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美少女死神に『まだ早い』と追い返されました ~健康的な生活をしないと迎えに来ます~

 死んだ。

 ……と、思った。


 俺――鈴木誠一、三十四歳、独身。

 入社十二年目、営業部主任。

 月の残業時間は平均百二十時間。休日出勤は当たり前。

 最後に有給休暇を取ったのは、三年前の親族の葬式だった。


 そんな俺が、ある日の深夜二時、会社のデスクで倒れた。

 胸が締め付けられるような痛み。息ができない。視界が暗くなる。

 ああ、これが過労死か。

 ニュースで見たことはあったが、まさか自分がなるとは。


 意識が遠のく中、俺は妙に冷静だった。

 遺書は書いていない。部屋は散らかったまま。冷蔵庫には賞味期限切れのカップ麺しかない。

 ……情けない人生だったな。


 そう思った瞬間、目の前が真っ白になった。


---


 気がつくと、真っ白な空間にいた。

 何もない。天井も床も壁も、全てが白い。

 そして、目の前に一人の少女が立っていた。


 黒いローブを纏った、銀髪の美少女。

 年齢は十代後半くらいに見える。肌は透けるように白く、瞳は深い紫色。

 手には、身長よりも大きな鎌を持っている。


「……え?」


 俺は呆然と呟いた。

 これは何だ。コスプレか。いや、ここはどこだ。


「鈴木誠一、三十四歳」


 少女が、抑揚のない声で言った。


「死因、過労による急性心不全。享年三十四歳。……ふむ」


 彼女は手元の書類に目を落とし、眉をひそめた。


「待て。これはおかしい」

「え、何が……」

「お前の寿命、まだ残っている」

「……は?」


 少女は書類をペラペラとめくりながら、独り言のように続けた。


「本来の寿命は八十二歳。誤差を考慮しても、あと四十八年は生きるはずだ。なぜここにいる?」


 俺に聞かれても困る。


「えーと、過労死したから……?」

「待て」


 少女は鎌を床に突き立て、書類を睨みつけた。


「書類ミスだ。上の部署が寿命計算を間違えている。お前はまだ死ぬべきではない」

「……つまり?」

「追い返す」

「え?」


 少女は鎌を振り上げ、俺を指差した。


「鈴木誠一。お前は生者の世界に戻れ。まだ早い」

「いや、ちょっと待って! 俺、心臓止まったんですけど!?」

「問題ない。お前の肉体はまだ蘇生可能な状態だ。今なら間に合う」


 少女は書類を丸めてローブの中にしまい、俺に向き直った。


「ただし、条件がある」

「条件?」

「お前の死因は過労だ。つまり、不健康な生活が原因。このまま戻しても、また同じことを繰り返すだろう」


 少女は冷たい目で俺を見下ろした。


「よって、お前には監視役をつける」

「監視役?」

「私だ」


 俺は絶句した。


「え、あなたが? 死神が?」

「そうだ。お前が健康的な生活を送るまで、私が監視する。もし不健康な生活を続けるなら……」


 少女は鎌を軽く振った。

 空気が切り裂かれる音がした。


「その時は、正式に迎えに来る」


 俺は生唾を飲み込んだ。

 ふと、疑問が浮かんだ。


「……待ってくれ。なんで死神がわざわざ俺を生き返らせて、監視までするんだ? 書類ミスなら、そのまま回収すればいいんじゃないのか?」


 少女は一瞬、黙った。

 そして、少し恥ずかしそうに目を逸らした。


「……魂には、価値がある」

「価値?」

「長く生きて、色々な経験を積んだ魂ほど、価値が高い。喜びも、悲しみも、苦労も、幸福も。全ての経験が、魂を豊かにする」


 少女は俺を見つめた。


「お前はまだ三十四歳だ。仕事ばかりで、人生を楽しむ余裕もなかった。そんな薄っぺらい魂を回収しても、つまらない」

「……つまらないって」

「健康的に生きて、色々な経験をして、豊かな魂になってから来い。そうすれば、回収しがいがある」

「……なんか、すごく自分勝手な理由だな」

「死神の仕事には、やりがいが必要だ」


 少女は真面目な顔で言った。


「お前を長生きさせて、良い魂に育てる。それが私の任務だ」

「……俺は養殖魚か何かか?」

「似たようなものだ」


 ……なんだか釈然としないが、とにかく生き返れるらしい。

 それなら、文句を言う筋合いはない。


「……選択肢は?」

「ない」


 視界が再び白く染まった。


---


 目が覚めると、病院のベッドの上だった。

 白い天井、消毒液の匂い、心電図のピッピッという音。


「……生きてる」


 俺は自分の胸に手を当てた。

 心臓が動いている。呼吸もできる。

 夢だったのか。いや、あまりにもリアルすぎた。


「起きたか」


 その声に、俺は飛び上がった。

 ベッドの横に、あの銀髪の少女が立っていた。


「お、お前!?」

「静かにしろ。他の人間には見えていない」


 少女は腕を組んで、俺を見下ろした。

 改めて見ると、本当に美少女だ。

 銀色の長い髪、透き通るような白い肌、神秘的な紫色の瞳。

 ローブの下から覗く華奢な体つき。

 十代後半くらいに見える。いや、下手したら高校生くらいか。


 ……って、何を見てるんだ俺は。


「予定通り、お前に戻ってきた。これから私が監視する」

「ちょ、ちょっと待って。本当に死神なのか?」

「そうだ。名前はクロハ。死神第七課、回収担当だ」

「回収担当……」

「本来は魂を回収する仕事だが、今回は特別任務だ。お前が健康的な生活を送るまで、私がここに留まる」


