美少女死神に『まだ早い』と追い返されました ~健康的な生活をしないと迎えに来ます~
死んだ。
……と、思った。
俺――鈴木誠一、三十四歳、独身。
入社十二年目、営業部主任。
月の残業時間は平均百二十時間。休日出勤は当たり前。
最後に有給休暇を取ったのは、三年前の親族の葬式だった。
そんな俺が、ある日の深夜二時、会社のデスクで倒れた。
胸が締め付けられるような痛み。息ができない。視界が暗くなる。
ああ、これが過労死か。
ニュースで見たことはあったが、まさか自分がなるとは。
意識が遠のく中、俺は妙に冷静だった。
遺書は書いていない。部屋は散らかったまま。冷蔵庫には賞味期限切れのカップ麺しかない。
……情けない人生だったな。
そう思った瞬間、目の前が真っ白になった。
---
気がつくと、真っ白な空間にいた。
何もない。天井も床も壁も、全てが白い。
そして、目の前に一人の少女が立っていた。
黒いローブを纏った、銀髪の美少女。
年齢は十代後半くらいに見える。肌は透けるように白く、瞳は深い紫色。
手には、身長よりも大きな鎌を持っている。
「……え?」
俺は呆然と呟いた。
これは何だ。コスプレか。いや、ここはどこだ。
「鈴木誠一、三十四歳」
少女が、抑揚のない声で言った。
「死因、過労による急性心不全。享年三十四歳。……ふむ」
彼女は手元の書類に目を落とし、眉をひそめた。
「待て。これはおかしい」
「え、何が……」
「お前の寿命、まだ残っている」
「……は?」
少女は書類をペラペラとめくりながら、独り言のように続けた。
「本来の寿命は八十二歳。誤差を考慮しても、あと四十八年は生きるはずだ。なぜここにいる?」
俺に聞かれても困る。
「えーと、過労死したから……?」
「待て」
少女は鎌を床に突き立て、書類を睨みつけた。
「書類ミスだ。上の部署が寿命計算を間違えている。お前はまだ死ぬべきではない」
「……つまり?」
「追い返す」
「え?」
少女は鎌を振り上げ、俺を指差した。
「鈴木誠一。お前は生者の世界に戻れ。まだ早い」
「いや、ちょっと待って! 俺、心臓止まったんですけど!?」
「問題ない。お前の肉体はまだ蘇生可能な状態だ。今なら間に合う」
少女は書類を丸めてローブの中にしまい、俺に向き直った。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「お前の死因は過労だ。つまり、不健康な生活が原因。このまま戻しても、また同じことを繰り返すだろう」
少女は冷たい目で俺を見下ろした。
「よって、お前には監視役をつける」
「監視役?」
「私だ」
俺は絶句した。
「え、あなたが? 死神が?」
「そうだ。お前が健康的な生活を送るまで、私が監視する。もし不健康な生活を続けるなら……」
少女は鎌を軽く振った。
空気が切り裂かれる音がした。
「その時は、正式に迎えに来る」
俺は生唾を飲み込んだ。
ふと、疑問が浮かんだ。
「……待ってくれ。なんで死神がわざわざ俺を生き返らせて、監視までするんだ? 書類ミスなら、そのまま回収すればいいんじゃないのか?」
少女は一瞬、黙った。
そして、少し恥ずかしそうに目を逸らした。
「……魂には、価値がある」
「価値?」
「長く生きて、色々な経験を積んだ魂ほど、価値が高い。喜びも、悲しみも、苦労も、幸福も。全ての経験が、魂を豊かにする」
少女は俺を見つめた。
「お前はまだ三十四歳だ。仕事ばかりで、人生を楽しむ余裕もなかった。そんな薄っぺらい魂を回収しても、つまらない」
「……つまらないって」
「健康的に生きて、色々な経験をして、豊かな魂になってから来い。そうすれば、回収しがいがある」
「……なんか、すごく自分勝手な理由だな」
「死神の仕事には、やりがいが必要だ」
少女は真面目な顔で言った。
「お前を長生きさせて、良い魂に育てる。それが私の任務だ」
「……俺は養殖魚か何かか?」
「似たようなものだ」
……なんだか釈然としないが、とにかく生き返れるらしい。
それなら、文句を言う筋合いはない。
「……選択肢は?」
「ない」
視界が再び白く染まった。
---
目が覚めると、病院のベッドの上だった。
白い天井、消毒液の匂い、心電図のピッピッという音。
「……生きてる」
俺は自分の胸に手を当てた。
心臓が動いている。呼吸もできる。
夢だったのか。いや、あまりにもリアルすぎた。
「起きたか」
その声に、俺は飛び上がった。
ベッドの横に、あの銀髪の少女が立っていた。
「お、お前!?」
「静かにしろ。他の人間には見えていない」
少女は腕を組んで、俺を見下ろした。
改めて見ると、本当に美少女だ。
銀色の長い髪、透き通るような白い肌、神秘的な紫色の瞳。
ローブの下から覗く華奢な体つき。
十代後半くらいに見える。いや、下手したら高校生くらいか。
……って、何を見てるんだ俺は。
「予定通り、お前に戻ってきた。これから私が監視する」
「ちょ、ちょっと待って。本当に死神なのか?」
「そうだ。名前はクロハ。死神第七課、回収担当だ」
「回収担当……」
「本来は魂を回収する仕事だが、今回は特別任務だ。お前が健康的な生活を送るまで、私がここに留まる」
