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サロメとヨカナーン

「暑いわ兄さん、体を洗いたい」


 帰宅し平田の背から滑り降りるなり、和子は浴衣のすそをパタパタとそよがせた。

 肉付きのない少年のような、むき出しの脚が白い。


「風呂屋に行くか?」

「これから出かけるのもなんだから、ここでお湯を沸かして行水がしたい」


 面倒くさいなあ。

 平田はぶつくさ言いながら、糸の試染め用の大きなたらいを屋根裏から下ろした。

 たらいと言っても小柄な和子の体どころか、長身の平田もすっぽり収まる大きさである。

 平田は家中の鍋・やかんを総動員して湯を沸かす間、そのたらいをごしごしと洗った。

 染料が残ってでもいたら、体を洗うつもりが反対に染まってしまう。

 和子の白い足が汚れるようなことがあってはならない。

 平田は黙々とたわしをこすりつけ、磨いた。

 無言の時間が長屋を包み、梅雨明けの夏の風の音がびゅうびゅうと大きく聞こえる。

 箪笥の上の滅多につけないラジオの音も、かすれて途切れがちだ。


「成典さん、手伝いましょうか?」

「いやいい。もう綺麗になったから」


 彼は流しの土間にござを敷き、たらいを置くと、しゅんしゅん音を立てて沸いた湯を注ぎ、水でぬるめた。

 少女の体を火傷させてはならない。

 丁度良い熱さの湯をはり、手桶代わりに銅のひしゃくを置き、手拭いを出す。

 すっかり用意が整った行水に、和子を呼んだ。


「俺は仕事をするから、和子が好きに入りなさい。石鹸も置いてある」

「ありがとう。お風呂屋さんに行く方が、かえって面倒でなかったよね。ごめんなさい」

「いやいいさ。そんな手間とは思わないよ」



 和子は湯上りに着る寝巻代わりの浴衣をたたきにそろえて置き、くるりと平田に背を向けた。

 平田も彼女とたらいに背を向け、作業机に向かった。

 するすると帯を解き、浴衣を床に滑らせて脱ぐ音、片足ずつたらいの湯に入っていく密かな水音。

 身体を半ば沈ませ、湯の中にしゃがんでいるのだろう。

 軽やかに湯がさざめく音も聞こえるし、あれはひしゃくで肩や胸元に湯をかけている音だ。

 やがて石鹸で髪や顔や体を洗う、擦る音が響いてきた。

 平田は、全てを捨てて仕事に集中できる性質を感謝した。

 行水をする和子の様子をぼんやり思い浮かべながらも、真剣に図案を書き続ける。

 紙にひく線が心なしか、常日頃より強弱はっきりと生き生きしている。


「成典さん、背中が洗えないの。手伝ってくださる?」


 和子の細い声も、夜の湿気と強く吹いている風のせいか、いつもよりずっと甘い。


「わかった」


 平田は机から離れ、浴衣の袖を二の腕むき出しにまくり上げ、石鹸を握った。

 和子の黒い髪が一筋、白い石鹸にくっついている。

 濡れた洗い髪を首から前に流し、少女は身を丸めて膝を立て、たらいの中に座っていた。

 顔を膝にふせているので表情が見えない。


「お願いします」


 濡れた白い背中に石鹸を滑らせ、濡れた手ぬぐいでこすってやると、日に焼けていない首から下の、沁みひとつない真っ白な背中がくすぐったそうに波打った。

 電球の光の下で、和子のくっくっというかすかな笑い声がもれる。


「こら、動くな」

「だってくすぐったいわよ、そんなに手を回しちゃ」

「だから動くなって」


 風の音に交じって、平田の部屋の窓がガタガタ鳴った。

 窓の下で、近所の住民や奥さん連中たちが聞き耳を立て、裸の和子と上気した浴衣の平田を見詰めていた。

 こりゃあ……あいつら兄妹なんかじゃないぞ……

 黒い近所の一団は大きくうなずき合った。



 和子は初潮もまだ来ていない。「女」になる手前に居る。

 昭和20年に愛を交わした女は、昭和12年ではまだ危うい年頃の少女だ。


「兄さん、何も感じない?」

「ん?」

「私を見て、肌に触れて何も感じてくれないの?」

「……夏風邪を引きそうだ。早く上がって寝間着を着なさい」