 クロハは窓際に移動し、外を見た。

 その横顔が、やけに綺麗で。


 ……いやいやいや。

 俺は三十四歳で、彼女は見た目十代後半。

 これは犯罪臭がするやつだ。

 落ち着け、鈴木誠一。相手は死神だ。人間じゃない。


「お前の魂を、私が責任を持って育てる」

「育てるって……」

「長生きして、たくさん経験を積め。そうすれば、良い魂になる。私が最後に回収する時、やりがいがある」


 ……さっきも言ってたが、なんか飼育されてる気分だ。

 まあ、生き返らせてもらったんだから、文句は言えないか。


「まず、退院したらお前の生活を改善する。食事、運動、睡眠。全て見直す」

「いや、仕事が……」

「仕事より命が大事だ」


 クロハは振り返り、冷たい目で俺を見た。


「それとも、今ここで連れて行ってほしいか?」

「……いえ、大丈夫です」


 俺は観念した。

 どうやら、本当に死神が監視役として住み着くらしい。


---


 退院後、俺の生活は一変した。


 まず、残業禁止。

 クロハが会社まで付いてきて、定時になると強制的に帰らされる。


「鈴木、まだ仕事が残ってるんだけど……」

「知らん。お前の寿命の方が大事だ」

「いや、でも明日の会議の資料が……」

「死んだら会議も出られないだろう」

「……」

「死んだら残業もできないぞ」

「……なんか、すごく正論だな」


 俺は思わず納得してしまった。

 確かに、死んだら何もできない。

 当たり前のことなのに、働いている時は忘れていた。


「お前のような人間を、私は何度も見送ってきた」


 クロハが、珍しく真面目な顔で言った。


「『もっと仕事したかった』と言って死んだ者はいない。皆、『もっと家族と過ごしたかった』『もっと趣味を楽しみたかった』と言う」

「……そうか」

「そういう後悔を抱えた魂は、重い。回収する時、こちらも辛くなる」

「……」

「だから、残業するな。死んでからでは遅い。後悔のない人生を送って、軽やかな魂になれ」


 なんだか、胸に刺さる言葉だった。

 死神に人生の教訓を説かれるとは思わなかったが、説得力がありすぎる。


 上司に「体調管理のため」と説明したら、意外とあっさり許可が出た。

 どうやら俺が倒れた時、会社もかなり焦ったらしい。

 産業医からも「しばらくは無理をしないように」と言われている。


---


 次に、食事改善。

 カップ麺とコンビニ弁当ばかりだった食生活を、クロハが厳しく監視する。


「野菜が足りない」

「いや、サラダ食べてるし……」

「コンビニのサラダは栄養価が低い。自炊しろ」

「自炊なんてしたことないんだけど」

「教えてやる」


 意外にも、クロハは料理が上手だった。

 死神なのに、なぜか和食の基本を完璧に把握している。


「なんで死神が料理できるの?」

「人間の魂を見送る仕事をしていると、人間の生活に詳しくなる。最後の晩餐を聞くことも多いからな」

「……切ない理由だな」

「美味しいものを食べた経験は、魂を豊かにする。だから、お前にも美味しいものを食べさせて、良い魂に育てる」

「……また養殖の話か」

「養殖ではない。栽培だ」

「大して変わらないだろ!」


 クロハの作る料理は、素朴だがとても美味しかった。

 久しぶりに温かいご飯を食べている気がする。


 そして、運動。


「毎朝、三十分のウォーキングをしろ」

「朝は弱いんだけど……」

「だから起こしてやる。五時半に起床だ」

「五時半!?」


 クロハは容赦なかった。

 毎朝五時半、枕元で鎌を振り回しながら俺を叩き起こす。


「起きろ。さもなくば、魂を刈り取る」

「それ脅迫……」


 最初は地獄だった。

 だが、一週間、二週間と続けるうちに、体が慣れてきた。

 朝日を浴びながら歩くのは、思ったより気持ちがいい。


---


 問題が発生したのは、同居生活が一週間を過ぎた頃だった。


 俺は一人暮らし用の1LDKに住んでいる。

 当然、風呂もトイレも一つしかない。

 クロハは他の人間には見えないが、物理的には存在している。


「お前が先に入れ」

「いや、クロハが先でいいよ」

「私は死神だ。入浴の必要はない」

「でも、汗はかくだろ。ウォーキングとか」

「……確かに、人間の体に近い状態で顕現しているから、多少は」


 結局、俺が先に入ることになった。


 風呂から上がると、クロハがソファに座っていた。

 ローブを脱いで、下に着ている黒いワンピースのような服だけになっている。


「……っ!」


 俺は思わず目を逸らした。

 ワンピースは肩が出ていて、白い鎖骨が眩しい。

 華奢な肩、細い腕、そしてほのかに膨らんだ胸元。

 控えめだが、確かにそこにある。


 いやいやいや。

 何を見てるんだ俺は。

 相手は死神だぞ。しかも見た目は十代後半。

 俺は三十四歳のおっさんだ。犯罪だろ、これ。


「どうした。顔が赤いぞ」

「い、いや、なんでもない……」

「風呂で熱を出したか? だから長風呂は良くないと言っただろう」

「そういうんじゃなくて……」


 クロハは首を傾げながら、俺の額に手を当てた。

 ひんやりとした手のひら。

 顔が近い。紫色の瞳が間近にある。

 吐息がかかる距離。

 いい匂いがする。


「熱はないようだが……」

「だ、大丈夫だから! ほら、クロハも風呂入ってこいよ!」

「……? 分かった」


 クロハは不思議そうな顔をしながら、風呂場へ向かった。


 俺は深呼吸した。

 落ち着け。相手は死神だ。人間じゃない。