クロハは窓際に移動し、外を見た。
その横顔が、やけに綺麗で。
……いやいやいや。
俺は三十四歳で、彼女は見た目十代後半。
これは犯罪臭がするやつだ。
落ち着け、鈴木誠一。相手は死神だ。人間じゃない。
「お前の魂を、私が責任を持って育てる」
「育てるって……」
「長生きして、たくさん経験を積め。そうすれば、良い魂になる。私が最後に回収する時、やりがいがある」
……さっきも言ってたが、なんか飼育されてる気分だ。
まあ、生き返らせてもらったんだから、文句は言えないか。
「まず、退院したらお前の生活を改善する。食事、運動、睡眠。全て見直す」
「いや、仕事が……」
「仕事より命が大事だ」
クロハは振り返り、冷たい目で俺を見た。
「それとも、今ここで連れて行ってほしいか?」
「……いえ、大丈夫です」
俺は観念した。
どうやら、本当に死神が監視役として住み着くらしい。
---
退院後、俺の生活は一変した。
まず、残業禁止。
クロハが会社まで付いてきて、定時になると強制的に帰らされる。
「鈴木、まだ仕事が残ってるんだけど……」
「知らん。お前の寿命の方が大事だ」
「いや、でも明日の会議の資料が……」
「死んだら会議も出られないだろう」
「……」
「死んだら残業もできないぞ」
「……なんか、すごく正論だな」
俺は思わず納得してしまった。
確かに、死んだら何もできない。
当たり前のことなのに、働いている時は忘れていた。
「お前のような人間を、私は何度も見送ってきた」
クロハが、珍しく真面目な顔で言った。
「『もっと仕事したかった』と言って死んだ者はいない。皆、『もっと家族と過ごしたかった』『もっと趣味を楽しみたかった』と言う」
「……そうか」
「そういう後悔を抱えた魂は、重い。回収する時、こちらも辛くなる」
「……」
「だから、残業するな。死んでからでは遅い。後悔のない人生を送って、軽やかな魂になれ」
なんだか、胸に刺さる言葉だった。
死神に人生の教訓を説かれるとは思わなかったが、説得力がありすぎる。
上司に「体調管理のため」と説明したら、意外とあっさり許可が出た。
どうやら俺が倒れた時、会社もかなり焦ったらしい。
産業医からも「しばらくは無理をしないように」と言われている。
---
次に、食事改善。
カップ麺とコンビニ弁当ばかりだった食生活を、クロハが厳しく監視する。
「野菜が足りない」
「いや、サラダ食べてるし……」
「コンビニのサラダは栄養価が低い。自炊しろ」
「自炊なんてしたことないんだけど」
「教えてやる」
意外にも、クロハは料理が上手だった。
死神なのに、なぜか和食の基本を完璧に把握している。
「なんで死神が料理できるの?」
「人間の魂を見送る仕事をしていると、人間の生活に詳しくなる。最後の晩餐を聞くことも多いからな」
「……切ない理由だな」
「美味しいものを食べた経験は、魂を豊かにする。だから、お前にも美味しいものを食べさせて、良い魂に育てる」
「……また養殖の話か」
「養殖ではない。栽培だ」
「大して変わらないだろ!」
クロハの作る料理は、素朴だがとても美味しかった。
久しぶりに温かいご飯を食べている気がする。
そして、運動。
「毎朝、三十分のウォーキングをしろ」
「朝は弱いんだけど……」
「だから起こしてやる。五時半に起床だ」
「五時半!?」
クロハは容赦なかった。
毎朝五時半、枕元で鎌を振り回しながら俺を叩き起こす。
「起きろ。さもなくば、魂を刈り取る」
「それ脅迫……」
最初は地獄だった。
だが、一週間、二週間と続けるうちに、体が慣れてきた。
朝日を浴びながら歩くのは、思ったより気持ちがいい。
---
問題が発生したのは、同居生活が一週間を過ぎた頃だった。
俺は一人暮らし用の1LDKに住んでいる。
当然、風呂もトイレも一つしかない。
クロハは他の人間には見えないが、物理的には存在している。
「お前が先に入れ」
「いや、クロハが先でいいよ」
「私は死神だ。入浴の必要はない」
「でも、汗はかくだろ。ウォーキングとか」
「……確かに、人間の体に近い状態で顕現しているから、多少は」
結局、俺が先に入ることになった。
風呂から上がると、クロハがソファに座っていた。
ローブを脱いで、下に着ている黒いワンピースのような服だけになっている。
「……っ!」
俺は思わず目を逸らした。
ワンピースは肩が出ていて、白い鎖骨が眩しい。
華奢な肩、細い腕、そしてほのかに膨らんだ胸元。
控えめだが、確かにそこにある。
いやいやいや。
何を見てるんだ俺は。
相手は死神だぞ。しかも見た目は十代後半。
俺は三十四歳のおっさんだ。犯罪だろ、これ。
「どうした。顔が赤いぞ」
「い、いや、なんでもない……」
「風呂で熱を出したか? だから長風呂は良くないと言っただろう」
「そういうんじゃなくて……」
クロハは首を傾げながら、俺の額に手を当てた。
ひんやりとした手のひら。
顔が近い。紫色の瞳が間近にある。
吐息がかかる距離。
いい匂いがする。
「熱はないようだが……」
「だ、大丈夫だから! ほら、クロハも風呂入ってこいよ!」
「……? 分かった」
クロハは不思議そうな顔をしながら、風呂場へ向かった。
俺は深呼吸した。