 小声でささやく和子に平田も小声で応じた。

 悲しい事に自分は大人のままなのだ。


「平田さん、私を抱いて」


 平田は背後から手を伸ばし、少女を抱きすくめた。

 骨ばった薄いからだが細かく震えている。

 乳房も腰つきもまだ真っ直ぐな若枝のようで、妹という存在がいたら多分こういうものなのだろう。

 その理性が平田の感情を押しとどめていた。


「そうじゃなくて、ちゃんと、私の体を奪って」

「それは出来ないよ、和子」

「どうして? あの時、もう俺たちは夫婦だって言ってくれたじゃないの」

「その時はお前が……」

「あたしが?」


 和子は背後から回された平田の手を取り、自分の膨らみ始めた薄い胸に導いた。

 触れるまいと、ぎこちなく握られた掌の外で、屹立した薔薇色の乳首が誘うようにあたる。


「その時はお前が大人だったから。今は子供だ。だから待つよ」

「いつまで?」

「お前が16になるまで。あと4、5年だよ」

「いやよ。あたしの体に一度火を吹きこんでおいて、そんなやり方はずるいわ」

「聞き分けてくれよ。お前はまだ月のものも来ていない、本当に子供なんだ。子供を犯すなんて俺は出来ない」


 口調は、愛を交わしたもんぺ姿の20歳の和子よりもむしろ大人びているかもしれないが、その姿は余りに幼い。

 一緒に暮らせば暮らすほど、彼女の処女を奪うなど、気が咎めてできないのだ。


「じゃあそのままでいいから抱いて。あなたの浴衣で私の体を包んで拭いて」


 和子はくるりと体ごと振りむき、立ち上がった。

 湯で上気したか細い体、ほのかな胸の膨らみと、紅色の乳首が目に飛び込む。

 少女はたらいから出ると、男の浴衣の前をがばっと開き、身体ごと入ってきた。

 体と体が密着し、固くなった乳首がこすりつけられる。


「やめなさい」

「その浴衣で私の体をくるんで。そうしているだけでいいから」


 全裸の少女が自分の胸に唇を這わせ、押し倒さんばかりにしがみついてくる。

 男の浴衣の帯を解こうと素早く動く手を押しとどめる拍子に、触れてしまった少女の股間はぬるりと濃く湿っている。


「だからそれは出来ないって」

「離さないで」


 平田は意思の力で、必死に少女をひきはがそうとした。


「やめて ! 」


 離れまいと和子が叫んだ。



 その声を合図のように、戸口から何人もの男達が飛び込んできた。

 彼らは平田を張り飛ばし、和子の体を引っぺがした。

 たらいの湯がひっくり返り、土間に流れていく。


「思った通りだ。この変態野郎」

「子供をたぶらかして犯そうなんて、鬼畜野郎か!」


 巡査や街の自警団が叩きのめし、抵抗する力もない平田を無理やり立たせた。

 その麻の浴衣や手や太ももが、真赤な血で汚れている。


「子供の身体を……悲鳴を聞いて飛び込んだが遅かったか」

「違うんです。平田さんは私に何もしていません」


 裸の和子の訴えは全く聞き入れられなかった。

 男が目の前から連れていかれた。

 何か言いたげに口を開けかけたところを、また殴られ歯が折れた。

「かずこ」と、その血だらけの口が叫んでいた。


 誰かがふわりと浴衣をかけてくれた。

 その裾にみるみる真赤に血が沁みていくのを、和子は呆然と眺めた。

 巡査や大人たちは、突然やってきたこの出血を、破瓜の血と間違えて、彼をしょっ引いて行ったのだ。

 戸口からおっかなそうにのぞき込む近所の奥さん連中は、汚いものを見るような眼で少女を眺めつつ、誰も手を貸そうとはしない。

 あばずれ娘。

 そんな言葉が彼女たちの中から漏れ聞こえる。


「橋向こうの向島で立て続けに女の子が殺されたばかりだっていうのに、気持ち悪いったらありゃしないよ」

「やっぱりあいつが犯人なんじゃねえのか?」


 初潮を迎えた和子は、浴衣に包まりながら、二人の生活の跡がそのまま残る部屋に、呆然と座り込んだ。


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