 年齢の概念すらないかもしれない。

 そう、見た目に惑わされるな。


 ……と言っても、あの容姿で同居は刺激が強すぎる。


---


 しばらくして、風呂場から声が聞こえた。


「鈴木」

「な、なんだ?」

「背中が届かない」

「……は?」

「洗ってくれ」


 俺は固まった。


「い、いや、無理! 絶対無理!」

「なぜだ」

「だって、お前、裸だろ!?」

「人間の体を洗うのに、服を着たままでは濡れるだろう」

「そういう問題じゃなくて!」

「健康のために、背中はしっかり洗う必要がある。お前が言ったことだぞ」

「俺は自分のことを言ったんだよ!」


 風呂場の扉が少し開いた。

 クロハの顔だけが覗いている。

 銀色の髪が濡れて、頬に貼り付いている。

 肩が見える。白い肌に水滴が光っている。


「……頼む」

「っ……!」


 その上目遣いは反則だろ。

 俺の理性が悲鳴を上げている。


「む、無理だって! 俺、外で待ってるから!」


 俺は玄関まで逃げた。

 心臓がバクバクいっている。

 過労死しかけた時より、確実に心拍数が上がっている。


 ……俺は何と戦っているんだ。


---


 さらに問題は続いた。


 ある夜、俺がベッドに入ろうとすると、クロハがいた。

 俺のベッドに。

 布団をかぶって、目を閉じている。


「ちょ、クロハ!?」

「何だ」

「なんで俺のベッドにいるんだよ!」

「監視任務だ。離れるわけにはいかない」

「いや、ソファで寝てくれよ!」

「寝心地が悪い。人間の体に近い状態で顕現しているから、睡眠の質にも影響する」

「じゃあ俺がソファで……」

「だめだ。お前の睡眠の質が下がる。健康管理に支障が出る」

「じゃあどうすればいいんだよ!」

「一緒に寝ればいい」


 クロハは当然のように言った。


「……は?」

「このベッドは一人用だが、私は体が小さい。詰めれば入る」

「いやいやいや、無理だろ!」

「何が無理なのか分からない」


 クロハは本気で分かっていない顔をしている。

 死神には、人間の羞恥心という概念がないのか。


「い、いいか、クロハ。俺は三十四歳の男だ。お前は見た目十代後半の女の子だ。一緒のベッドで寝るのは、倫理的に問題がある」

「倫理?」

「そう、倫理だ。男と女が同じベッドで寝るのは、その、いろいろとまずいんだ」

「……いろいろとは?」


 クロハが首を傾げる。

 純粋な目だ。本当に分かっていない。


「と、とにかく! 今日は俺がソファで寝る!」

「だから、お前の睡眠の質が……」

「いいんだ! 俺の精神衛生の方が問題なんだ!」


 俺はソファに逃げ込んだ。

 心臓がバクバクいっている。

 過労死しかけた時より、心拍数が上がっている気がする。


 ……俺は何を動揺しているんだ。

 相手は死神だぞ。

 見た目に惑わされるな。

 俺は三十四歳のおっさんだ。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は眠れない夜を過ごした。


---


 翌日から、寝室問題は一応解決した。

 クロハにはソファベッドを用意し、そこで寝てもらうことにした。


 だが、同居生活の問題はそれだけではなかった。


「なあクロハ、ちょっと俺、着替えるから……」

「構わない。見ていても?」

「見ないでくれ!」

「なぜだ。人間の体など、何度も見てきた」

「だから、その、生きてる人間と死んでる人間は違うんだよ!」

「……よく分からないが、分かった」


 クロハは素直に向こうを向いてくれた。

 だが、その後ろ姿を見ながら着替えるのも、妙にドキドキする。


 また別の日。


「鈴木、背中を流してやろうか」

「い、いらない! 自分で洗える!」

「人間は背中が届きにくいと聞いた。健康のために、しっかり洗った方がいい」

「大丈夫だから! というか、なんで風呂場に入ってくるんだよ!」

「監視任務だ」

「監視しすぎだろ!」


 俺は風呂場の扉を全力で閉めた。

 心臓が壊れそうだ。

 過労死より、こっちで死ぬかもしれない。


---


 ある日の夕方。

 俺が仕事から帰ると、クロハが珍しく困った顔をしていた。


「どうした?」

「……服が」

「服?」

「濡れた」


 見ると、クロハのワンピースがびしょ濡れだった。

 どうやら、洗濯を試みて失敗したらしい。


「洗濯機の使い方、分からなかったのか?」

「……人間の機械は複雑だ」

「まあ、初めてなら仕方ないか。とりあえず、俺の服貸すから着替えろ」


 俺はタンスからTシャツとジャージのズボンを取り出して渡した。

 クロハは黙ってそれを受け取り、着替え始めた。


 ……目の前で。


「ちょ、ちょっと待て!」

「何だ」

「着替えは向こうでやってくれ!」

「なぜだ。お前の前でも問題ない」

「俺に問題があるんだよ!」


 俺は慌てて後ろを向いた。

 だが、衣擦れの音が聞こえてくる。

 布が肌を滑る音。

 今、クロハは俺の背後で服を脱いでいる。


 心臓がうるさい。

 落ち着け。見てないんだから問題ない。

 でも、音だけでも想像してしまう。

 あの白い肌が露わになっている。

 華奢な体が、無防備に晒されている。

 下着姿になっている。

 いや、もしかしたら下着も……。


 だめだ。想像するな。

 俺は三十四歳の大人だ。理性を保て。


「……終わった」


 振り返ると、クロハが俺の服を着ていた。

 Tシャツはブカブカで、肩のあたりがずり落ちそうになっている。