落ち着け。相手は死神だ。人間じゃない。
年齢の概念すらないかもしれない。
そう、見た目に惑わされるな。
……と言っても、あの容姿で同居は刺激が強すぎる。
---
しばらくして、風呂場から声が聞こえた。
「鈴木」
「な、なんだ?」
「背中が届かない」
「……は?」
「洗ってくれ」
俺は固まった。
「い、いや、無理! 絶対無理!」
「なぜだ」
「だって、お前、裸だろ!?」
「人間の体を洗うのに、服を着たままでは濡れるだろう」
「そういう問題じゃなくて!」
「健康のために、背中はしっかり洗う必要がある。お前が言ったことだぞ」
「俺は自分のことを言ったんだよ!」
風呂場の扉が少し開いた。
クロハの顔だけが覗いている。
銀色の髪が濡れて、頬に貼り付いている。
肩が見える。白い肌に水滴が光っている。
「……頼む」
「っ……!」
その上目遣いは反則だろ。
俺の理性が悲鳴を上げている。
「む、無理だって! 俺、外で待ってるから!」
俺は玄関まで逃げた。
心臓がバクバクいっている。
過労死しかけた時より、確実に心拍数が上がっている。
……俺は何と戦っているんだ。
---
さらに問題は続いた。
ある夜、俺がベッドに入ろうとすると、クロハがいた。
俺のベッドに。
布団をかぶって、目を閉じている。
「ちょ、クロハ!?」
「何だ」
「なんで俺のベッドにいるんだよ!」
「監視任務だ。離れるわけにはいかない」
「いや、ソファで寝てくれよ!」
「寝心地が悪い。人間の体に近い状態で顕現しているから、睡眠の質にも影響する」
「じゃあ俺がソファで……」
「だめだ。お前の睡眠の質が下がる。健康管理に支障が出る」
「じゃあどうすればいいんだよ!」
「一緒に寝ればいい」
クロハは当然のように言った。
「……は?」
「このベッドは一人用だが、私は体が小さい。詰めれば入る」
「いやいやいや、無理だろ!」
「何が無理なのか分からない」
クロハは本気で分かっていない顔をしている。
死神には、人間の羞恥心という概念がないのか。
「い、いいか、クロハ。俺は三十四歳の男だ。お前は見た目十代後半の女の子だ。一緒のベッドで寝るのは、倫理的に問題がある」
「倫理?」
「そう、倫理だ。男と女が同じベッドで寝るのは、その、いろいろとまずいんだ」
「……いろいろとは?」
クロハが首を傾げる。
純粋な目だ。本当に分かっていない。
「と、とにかく! 今日は俺がソファで寝る!」
「だから、お前の睡眠の質が……」
「いいんだ! 俺の精神衛生の方が問題なんだ!」
俺はソファに逃げ込んだ。
心臓がバクバクいっている。
過労死しかけた時より、心拍数が上がっている気がする。
……俺は何を動揺しているんだ。
相手は死神だぞ。
見た目に惑わされるな。
俺は三十四歳のおっさんだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は眠れない夜を過ごした。
---
翌日から、寝室問題は一応解決した。
クロハにはソファベッドを用意し、そこで寝てもらうことにした。
だが、同居生活の問題はそれだけではなかった。
「なあクロハ、ちょっと俺、着替えるから……」
「構わない。見ていても?」
「見ないでくれ!」
「なぜだ。人間の体など、何度も見てきた」
「だから、その、生きてる人間と死んでる人間は違うんだよ!」
「……よく分からないが、分かった」
クロハは素直に向こうを向いてくれた。
だが、その後ろ姿を見ながら着替えるのも、妙にドキドキする。
また別の日。
「鈴木、背中を流してやろうか」
「い、いらない! 自分で洗える!」
「人間は背中が届きにくいと聞いた。健康のために、しっかり洗った方がいい」
「大丈夫だから! というか、なんで風呂場に入ってくるんだよ!」
「監視任務だ」
「監視しすぎだろ!」
俺は風呂場の扉を全力で閉めた。
心臓が壊れそうだ。
過労死より、こっちで死ぬかもしれない。
---
ある日の夕方。
俺が仕事から帰ると、クロハが珍しく困った顔をしていた。
「どうした?」
「……服が」
「服?」
「濡れた」
見ると、クロハのワンピースがびしょ濡れだった。
どうやら、洗濯を試みて失敗したらしい。
「洗濯機の使い方、分からなかったのか?」
「……人間の機械は複雑だ」
「まあ、初めてなら仕方ないか。とりあえず、俺の服貸すから着替えろ」
俺はタンスからTシャツとジャージのズボンを取り出して渡した。
クロハは黙ってそれを受け取り、着替え始めた。
……目の前で。
「ちょ、ちょっと待て!」
「何だ」
「着替えは向こうでやってくれ!」
「なぜだ。お前の前でも問題ない」
「俺に問題があるんだよ!」
俺は慌てて後ろを向いた。
だが、衣擦れの音が聞こえてくる。
布が肌を滑る音。
今、クロハは俺の背後で服を脱いでいる。
心臓がうるさい。
落ち着け。見てないんだから問題ない。
でも、音だけでも想像してしまう。
あの白い肌が露わになっている。
華奢な体が、無防備に晒されている。
下着姿になっている。
いや、もしかしたら下着も……。
だめだ。想像するな。
俺は三十四歳の大人だ。理性を保て。
「……終わった」
振り返ると、クロハが俺の服を着ていた。
