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昭和最後の言問橋

 言問橋の上から見る夜の墨田公園は、昼間見た子供やスポーツの練習をする少年少女の姿もなく、閑散としている。

 間遠に点る橋上の街灯は薄ぼんやりと隅田川の波面を照らし出していた。


 夜の10時過ぎ。

 いつもなら、浅草のある台東区側と、対岸の墨田区の東向島側を繋ぐこの橋の上は、一杯飲んで歩いて帰る人たちや引っ切り無しに行き交う車で大層賑やか、ライトで明るく照らされているのだが。

 天皇陛下が死に、あと2時間で昭和が終わるというこの日は走る車もまばらで、遅くまで通るはずの大型トラックも殆ど通らない。

 隅田川にかかる鉄橋を渡過する東武線の電車が、明るく輝く美しい蛇のような姿と、機械的な音を時折り響かせるばかりだ。

 昭島さんが体感したいと言った川風は、体中に氷の欠片を刺すように強く吹いている。


『これは酔い覚ましというレベルじゃないぞ……』


 スーツにビジネスコートは着ていたが、酔って火照った体温が一気に持っていかれる気がした。

 足元が喪服のスカートに黒のストッキングの昭島さんは、寒くないのだろうか。

 見ると彼女は平田からやや離れ、水色の欄干に手をかけて、じっと川面を見詰めている。

 まるでひらりと軽やかに欄干を飛び越えて、川に飛び込んでしまいそうで、平田は急いで駆け寄りすぐ横に並んだ。

 黒いコートの年とった女とカーキのビジネスコートの若い男。2人の影が橋の黒ずんだ歩道に落ちる。


「今通ってきた、『言問橋』っていうプレートが嵌められた、最初の欄干の親柱、根元がすごく黒ずんでいたけど、分かった?」

「いえ、よく分からなかったです。車の煤煙でしょうかね。今日は違うけどいつもならかなりの交通量だから……」

「違うんだなあ。人の焼け死んだときに出た、体脂なのよ」


 え?

 平田は思いもよらない答えにどきりとした。

 何を言い出すんだ、この女性は。いい雰囲気の続きの場面にいきなりホラーか?


 昭島さんはくるりと可愛らしく体を回し、背中を欄干に持たせかけると思いっきり反った。

 10センチのハイヒールの足元がゆらゆらして、今にもそっくり返ったまま隅田川に落ちてしまいそうで、平田は思わず腕を伸ばした。

 彼女の腕をつかむと、さっき肩を支えた時以上に分厚いコートの生地を通して腕の細さが分かる。

 あら、と自分をつかむ男の手を見ながら、昭島さんは寂しそうに微笑んだ。


「ごめんね。飛び込んだりしないわよ。うん。もうしない」


 もう?

 平田は掴んだ腕の力を緩めなかった。


「あの無礼なインタビュアーには話したくなかったけれど、天皇の事なんて出来たら一生思い出さないでいたかった。

 あの戦争を、一言もうやめようと言って終わらせてくれれば、皆こんな目に遭わないで済んだのにって、ずっと思っているから。

 でもなぜ記帳なんかに行ったのか、それが自分でもよく分からないのよ。

 同じ時代を生きた人の最期に、自分でも区切りをつけたかったのかもしれない」


 そう切り出した昭島さんの横顔は、上から降り注ぐ街灯の灯の深い陰影で、年を経た女の、彫りの深い背筋の伸びた美しさがあった。


「そんな悲しい気持ちでいらしたのに、脳天気に焼きそばに誘っちゃったりして……ごめんなさい」

「いいのよ。すごく楽しかったし美味しいし。私にとっても必要な事だった。ありがとう」


 彼女は支線を足元に向けた。冷ややかな黒ずんだ歩道の縁石が、橋の上を延々と続いている。直線的で硬派な機能美の橋。それが言問橋だ。


「あの時は、この橋の上も焼けて炭になったり、半焼けで崩れた表情が見える死体でいっぱいだった」

「え? いつの話ですか?」

「戦争の時。東京大空襲っていうむごい攻撃があったのよ。学校で習った?」


 平田は首を横に振った。日本史の授業ではそこは飛ばされた。

 職員の中でも『過激』と呼ばれる初老の先生達は断固として扱う事を主張したが、受験にあまり出ないとの学校の判断で、簡単に年号と名前を憶えさせられただけ。詳しくは教えられなかったのだ。


「そうか……時代よねえ。あまり知りたくない、怖い、気持ち悪いっていう子もいるでしょうしね」

「でも、僕は聞きますよ。聞かせてください」


 ひいても知らないわよ、と昭島さんは軽くため息をついた。吐息が白く、北風に流れて散った。


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