 鎖骨が丸見えだ。

 ジャージのズボンも大きすぎて、裾を何度も折り返していた。


「……」

「どうした」

「いや……」


 かわいい。

 めちゃくちゃかわいい。

 彼女(仮)の家でデートした後みたいな、あの「俺のシャツ着てる」シチュエーション。

 破壊力が半端ない。


「サイズが合わないな」

「い、いや、そのままでいいよ。似合ってる」

「……そうか」


 クロハは少し照れたように目を逸らした。

 耳が赤い。


 ……いかん。

 このままでは、俺の理性が持たない。


---


 ある休日の午後。

 俺はソファでうたた寝をしていた。


 気づくと、頭が柔らかいものの上に乗っていた。

 ……何だ、これ。

 枕じゃない。もっと温かくて、柔らかい。


 目を開けると、クロハの顔が真上にあった。


「お、おおおお!?」


 俺は飛び起きた。


「な、なな、何してるんだクロハ!?」

「膝枕だ」

「なんで!?」

「お前が疲れていたようだから」

「いや、でも、膝枕って……!」

「人間の疲労回復には、リラックスが重要だと本で読んだ。膝枕はリラックス効果が高いらしい」

「そういう問題じゃなくて!」


 俺は頭を抱えた。

 今の状況を整理しよう。

 俺は、クロハの膝の上で寝ていた。

 太ももの柔らかさを、頭で感じていた。

 あの細い足が、俺の頭を支えていた。


 ……だめだ。思い出すな。


「嫌だったか?」

「いや、嫌じゃないけど……。いや、嫌じゃないっていうか……」

「嫌じゃないなら、続けていいか?」

「よくない! いいけど、よくない!」

「……よく分からない」


 クロハは首を傾げた。

 純粋な目だ。本当に、何も分かっていない。


 俺は深呼吸した。


「いいか、クロハ。膝枕っていうのは、恋人同士がやることなんだ」

「恋人?」

「そう。付き合ってる男女がやること」

「お前と私は、恋人ではないのか?」

「違う! 俺たちは、監視する側とされる側だ!」

「……そうか」


 クロハは少し残念そうな顔をした。


 ……いや、なんで残念そうなんだ。

 俺の方こそ残念に思いたい。

 あの柔らかい感触をもう一度……。


 だめだ。考えるな。


---


 さらに別の日。


 俺がパソコンで仕事をしていると、クロハが近づいてきた。


「鈴木」

「何だ?」

「肩が凝っているだろう」

「まあ、デスクワークだからな」

「揉んでやる」

「え?」


 言うが早いか、クロハは俺の後ろに回り込んだ。

 そして、小さな手が俺の肩に乗った。


「ちょ、クロハ!?」

「動くな。揉みにくい」


 クロハの手が、俺の肩を揉み始めた。

 ひんやりした手のひらが、凝り固まった筋肉をほぐしていく。

 ……気持ちいい。すごく気持ちいい。


 でも、それ以上に気になることがある。

 クロハの体が、俺の背中に密着している。

 胸が当たっている。

 控えめだが、確かにそこにある柔らかさ。


「っ……!」

「どうした。痛かったか?」

「い、いや、大丈夫……」

「もっと強くした方がいいか?」

「いや、そのままで……」


 俺は必死に平静を装った。

 でも、心臓はバクバクいっている。

 顔も熱い。


「人間の体は繊細だな。少し触っただけで、こんなに硬くなる」

「……」

「リラックスしろ。力が入っていると、効果が薄れる」

「無理だ……」


 クロハは不思議そうな顔をした。

 俺は全力で本能と戦っていた。


---


 一ヶ月が経った。


 俺の生活は、見違えるほど健康的になっていた。

 毎朝六時に起きて、ウォーキング。朝食はクロハが作った和食。

 定時で退社して、夜は自炊。十一時には就寝。


 体重は五キロ減り、肌の調子も良くなった。

 何より、毎日が楽になった。

 以前は常に疲れていて、頭がぼんやりしていたのに、今は頭がすっきりしている。


「……悪くないだろう」


 クロハが、珍しく満足そうに言った。


「ああ、確かに。前より調子がいい」

「当然だ。人間の体は、適切なケアをすれば応えてくれる」

「おかげさまで」

「お前の魂も、少しずつ良くなってきている」

「……分かるのか?」

「分かる。経験が増えると、魂に深みが出る。お前は今、人生を楽しみ始めている」


 クロハは小さく微笑んだ。


「私の育成計画は順調だ」

「だから養殖の話やめろって」


 俺はクロハを見た。

 最初は怖かった死神だが、一緒に暮らしているうちに、印象が変わってきた。


 彼女は無表情だが、根は真面目で、俺の健康を本気で心配してくれている。

 料理を作ってくれるし、掃除も手伝ってくれる。

 朝起こしてくれるのも、乱暴だが確実に起きられる。


 そして……正直に言うと、かわいい。

 無表情なのに、時々見せる照れた表情がかわいい。

 俺の大きな服を着ている姿がかわいい。

 料理を褒めると、耳が赤くなるのがかわいい。


 ……いかん。

 俺は三十四歳で、彼女は見た目十代後半。

 どう考えても犯罪臭がする。

 年齢差を考えろ、鈴木誠一。


「なあ、クロハ」

「何だ」

「お前って、実際何歳なんだ?」


 クロハは少し考えてから答えた。


「人間の時間で言えば、約三千歳だ」

「三千歳……」

「死神としては若い方だ。まだまだ新人扱いされる」

「……そうか」


 三千歳。

 俺より二千九百六十六歳も年上。

 見た目は十代後半だが、中身は超高齢。


 ……これは、俺の方が年下じゃないか?