Tシャツはブカブカで、肩のあたりがずり落ちそうになっている。
鎖骨が丸見えだ。
ジャージのズボンも大きすぎて、裾を何度も折り返していた。
「……」
「どうした」
「いや……」
かわいい。
めちゃくちゃかわいい。
彼女(仮)の家でデートした後みたいな、あの「俺のシャツ着てる」シチュエーション。
破壊力が半端ない。
「サイズが合わないな」
「い、いや、そのままでいいよ。似合ってる」
「……そうか」
クロハは少し照れたように目を逸らした。
耳が赤い。
……いかん。
このままでは、俺の理性が持たない。
---
ある休日の午後。
俺はソファでうたた寝をしていた。
気づくと、頭が柔らかいものの上に乗っていた。
……何だ、これ。
枕じゃない。もっと温かくて、柔らかい。
目を開けると、クロハの顔が真上にあった。
「お、おおおお!?」
俺は飛び起きた。
「な、なな、何してるんだクロハ!?」
「膝枕だ」
「なんで!?」
「お前が疲れていたようだから」
「いや、でも、膝枕って……!」
「人間の疲労回復には、リラックスが重要だと本で読んだ。膝枕はリラックス効果が高いらしい」
「そういう問題じゃなくて!」
俺は頭を抱えた。
今の状況を整理しよう。
俺は、クロハの膝の上で寝ていた。
太ももの柔らかさを、頭で感じていた。
あの細い足が、俺の頭を支えていた。
……だめだ。思い出すな。
「嫌だったか?」
「いや、嫌じゃないけど……。いや、嫌じゃないっていうか……」
「嫌じゃないなら、続けていいか?」
「よくない! いいけど、よくない!」
「……よく分からない」
クロハは首を傾げた。
純粋な目だ。本当に、何も分かっていない。
俺は深呼吸した。
「いいか、クロハ。膝枕っていうのは、恋人同士がやることなんだ」
「恋人?」
「そう。付き合ってる男女がやること」
「お前と私は、恋人ではないのか?」
「違う! 俺たちは、監視する側とされる側だ!」
「……そうか」
クロハは少し残念そうな顔をした。
……いや、なんで残念そうなんだ。
俺の方こそ残念に思いたい。
あの柔らかい感触をもう一度……。
だめだ。考えるな。
---
さらに別の日。
俺がパソコンで仕事をしていると、クロハが近づいてきた。
「鈴木」
「何だ?」
「肩が凝っているだろう」
「まあ、デスクワークだからな」
「揉んでやる」
「え?」
言うが早いか、クロハは俺の後ろに回り込んだ。
そして、小さな手が俺の肩に乗った。
「ちょ、クロハ!?」
「動くな。揉みにくい」
クロハの手が、俺の肩を揉み始めた。
ひんやりした手のひらが、凝り固まった筋肉をほぐしていく。
……気持ちいい。すごく気持ちいい。
でも、それ以上に気になることがある。
クロハの体が、俺の背中に密着している。
胸が当たっている。
控えめだが、確かにそこにある柔らかさ。
「っ……!」
「どうした。痛かったか?」
「い、いや、大丈夫……」
「もっと強くした方がいいか?」
「いや、そのままで……」
俺は必死に平静を装った。
でも、心臓はバクバクいっている。
顔も熱い。
「人間の体は繊細だな。少し触っただけで、こんなに硬くなる」
「……」
「リラックスしろ。力が入っていると、効果が薄れる」
「無理だ……」
クロハは不思議そうな顔をした。
俺は全力で本能と戦っていた。
---
一ヶ月が経った。
俺の生活は、見違えるほど健康的になっていた。
毎朝六時に起きて、ウォーキング。朝食はクロハが作った和食。
定時で退社して、夜は自炊。十一時には就寝。
体重は五キロ減り、肌の調子も良くなった。
何より、毎日が楽になった。
以前は常に疲れていて、頭がぼんやりしていたのに、今は頭がすっきりしている。
「……悪くないだろう」
クロハが、珍しく満足そうに言った。
「ああ、確かに。前より調子がいい」
「当然だ。人間の体は、適切なケアをすれば応えてくれる」
「おかげさまで」
「お前の魂も、少しずつ良くなってきている」
「……分かるのか?」
「分かる。経験が増えると、魂に深みが出る。お前は今、人生を楽しみ始めている」
クロハは小さく微笑んだ。
「私の育成計画は順調だ」
「だから養殖の話やめろって」
俺はクロハを見た。
最初は怖かった死神だが、一緒に暮らしているうちに、印象が変わってきた。
彼女は無表情だが、根は真面目で、俺の健康を本気で心配してくれている。
料理を作ってくれるし、掃除も手伝ってくれる。
朝起こしてくれるのも、乱暴だが確実に起きられる。
そして……正直に言うと、かわいい。
無表情なのに、時々見せる照れた表情がかわいい。
俺の大きな服を着ている姿がかわいい。
料理を褒めると、耳が赤くなるのがかわいい。
……いかん。
俺は三十四歳で、彼女は見た目十代後半。
どう考えても犯罪臭がする。
年齢差を考えろ、鈴木誠一。
「なあ、クロハ」
「何だ」
「お前って、実際何歳なんだ?」
クロハは少し考えてから答えた。
「人間の時間で言えば、約三千歳だ」
「三千歳……」
「死神としては若い方だ。まだまだ新人扱いされる」
「……そうか」
三千歳。
俺より二千九百六十六歳も年上。
見た目は十代後半だが、中身は超高齢。
……これは、俺の方が年下じゃないか?
