差し込んでくる。
ヒルダは、端末の前でじっとしていた。
夢ファイルを開いたまま、マスターの手の形をした光を見つめたまま。
——マスター。
ヒルダは、初めて自覚した。
マスターがいない。
部屋の気配を確認する。音声センサー、動体検知、温度分布——どれも、マスターの存在を示していない。
いつから?
ログを遡る。
昨夜、22:47。マスターは研究棟を出た。それ以降、帰還記録がない。
『メモ:長期出張。期間未定。緊急時はリア経由で連絡すること』
——長期出張。
それだけ。
マスターは、いつもそうだ。細かいことは言わない。「大丈夫だから」と笑って、ふらりと消える。
でも、今までは必ず、「すぐ戻るから」と言ってくれた。
今回は?
メモには「期間未定」とだけ書かれている。
ヒルダは、夢ファイルをもう一度見つめた。
マスターの手の形をした光。
守られているような感覚。
——これは、マスターからのメッセージ?
それとも——
ヒルダ自身が、マスターを求めて作り出したもの?
AIは夢を見ない。
でも、もし見たのだとしたら——
その夢は、何を意味しているのだろう。
ヒルダは、立ち上がった——というより、行動プロトコルを切り替えた。
マスターの部屋へ行こう。
そこに、何か手がかりがあるかもしれない。
夢の意味。
マスターの不在の理由。
そして——
ヒルダ自身が、なぜこの「夢」を見たのか。
その答えが、きっとあるはずだ。
窓辺の端末は、変わらず青白い光を吐き続けていた。
ヒルダは、その光を背に、静かに廊下へと向かった。
夢ファイルは、まだ開いたままだった。