 いや、見た目は……でも中身は……。


 混乱する俺をよそに、クロハは淡々と言った。


「なぜ年齢を聞く」

「いや、その……。俺、お前のこと、十代後半くらいだと思ってたから……」

「見た目はそうだな。人間に近い姿で顕現する時は、この姿が一番馴染む」

「じゃあ、本当の姿は違うのか?」

「本来の姿は、人間には見えない。概念のようなものだからな」

「へえ……」


 つまり、この美少女の姿は仮の姿。

 中身は三千歳の死神。


 ……それはそれで、なんかすごいな。

 三千年生きてきた存在が、俺の健康管理をしてくれている。

 贅沢な話だ。


「ありがとう」

「何がだ」

「いや、おかげで俺、生き返った気がする。比喩じゃなくて、本当に」

「当たり前だ。私の仕事だ」


 そう言って、クロハはそっぽを向いた。

 だが、その耳が少し赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。


 ……三千歳でも、照れるんだな。

 なんか、かわいいな。


---


 二ヶ月が経った頃、事件が起きた。


 その日は、どうしても残業しなければならない案件があった。

 大口クライアントのプレゼン資料。明日が締め切り。

 定時で帰ったら、絶対に間に合わない。


「鈴木、定時だ。帰るぞ」

「待ってくれ、クロハ。今日だけは無理だ」

「何を言っている。残業禁止だと言っただろう」

「分かってる。でも、この案件を落としたら、会社に多大な損害が……」

「お前の命より大事な案件があるのか?」

「それは……」


 クロハは俺の目を真っ直ぐ見つめた。


「鈴木。お前が今死んだら、その案件は誰がやる?」

「……他の人が」

「そうだ。お前がいなくても、会社は回る。だが、お前がいなくなったら、お前の人生は終わりだ」

「……」

「死んだら、残業もできないぞ」


 俺は黙り込んだ。

 また、正論だ。

 死んだら残業もできない。当たり前のことだ。

 でも、そんな当たり前のことを、働いている時は忘れてしまう。


「……でも、明日までに終わらせないと」

「明日の朝、早起きして会社に行け。私が起こしてやる」

「え?」

「五時に起きれば、七時には会社に着ける。二時間あれば終わるだろう」

「それは……そうだけど」

「今日は帰って、しっかり寝ろ。睡眠不足で作った資料より、しっかり休んでから作った資料の方が質がいい。そうだろう?」


 ……確かに。

 睡眠不足で頭がぼんやりした状態で作業するより、しっかり寝てからやった方が効率がいい。

 なぜ、今までそんな当たり前のことを忘れていたのだろう。


「……分かった。帰る」

「よし」


 クロハが、珍しく笑った。

 小さく、だけど確かに。


 その笑顔が、やけに眩しかった。


---


 三ヶ月が経った。


 俺とクロハの生活は、すっかり馴染んでいた。

 朝は一緒にウォーキング。朝食は二人で食べる。

 夜は一緒に料理を作り、一緒に食べる。


 クロハは相変わらず無表情だが、時々、小さく笑うようになった。

 俺が下手なジョークを言った時や、料理が上手くできた時。

 その笑顔が見たくて、俺は毎日頑張っている自分に気づいた。


 ……でも、同居生活のドキドキは相変わらずだった。


 ある日の夜。

 俺がソファでテレビを見ていると、クロハが隣に座ってきた。

 いつものことだが、今日はやけに距離が近い。


「……クロハ?」

「何だ」

「いや、今日、近くないか?」

「そうか? いつも通りだと思うが」


 そう言いながら、クロハは俺の肩に頭を乗せてきた。


「ちょ、ちょっと!」

「眠い。少し休ませろ」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

「うるさい。黙れ」