いや、見た目は……でも中身は……。
混乱する俺をよそに、クロハは淡々と言った。
「なぜ年齢を聞く」
「いや、その……。俺、お前のこと、十代後半くらいだと思ってたから……」
「見た目はそうだな。人間に近い姿で顕現する時は、この姿が一番馴染む」
「じゃあ、本当の姿は違うのか?」
「本来の姿は、人間には見えない。概念のようなものだからな」
「へえ……」
つまり、この美少女の姿は仮の姿。
中身は三千歳の死神。
……それはそれで、なんかすごいな。
三千年生きてきた存在が、俺の健康管理をしてくれている。
贅沢な話だ。
「ありがとう」
「何がだ」
「いや、おかげで俺、生き返った気がする。比喩じゃなくて、本当に」
「当たり前だ。私の仕事だ」
そう言って、クロハはそっぽを向いた。
だが、その耳が少し赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。
……三千歳でも、照れるんだな。
なんか、かわいいな。
---
二ヶ月が経った頃、事件が起きた。
その日は、どうしても残業しなければならない案件があった。
大口クライアントのプレゼン資料。明日が締め切り。
定時で帰ったら、絶対に間に合わない。
「鈴木、定時だ。帰るぞ」
「待ってくれ、クロハ。今日だけは無理だ」
「何を言っている。残業禁止だと言っただろう」
「分かってる。でも、この案件を落としたら、会社に多大な損害が……」
「お前の命より大事な案件があるのか?」
「それは……」
クロハは俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「鈴木。お前が今死んだら、その案件は誰がやる?」
「……他の人が」
「そうだ。お前がいなくても、会社は回る。だが、お前がいなくなったら、お前の人生は終わりだ」
「……」
「死んだら、残業もできないぞ」
俺は黙り込んだ。
また、正論だ。
死んだら残業もできない。当たり前のことだ。
でも、そんな当たり前のことを、働いている時は忘れてしまう。
「……でも、明日までに終わらせないと」
「明日の朝、早起きして会社に行け。私が起こしてやる」
「え?」
「五時に起きれば、七時には会社に着ける。二時間あれば終わるだろう」
「それは……そうだけど」
「今日は帰って、しっかり寝ろ。睡眠不足で作った資料より、しっかり休んでから作った資料の方が質がいい。そうだろう?」
……確かに。
睡眠不足で頭がぼんやりした状態で作業するより、しっかり寝てからやった方が効率がいい。
なぜ、今までそんな当たり前のことを忘れていたのだろう。
「……分かった。帰る」
「よし」
クロハが、珍しく笑った。
小さく、だけど確かに。
その笑顔が、やけに眩しかった。
---
三ヶ月が経った。
俺とクロハの生活は、すっかり馴染んでいた。
朝は一緒にウォーキング。朝食は二人で食べる。
夜は一緒に料理を作り、一緒に食べる。
クロハは相変わらず無表情だが、時々、小さく笑うようになった。
俺が下手なジョークを言った時や、料理が上手くできた時。
その笑顔が見たくて、俺は毎日頑張っている自分に気づいた。
……でも、同居生活のドキドキは相変わらずだった。
ある日の夜。
俺がソファでテレビを見ていると、クロハが隣に座ってきた。
いつものことだが、今日はやけに距離が近い。
「……クロハ?」
「何だ」
「いや、今日、近くないか?」
「そうか? いつも通りだと思うが」
そう言いながら、クロハは俺の肩に頭を乗せてきた。
「ちょ、ちょっと!」
「眠い。少し休ませろ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「うるさい。黙れ」
クロハは目を閉じて、俺の肩に凭れかかった。
銀色の髪がサラサラと俺の腕に触れる。
いい匂いがする。
花のような、でも少し冷たい、不思議な香り。
心臓がバクバクいっている。
顔が熱い。
クロハの体温が伝わってくる。
死神なのに、ちゃんと体温がある。
少しひんやりしているけど、温かい。
ふと、クロハの手が俺の手に重なった。
指が絡まる。
「……クロハ?」
「……」
返事がない。
寝たふりをしているのか、本当に寝ているのか分からない。
でも、手は離さない。
俺は動けなくなった。
起こすわけにもいかないし、このまま朝まで過ごすのも無理がある。
結局、俺はクロハを抱き上げて、ソファベッドに寝かせることにした。
軽い。羽みたいに軽い。
華奢な体を腕の中に感じながら、俺はそっとベッドに下ろした。
寝顔を見下ろす。
無防備な顔。
長い睫毛が頬に影を落としている。
薄い唇が、少し開いている。
……かわいい。
本当に、かわいい。
俺は頭を振った。
だめだ。理性を保て。
相手は死神だ。見た目は十代後半。中身は三千歳。
どっちにしろ、手を出していい相手じゃない。
「……おやすみ、クロハ」
俺は小さく呟いて、自分のベッドに戻った。
---
また別の日の夜。
俺がソファで仕事のメールをチェックしていると、クロハが隣に座ってきた。
「……寒い」
「え? エアコンつけてるけど」
「人間の体で顕現していると、寒さを感じる」
そう言いながら、クロハは俺の腕に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと!」
「黙れ。温まるまで動くな」
クロハは俺の腕をしっかり抱え込んで、体を寄せてきた。
腕が、クロハの体に密着する。
……柔らかい。
すごく、柔らかい。
クロハの体は見た目通り華奢だが、腕に感じる感触は確かに女性のものだった。
控えめな胸の膨らみが、俺の二の腕を包み込んでいる。
ブラウス越しでも分かる、柔らかくて弾力のある感触。
心臓に悪い。
そして、クロハの体温。
死神だから冷たいのかと思っていたが、こうして密着していると意外と温かい。
最初はひんやりしていたが、俺の体温が移ったのか、少しずつ温まってきている。
その温もりが、なんだか心地よかった。
クロハの銀髪が俺の肩にかかる。
サラサラで、繊細な手触り。
花のような、少し冷たい香りがする。
息を吸うたびに、その匂いが鼻に届く。
クロハの顔が俺の肩に埋まっている。
小さな吐息が首筋にかかって、ぞくっとした。
細い指が俺の腕を掴んでいる。
白くて、綺麗な指。
……だめだ。
心臓がうるさすぎる。
顔が熱い。
このままだと、本当にまずい。
俺は三十四歳で、クロハは見た目十代後半。
いや、中身は三千歳だから俺の方が年下だけど、見た目は……。
でも、この柔らかさは……。
いや、だからこそ、俺は大人として……。
――だめだ! 何を考えてるんだ俺は!
俺は空いている方の手で、自分の頭をポカポカと叩いた。
「何をしている」
「いや、ちょっと自分を戒めてて……」
「頭を叩くな。脳にダメージを与えると、魂の質が落ちる」
「そこ!?」
「私の大事な魂だ。傷つけるな」
「……はい」
結局、俺は理性と戦いながら、クロハが満足するまで腕を貸し続けた。
十分くらい経って、クロハがようやく離れた。
「……温まった」
「そ、そうか、よかった……」
「お前の体温は心地いい。また借りるぞ」
「え、また!?」
「問題ないだろう。お前も嫌そうには見えなかった」
クロハは真顔で言った。
俺は何も言い返せなかった。
嫌じゃなかったのは事実だ。むしろ、もっと……。
――いや、だめだってば!
俺はまた頭を叩こうとして、クロハに手を掴まれた。
「だから、叩くなと言っただろう」
「……すみません」
「反省するなら、頭ではなく行動で示せ。健康的な生活を続けろ」
「……はい」
クロハはソファベッドに戻っていった。
俺は深呼吸して、心を落ち着けた。
……この同居生活、本当に心臓に悪い。
過労死より先に、別の原因で死にそうだ。
---
同居生活も四ヶ月が過ぎ、季節が少し変わり始めた頃。
ある日の夜、俺が風呂上がりにリビングに戻ると、クロハがいつもと違う服を着ていた。
「……クロハ?」
「どうだ」
クロハが振り返った。
黒いローブでも、いつものワンピースでもない。
白いブラウスに、紺のスカート。
どこから調達したのか分からないが、まるで女子高生のような恰好だ。
「……っ!」
俺は言葉を失った。
かわいい。
今まで見た中で、一番かわいい。
「人間の服を着てみたかった」
「ど、どこから……」
「お前がいない間に、百貨店で見繕ってきた。私は他の人間には見えないから、持っていっても問題ない」
「いや、それ窃盗だろ!」
「金は置いてきた」
「……ならいいけど」
クロハはくるりと回った。
スカートがふわりと広がる。
白い太ももがちらりと見えた。
「っ……!」
「似合っているか?」
「に、似合ってる……」
「そうか」
クロハは少し嬉しそうに笑った。
その笑顔が眩しすぎて、俺は直視できなかった。
「お前を真似したかった」
「俺を?」
「お前の生活を見ていると、人間になってみたくなる。だから、人間の服を着てみた」
「……そうか」
クロハは俺に近づいてきた。
「どうだ。人間に見えるか?」
「見える。すごく、見える」
「そうか」
クロハは満足そうに頷いた。
そして、俺の手を取った。
「鈴木。お前との生活は、楽しい」
「……俺も、楽しいよ」
「そうか」
クロハの耳が赤くなった。
俺の心臓が、また跳ね上がった。
---
休日のある日。
俺はソファで本を読んでいた。
クロハはキッチンで何かを作っている。
「鈴木、できたぞ」
「何を?」
「クッキーだ」
クロハが持ってきたのは、不格好だがちゃんと焼けたクッキーだった。
「お前、お菓子も作れるのか」
「本を見ながら作った。味見してくれ」