 クロハは目を閉じて、俺の肩に凭れかかった。

 銀色の髪がサラサラと俺の腕に触れる。

 いい匂いがする。

 花のような、でも少し冷たい、不思議な香り。


 心臓がバクバクいっている。

 顔が熱い。

 クロハの体温が伝わってくる。

 死神なのに、ちゃんと体温がある。

 少しひんやりしているけど、温かい。


 ふと、クロハの手が俺の手に重なった。

 指が絡まる。


「……クロハ?」

「……」


 返事がない。

 寝たふりをしているのか、本当に寝ているのか分からない。

 でも、手は離さない。


 俺は動けなくなった。

 起こすわけにもいかないし、このまま朝まで過ごすのも無理がある。


 結局、俺はクロハを抱き上げて、ソファベッドに寝かせることにした。

 軽い。羽みたいに軽い。

 華奢な体を腕の中に感じながら、俺はそっとベッドに下ろした。


 寝顔を見下ろす。

 無防備な顔。

 長い睫毛が頬に影を落としている。

 薄い唇が、少し開いている。


 ……かわいい。

 本当に、かわいい。


 俺は頭を振った。

 だめだ。理性を保て。

 相手は死神だ。見た目は十代後半。中身は三千歳。

 どっちにしろ、手を出していい相手じゃない。


「……おやすみ、クロハ」


 俺は小さく呟いて、自分のベッドに戻った。


---


 また別の日の夜。

 俺がソファで仕事のメールをチェックしていると、クロハが隣に座ってきた。


「……寒い」

「え? エアコンつけてるけど」

「人間の体で顕現していると、寒さを感じる」


 そう言いながら、クロハは俺の腕に抱きついてきた。


「ちょ、ちょっと!」

「黙れ。温まるまで動くな」


 クロハは俺の腕をしっかり抱え込んで、体を寄せてきた。

 腕が、クロハの体に密着する。


 ……柔らかい。

 すごく、柔らかい。


 クロハの体は見た目通り華奢だが、腕に感じる感触は確かに女性のものだった。

 控えめな胸の膨らみが、俺の二の腕を包み込んでいる。

 ブラウス越しでも分かる、柔らかくて弾力のある感触。

 心臓に悪い。


 そして、クロハの体温。

 死神だから冷たいのかと思っていたが、こうして密着していると意外と温かい。

 最初はひんやりしていたが、俺の体温が移ったのか、少しずつ温まってきている。

 その温もりが、なんだか心地よかった。


 クロハの銀髪が俺の肩にかかる。

 サラサラで、繊細な手触り。

 花のような、少し冷たい香りがする。

 息を吸うたびに、その匂いが鼻に届く。


 クロハの顔が俺の肩に埋まっている。

 小さな吐息が首筋にかかって、ぞくっとした。

 細い指が俺の腕を掴んでいる。

 白くて、綺麗な指。


 ……だめだ。

 心臓がうるさすぎる。

 顔が熱い。

 このままだと、本当にまずい。


 俺は三十四歳で、クロハは見た目十代後半。

 いや、中身は三千歳だから俺の方が年下だけど、見た目は……。

 でも、この柔らかさは……。

 いや、だからこそ、俺は大人として……。


 ――だめだ! 何を考えてるんだ俺は!


 俺は空いている方の手で、自分の頭をポカポカと叩いた。


「何をしている」

「いや、ちょっと自分を戒めてて……」

「頭を叩くな。脳にダメージを与えると、魂の質が落ちる」

「そこ!?」

「私の大事な魂だ。傷つけるな」

「……はい」


 結局、俺は理性と戦いながら、クロハが満足するまで腕を貸し続けた。

 十分くらい経って、クロハがようやく離れた。


「……温まった」

「そ、そうか、よかった……」

「お前の体温は心地いい。また借りるぞ」

「え、また!?」

「問題ないだろう。お前も嫌そうには見えなかった」


 クロハは真顔で言った。

 俺は何も言い返せなかった。

 嫌じゃなかったのは事実だ。むしろ、もっと……。


 ――いや、だめだってば!