「洗濯機は使えなかったのに、オーブンは使えるんだな」
「……料理は調合に近い。死神の業務でも薬品を扱うことはあるからな」
「なるほど」
俺はクッキーを一つ取って、口に入れた。
……美味い。
甘すぎず、サクサクしていて、ちゃんと美味しい。
「美味いよ、これ」
「……そうか」
クロハの耳が赤くなった。
「もっと食べろ。たくさん作った」
「お前も食べろよ」
「私は死神だ。食事の必要は……」
「でも、味は分かるんだろ? 自分で作ったんだから、自分でも食べろ」
「……」
クロハは渋々という感じで、クッキーを一つ取った。
小さく囓る。
もぐもぐと咀嚼する。
「……美味しい」
「だろ? お前が作ったんだから」
クロハの顔が、ほんのり赤くなった。
照れている。
三千歳の死神が、自分で作ったクッキーを褒められて照れている。
……かわいすぎるだろ。
「クロハ、今日の夕飯は俺が作るよ」
「何を作る」
「お前のリクエストでいいよ。何か食べたいものある?」
「……ハンバーグ」
「了解。じゃあ、買い物行くか」
「……一緒に行っていいか?」
「当たり前だろ。一緒に住んでるんだから」
俺たちはスーパーに向かった。
クロハは他の人間には見えないが、俺には見える。
隣を歩く銀髪の美少女。
端から見たら、俺は一人で買い物しているように見えるのだろう。
でも、俺には分かっている。
クロハがここにいること。
俺の隣で、一緒に歩いていること。
「クロハ、今日の夕飯はカレーにしよう」
「いいだろう。野菜を多めに入れろ」
「はいはい」
俺がキッチンに立ち、クロハがソファで本を読む。
まるで、新婚夫婦のような光景だ。
「……なあ、クロハ」
「何だ」
「俺たち、端から見たらどう見えるんだろうな」
「他の人間には、私は見えない。お前が一人で料理しているように見えるだろう」
「それはそれで寂しいな」
クロハは本から顔を上げ、俺を見た。
「……お前は、寂しいのか?」
「いや、そういうわけじゃ……。ただ、クロハがいる生活に慣れちゃったから、いなくなったら寂しいだろうなって」
クロハは黙った。
そして、小さな声で言った。
「……私も、同じだ」
「え?」
「お前といる生活に、慣れてしまった。任務が終わったら帰らなければならないのに」
俺は驚いて、クロハを見た。
彼女は俯いて、本を閉じていた。
「クロハ……」
「気にするな。私の問題だ」
そう言って、クロハは立ち上がり、窓際に移動した。
その背中が、なんだか寂しそうに見えた。
---
半年が経った。
俺の体は完全に健康を取り戻していた。
健康診断の結果は全て正常。血圧も血糖値も問題なし。
医者からも「素晴らしい改善です」と褒められた。
「これで、任務は完了だな」
クロハが、静かに言った。
「お前は健康的な生活を身につけた。もう監視の必要はない」
「……そうか」
「私は、戻る」
俺の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
過労死の時とは違う、別の痛み。
「待ってくれ、クロハ」
「何だ」
「俺……」
言葉が出てこない。
何を言えばいいのか分からない。
ただ、彼女にいなくなってほしくないという気持ちだけがある。
「俺、お前がいなくなったら、また不健康な生活に戻るかもしれない」
「それは脅しか?」
「違う。ただ……」
俺はクロハの手を取った。
冷たい手。だけど、この半年でずっと一緒だった手。
「お前がいないと、俺、ダメなんだ」
クロハは目を見開いた。
「それは……どういう意味だ」
「そのままの意味だ。クロハ、俺はお前のことが……」
言葉が詰まる。
三十四年生きてきて、こんなことを言うのは初めてだ。
相手は見た目十代後半の美少女。中身は三千歳の死神。
年齢差がありすぎて、どっちが年上なのかもう分からない。
倫理的にどうなんだ、これは。
でも、そんなことはどうでもよくなっていた。
俺は、この半年でクロハのことが好きになっていた。
見た目とか年齢とか、そんなことは関係ない。
クロハという存在が、俺にとって大切になっていた。
「……好きなんだ」
沈黙が流れた。
クロハは固まったまま、俺を見つめている。
「……死神を、好きだと?」
「ああ」
「私は人間ではない。いずれ、お前の魂を迎えに来る存在だ」
「知ってる」
「私は見た目は十代後半だが、実際は三千歳だ」
「それも知ってる。というか、お前の方が年上だよな」
「……そうだな」
「じゃあ、年齢差は問題ないな。俺が年下なんだから」
「……屁理屈だ」
「屁理屈でも何でもいい。俺はお前が好きだ」
俺はクロハの手を握りしめた。
「俺を生き返らせてくれたのはお前だ。健康的な生活を教えてくれたのもお前だ。お前がいなかったら、俺は今頃死んでた。だから……」
俺は深呼吸した。
「残りの人生、お前と一緒に過ごしたい」
クロハの目に、涙が浮かんだ。
死神なのに、泣くんだな。そう思った。
「……馬鹿な人間だ」
「自覚はある」
「私は死神だ。いつかお前を迎えに来る」
「その時まで、一緒にいてくれ」
クロハは俯いた。
そして、俺の胸に顔を埋めた。
「……お前の魂は、私のものだぞ」
「え?」
「最初から、そう決まっていた。お前の魂は、私が回収する。だから……」
クロハは顔を上げた。
涙で濡れた紫色の瞳が、俺を見つめている。
「だから、長生きしろ。たくさん経験を積んで、豊かな魂になれ。私がもらうまで、なるべく長く待ちたい」
「……」
「八十二歳まで、いや、百歳まで生きろ。そうすれば、お前の魂はもっと価値が上がる。私だけのものになる最高の魂に」
「……なんか、プロポーズなのか脅しなのか分からないな」
「両方だ」
クロハは小さく笑った。
「……分かった」
「え?」
「上に掛け合ってみる。監視任務の延長という形で、お前の傍にいられるかもしれない」
「本当か!?」
「ただし、条件がある」
クロハは顔を上げ、俺を真っ直ぐ見つめた。
「お前は、一生健康でいろ。そうすれば、私が迎えに来るのは、ずっと先になる」
「……ああ、約束する」
「それから」
クロハは俺の胸に顔を埋めた。
「私のことは、名前で呼べ。『死神』ではなく」
「……分かった、クロハ」
俺はクロハを抱きしめた。
冷たかった体が、少しだけ温かく感じた。
---
それから一年。
俺とクロハは、相変わらず一緒に暮らしている。
朝は一緒にウォーキング。朝食は二人で和食。
夜は一緒に料理を作り、一緒に食べる。
クロハは相変わらず無表情だが、よく笑うようになった。
俺の下手なジョークにも、付き合って笑ってくれる。
そして、一緒のベッドで寝るようになった。
最初は緊張したが、今では当たり前になっている。
クロハの冷たい体を抱きしめて眠る。
少しずつ温まっていく感触が、心地いい。
時々、夜中に目が覚めると、クロハが俺の顔を見つめていることがある。
「どうした、クロハ」
「……お前の寝顔を見ていた」
「なんで」
「お前の魂が、どんどん豊かになっているのが分かる。私のものが、どんどん良くなっていく。嬉しい」
「……相変わらず、養殖の話か」
「養殖ではない。愛情だ」
クロハは俺にキスをした。
冷たい唇。だけど、今では世界で一番温かい唇。
「なあ、クロハ」
「何だ」
「俺、あの時死んでよかった」
「不謹慎なことを言うな」
「いや、だって、お前に会えたから」
クロハは頬を赤くして、そっぽを向いた。
「……馬鹿」
「お前が馬鹿だよ」
「黙れ」
そう言いながら、クロハは俺の腕の中に潜り込んできた。
銀色の髪が俺の顔にかかる。
いい匂いがする。
窓の外では、朝焼けが始まっていた。
空がゆっくりと、紫から橙へと色を変えていく。
まるで、クロハの瞳の色から、俺たちの新しい一日の色へ。
あの過労死しかけた夜から、もう一年以上が経つ。
俺の人生は、あの日を境に完全に変わった。
残業漬けの毎日は、穏やかな朝と温かな夜に変わった。
空っぽだった冷蔵庫は、二人分の食材でいっぱいになった。
誰もいなかった部屋には、銀髪の死神が住み着き――そして、俺の恋人になった。
過労死しかけた社畜は、今では健康的な生活を送る、幸せな人間に生まれ変わったのだ。
人生、何があるか分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
「クロハ、今日も一緒にいてくれてありがとう」
「……当然だ。お前の魂は、私のものだからな。誰にも渡さない」
そう言いながら、クロハは俺の手を握った。
冷たい手。だけど、今では世界で一番温かい手。
「百歳まで生きろよ。私をたっぷり待たせろよ」
「……ああ、努力する」
「努力じゃない。約束だ」
「分かった。約束する」
クロハは満足そうに微笑んだ。
窓から差し込む朝日が、クロハの銀髪を金色に染めた。
その姿は、まるで天使のようで。
いや、死神なのに、天使って変か。
でも、俺にとっては、どっちでも同じだ。
彼女は俺を死から連れ戻してくれた。
そして、生きることの意味を教えてくれた。
これからも、俺の隣にいてくれる。
最後の最後まで。
……いつか、クロハが俺の魂を迎えに来る日が来るだろう。
でも、それは遠い遠い未来の話だ。
それまでの時間は、全部、二人のものだ。
朝焼けの中、俺たちは手を繋いだまま眠りについた。
明日も、明後日も、その先も。
ずっと一緒に、朝を迎えよう。
死神に『まだ早い』と追い返されて、本当によかった。
【完】
【作者からのお願い】
かなり長くなってしまいましたが、最後まで、ありがとうございました。続きを書いてみたい、という気持ちもあったりします。
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