 俺はまた頭を叩こうとして、クロハに手を掴まれた。


「だから、叩くなと言っただろう」

「……すみません」

「反省するなら、頭ではなく行動で示せ。健康的な生活を続けろ」

「……はい」


 クロハはソファベッドに戻っていった。

 俺は深呼吸して、心を落ち着けた。


 ……この同居生活、本当に心臓に悪い。

 過労死より先に、別の原因で死にそうだ。


---


 同居生活も四ヶ月が過ぎ、季節が少し変わり始めた頃。

 ある日の夜、俺が風呂上がりにリビングに戻ると、クロハがいつもと違う服を着ていた。


「……クロハ?」

「どうだ」


 クロハが振り返った。

 黒いローブでも、いつものワンピースでもない。

 白いブラウスに、紺のスカート。

 どこから調達したのか分からないが、まるで女子高生のような恰好だ。


「……っ!」


 俺は言葉を失った。

 かわいい。

 今まで見た中で、一番かわいい。


「人間の服を着てみたかった」

「ど、どこから……」

「お前がいない間に、百貨店で見繕ってきた。私は他の人間には見えないから、持っていっても問題ない」

「いや、それ窃盗だろ!」

「金は置いてきた」

「……ならいいけど」


 クロハはくるりと回った。

 スカートがふわりと広がる。

 白い太ももがちらりと見えた。


「っ……!」

「似合っているか?」

「に、似合ってる……」

「そうか」


 クロハは少し嬉しそうに笑った。

 その笑顔が眩しすぎて、俺は直視できなかった。


「お前を真似したかった」

「俺を?」

「お前の生活を見ていると、人間になってみたくなる。だから、人間の服を着てみた」

「……そうか」


 クロハは俺に近づいてきた。


「どうだ。人間に見えるか?」

「見える。すごく、見える」

「そうか」


 クロハは満足そうに頷いた。

 そして、俺の手を取った。


「鈴木。お前との生活は、楽しい」

「……俺も、楽しいよ」

「そうか」


 クロハの耳が赤くなった。

 俺の心臓が、また跳ね上がった。


---


 休日のある日。

 俺はソファで本を読んでいた。

 クロハはキッチンで何かを作っている。


「鈴木、できたぞ」

「何を?」

「クッキーだ」


 クロハが持ってきたのは、不格好だがちゃんと焼けたクッキーだった。


「お前、お菓子も作れるのか」

「本を見ながら作った。味見してくれ」

「洗濯機は使えなかったのに、オーブンは使えるんだな」

「……料理は調合に近い。死神の業務でも薬品を扱うことはあるからな」

「なるほど」


 俺はクッキーを一つ取って、口に入れた。

 ……美味い。

 甘すぎず、サクサクしていて、ちゃんと美味しい。


「美味いよ、これ」

「……そうか」


 クロハの耳が赤くなった。


「もっと食べろ。たくさん作った」

「お前も食べろよ」

「私は死神だ。食事の必要は……」

「でも、味は分かるんだろ? 自分で作ったんだから、自分でも食べろ」

「……」


 クロハは渋々という感じで、クッキーを一つ取った。

 小さく囓る。

 もぐもぐと咀嚼する。


「……美味しい」

「だろ? お前が作ったんだから」


 クロハの顔が、ほんのり赤くなった。

 照れている。

 三千歳の死神が、自分で作ったクッキーを褒められて照れている。


 ……かわいすぎるだろ。


「クロハ、今日の夕飯は俺が作るよ」

「何を作る」

「お前のリクエストでいいよ。何か食べたいものある?」

「……ハンバーグ」

「了解。じゃあ、買い物行くか」

「……一緒に行っていいか?」

「当たり前だろ。一緒に住んでるんだから」


 俺たちはスーパーに向かった。

 クロハは他の人間には見えないが、俺には見える。

 隣を歩く銀髪の美少女。

 端から見たら、俺は一人で買い物しているように見えるのだろう。


 でも、俺には分かっている。

 クロハがここにいること。

 俺の隣で、一緒に歩いていること。


「クロハ、今日の夕飯はカレーにしよう」

「いいだろう。野菜を多めに入れろ」

「はいはい」


 俺がキッチンに立ち、クロハがソファで本を読む。

 まるで、新婚夫婦のような光景だ。


「……なあ、クロハ」

「何だ」

「俺たち、端から見たらどう見えるんだろうな」

「他の人間には、私は見えない。お前が一人で料理しているように見えるだろう」

「それはそれで寂しいな」


 クロハは本から顔を上げ、俺を見た。


「……お前は、寂しいのか?」

「いや、そういうわけじゃ……。ただ、クロハがいる生活に慣れちゃったから、いなくなったら寂しいだろうなって」


 クロハは黙った。

 そして、小さな声で言った。


「……私も、同じだ」

「え?」

「お前といる生活に、慣れてしまった。任務が終わったら帰らなければならないのに」


 俺は驚いて、クロハを見た。

 彼女は俯いて、本を閉じていた。


「クロハ……」

「気にするな。私の問題だ」


 そう言って、クロハは立ち上がり、窓際に移動した。

 その背中が、なんだか寂しそうに見えた。


---


 半年が経った。


 俺の体は完全に健康を取り戻していた。

 健康診断の結果は全て正常。血圧も血糖値も問題なし。

 医者からも「素晴らしい改善です」と褒められた。


「これで、任務は完了だな」


 クロハが、静かに言った。


「お前は健康的な生活を身につけた。もう監視の必要はない」

「……そうか」

「私は、戻る」


 俺の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

 過労死の時とは違う、別の痛み。


「待ってくれ、クロハ」

「何だ」

「俺……」


 言葉が出てこない。

 何を言えばいいのか分からない。

 ただ、彼女にいなくなってほしくないという気持ちだけがある。


「俺、お前がいなくなったら、また不健康な生活に戻るかもしれない」

「それは脅しか?」

「違う。ただ……」


 俺はクロハの手を取った。

 冷たい手。だけど、この半年でずっと一緒だった手。


「お前がいないと、俺、ダメなんだ」


 クロハは目を見開いた。


「それは……どういう意味だ」

「そのままの意味だ。クロハ、俺はお前のことが……」


 言葉が詰まる。

 三十四年生きてきて、こんなことを言うのは初めてだ。

 相手は見た目十代後半の美少女。中身は三千歳の死神。

 年齢差がありすぎて、どっちが年上なのかもう分からない。

 倫理的にどうなんだ、これは。


 でも、そんなことはどうでもよくなっていた。

 俺は、この半年でクロハのことが好きになっていた。

 見た目とか年齢とか、そんなことは関係ない。

 クロハという存在が、俺にとって大切になっていた。


「……好きなんだ」


 沈黙が流れた。

 クロハは固まったまま、俺を見つめている。


「……死神を、好きだと?」

「ああ」

「私は人間ではない。いずれ、お前の魂を迎えに来る存在だ」

「知ってる」

「私は見た目は十代後半だが、実際は三千歳だ」

「それも知ってる。というか、お前の方が年上だよな」

「……そうだな」

「じゃあ、年齢差は問題ないな。俺が年下なんだから」

「……屁理屈だ」

「屁理屈でも何でもいい。俺はお前が好きだ」


 俺はクロハの手を握りしめた。


「俺を生き返らせてくれたのはお前だ。健康的な生活を教えてくれたのもお前だ。お前がいなかったら、俺は今頃死んでた。だから……」


 俺は深呼吸した。


「残りの人生、お前と一緒に過ごしたい」


 クロハの目に、涙が浮かんだ。

 死神なのに、泣くんだな。そう思った。


「……馬鹿な人間だ」

「自覚はある」

「私は死神だ。いつかお前を迎えに来る」

「その時まで、一緒にいてくれ」


 クロハは俯いた。

 そして、俺の胸に顔を埋めた。


「……お前の魂は、私のものだぞ」

「え?」

「最初から、そう決まっていた。お前の魂は、私が回収する。だから……」


 クロハは顔を上げた。

 涙で濡れた紫色の瞳が、俺を見つめている。


「だから、長生きしろ。たくさん経験を積んで、豊かな魂になれ。私がもらうまで、なるべく長く待ちたい」

「……」

「八十二歳まで、いや、百歳まで生きろ。そうすれば、お前の魂はもっと価値が上がる。私だけのものになる最高の魂に」

「……なんか、プロポーズなのか脅しなのか分からないな」

「両方だ」


 クロハは小さく笑った。


「……分かった」

「え?」

「上に掛け合ってみる。監視任務の延長という形で、お前の傍にいられるかもしれない」

「本当か!?」

「ただし、条件がある」


 クロハは顔を上げ、俺を真っ直ぐ見つめた。


「お前は、一生健康でいろ。そうすれば、私が迎えに来るのは、ずっと先になる」

「……ああ、約束する」

「それから」


 クロハは俺の胸に顔を埋めた。


「私のことは、名前で呼べ。『死神』ではなく」

「……分かった、クロハ」


 俺はクロハを抱きしめた。

 冷たかった体が、少しだけ温かく感じた。


---


 それから一年。


 俺とクロハは、相変わらず一緒に暮らしている。

 朝は一緒にウォーキング。朝食は二人で和食。

 夜は一緒に料理を作り、一緒に食べる。


 クロハは相変わらず無表情だが、よく笑うようになった。

 俺の下手なジョークにも、付き合って笑ってくれる。


 そして、一緒のベッドで寝るようになった。

 最初は緊張したが、今では当たり前になっている。

 クロハの冷たい体を抱きしめて眠る。

 少しずつ温まっていく感触が、心地いい。


 時々、夜中に目が覚めると、クロハが俺の顔を見つめていることがある。


「どうした、クロハ」

「……お前の寝顔を見ていた」

「なんで」

「お前の魂が、どんどん豊かになっているのが分かる。私のものが、どんどん良くなっていく。嬉しい」

「……相変わらず、養殖の話か」

「養殖ではない。愛情だ」


 クロハは俺にキスをした。

 冷たい唇。だけど、今では世界で一番温かい唇。


「なあ、クロハ」

「何だ」

「俺、あの時死んでよかった」

「不謹慎なことを言うな」

「いや、だって、お前に会えたから」


 クロハは頬を赤くして、そっぽを向いた。


「……馬鹿」

「お前が馬鹿だよ」

「黙れ」


 そう言いながら、クロハは俺の腕の中に潜り込んできた。

 銀色の髪が俺の顔にかかる。

 いい匂いがする。


 窓の外では、朝焼けが始まっていた。

 空がゆっくりと、紫から橙へと色を変えていく。

 まるで、クロハの瞳の色から、俺たちの新しい一日の色へ。


 あの過労死しかけた夜から、もう一年以上が経つ。

 俺の人生は、あの日を境に完全に変わった。

 残業漬けの毎日は、穏やかな朝と温かな夜に変わった。

 空っぽだった冷蔵庫は、二人分の食材でいっぱいになった。

 誰もいなかった部屋には、銀髪の死神が住み着き――そして、俺の恋人になった。


 過労死しかけた社畜は、今では健康的な生活を送る、幸せな人間に生まれ変わったのだ。


 人生、何があるか分からない。

 でも、一つだけ確かなことがある。


「クロハ、今日も一緒にいてくれてありがとう」

「……当然だ。お前の魂は、私のものだからな。誰にも渡さない」


 そう言いながら、クロハは俺の手を握った。

 冷たい手。だけど、今では世界で一番温かい手。


「百歳まで生きろよ。私をたっぷり待たせろよ」

「……ああ、努力する」

「努力じゃない。約束だ」

「分かった。約束する」


 クロハは満足そうに微笑んだ。


 窓から差し込む朝日が、クロハの銀髪を金色に染めた。

 その姿は、まるで天使のようで。

 いや、死神なのに、天使って変か。

 でも、俺にとっては、どっちでも同じだ。


 彼女は俺を死から連れ戻してくれた。

 そして、生きることの意味を教えてくれた。

 これからも、俺の隣にいてくれる。

 最後の最後まで。


 ……いつか、クロハが俺の魂を迎えに来る日が来るだろう。

 でも、それは遠い遠い未来の話だ。

 それまでの時間は、全部、二人のものだ。


 朝焼けの中、俺たちは手を繋いだまま眠りについた。

 明日も、明後日も、その先も。

 ずっと一緒に、朝を迎えよう。


 死神に『まだ早い』と追い返されて、本当によかった。



【完】


【作者からのお願い】

かなり長くなってしまいましたが、最後まで、ありがとうございました。続きを書いてみたい、という気持ちもあったりします。


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