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赤いほおずきと黒い夜

 昭和12年7月10日。


 梅雨があけ、夏が盛りになる直前を半夏生という。

 平田成典と昭島和子が住む千束町の近く、浅草寺ではホオズキ市が立つ。

 この日にお参りをすると、4万6千日間参拝をしたのと同じくらいのご利益があると、古くから言い慣わされて来た月例祭日である。

 梅雨寒から急に太陽が照り付け、夏の走りの蒸し蒸しとした湿気が立ち上ってくるその頃は、崩しがちな体調快癒を願う参拝客も増える。

 その客目当てに江戸の昔から市が立つのだ。

 なぜホオズキを売るのかは、平田は知らない。

 ただ、毎年100軒以上も境内や参道に出店が並ぶ市に、和子を連れて行こうと思った。

 それも、夜だ。

 初夏の夜の闇に、出店の屋根から吊るした裸電球がいくつもまたたき、浅草寺の周りは強烈な闇と光のコントラストに彩られ、その下に緋色に色づいたホオズキの鉢、濃い緑のすっと伸びた茎や未熟な果実が輝く。

 鮮やかな朱と緑、そして売り子の着る濃紺の半纏。威勢の良い掛け声と買い物客のざわめき。色とりどりの客の女たちの浴衣。

 闇の中からすうっと現れては、明かりの中を歩いて消えてゆく、幻燈のような美しい下町の祭りの光景だ。

 水色のなでしこ柄の浴衣を着た和子は、いつもお下げにして両肩に垂らしている髪をまとめあげ、かんざし代わりに平田の絵筆を刺していた。

 そして紅色の半幅帯は子供らしい文庫ではなく、きりりと貝の口に結んだ。

 その姿は少女というより、膨らみつつあるつぼみの茎をすっくと伸ばした、若枝のように見えた。



 鉢植えのホオズキは出店の棚一杯に並べられ、地面にも置かれている。さらに出店の屋根から幾つもぶら下がり、緋色の電球の群れのようだ。

 少しでも長く楽しめるようにと、平田はまだ固い緑の実のホオズキを一鉢買った。

 さっぱりとした白地に紺の絣柄の浴衣に、博多献上の角帯を締めた平田は、以前とは見違えるような男ぶりだった。

 ほっそりとした水色の浴衣姿の和子と並び、ホオズキの鉢籠を下げて並ぶさまは親子でもない、兄妹でない、何とも言えず怪しく脆い雰囲気が漂っている。


「成典さん、知ってる? ホオズキって口の中で鳴らすことが出来るんだよ」


 銭を払う平田に向かって、和子は下の名で呼んだ。


「知らないな。鳴らすって?」

「殿方は何にも知らないんだよ、お嬢ちゃん」


 きりりとたすき掛けをした、前掛け姿の売り子のおばさんが笑った。


「教えてあげる。ホオズキがよく熟れたら、それを剝いて赤い実をむき出しにするのさ。そして優しく、指先と掌で転がすように、ゆっくりと揉んでいく。固い実が柔かくなるように。

 まだ固いのを、皮が破れないようにほぐすんだから、根気よくゆっくりとだよ。でないと傷が入って破れてしまう」


 おばちゃんはいやらしく笑いながら、鉢植えから外れてしまった実を一個剝いて、実演してくれた。

 指で挟んで軽くたたきながら揉みほぐしては、また別の位置から指の腹で押し、挟んで少し力を入れる。


「決して急がない。ゆっくり、ゆっくり進めるんだよ」


 興味津々で見つめる和子と平田の顔を交互に見ながら、おばちゃんはじっくりとホオズキを揉みしだいていった。


「固い果実はまだ若い娘だからね。壊さないように、事を急がずゆっくりと。そして、狭いところから少しずつ汁が漏れてくる。こんな風に」


 散々指で嬲られ、揉まれた果実は、ようやく苞との境に裂け目が入り、少しずつ赤い汁が漏れ出してきた。


「おい、お客さん一杯来てんだよ。なにを油売ってるんだよ」


 急に客が増えてきたようで、イライラした男の店主の声がおばちゃん売り子に飛んだ。

 にやにやとホオズキ笛を作っていたおばちゃんは、がっかりしたように腰を上げ、半分できた実を和子に渡した。


「ここからは自分でやってみな。隙間が出来たからと言って焦って一気に苞を抜いちゃいけない。少しずつ、押し込んで裂け目を広げながら、汁を出してやる。そして押しながら抜き、少し抜けたら捻じってみたりして進める。おにいさんの方がこういうの得意かもしれないけど、一気にやっちまっちゃあ、裂けちゃって何もかも台無しだからね。分かってるね、兄さん」


 おばちゃんは最後まで下卑た笑いを平田に投げかけながら、離れて行った。



 早く帰ろうという平田に抗して、和子は沿道脇の人気のない一角で根気よくホオズキ笛を作り続けていた。

 一心不乱に白い指を朱に染めながら、ホオズキの実を柔らかくなるまで揉みほぐす少女は大層エロティックで、平田は購入したホオズキの鉢を下げて、見るとはなしに見つめていた。


「そろそろ帰るぞ。あと100数えたら帰る」

「もうすこしで穴が開通するのよ。ちょっと待って」


 和子が思わず声高に叫び、周りの人間が振り返る。

 やがて苞がすっぽりと抜け、しなしなになるまで揉みしだかれた実の小さな穴から、未熟な種を含んだ赤い汁がだらだらと流れ出た。

 和子の白い手や腕が汚れた。


「ほら、言わんこっちゃない。浴衣が赤くなっちまうぞ」


 和子と平田は手水場に行き急いで手を洗い、ついでにホオズキの実の中も洗った。


「こうして、口に入れて、歯茎と唇で押し出すように音を出すのよ」


 和子は形のいい歯の間にホオズキを含み、きゅーっきゅーっと音を出した。

 手間がかかる割には何ともあっけない素朴な音で、子供の泣き声のようにか細く甲高い。


「手間と音が見合っていないな」


 さ、これで気が済んだろう。帰るぞ。

 平田の小言も意に介さず、少女は手を引かれながら絶え間なくホオズキ笛を鳴らしている。


「そんなに面白いか? 」


 参道の終点、交差点に差し掛かったあたりで平田が尋ねた。


「面白いよ。成典さんもやってみて」


 和子はいきなり平田の首に抱き着き、唇を合わせた。

 男が面食らって硬直している間に、口移しでホオズキ笛を平田の舌下に押し込んだ。

 驚きの余り、平田は思わずそのホオズキを飲み込んだ。


「あ……」

「駄目じゃない成典さん、あたしの笛を上手に鳴かせてくれなきゃ」


 和子はスッと体を離し、潤んだ瞳で平田の目を見据えた。

 その様子を、千束町のご近所の奥さん連中が観ていた。



「兄さん、足が痛い」

「そんなに歩いていないだろう」

「買ってくれた下駄の鼻緒、具合がもう一つだったみたい。すごく痛い」

「じゃ車で行くか? そのまま車を回してもらって、上野で何か食べてもいいし」

「いや。兄さんの背中におぶって」


 今日のこの子はおねだりが多いな。

 そうぼんやりと思いながら屈んで向けた背に、和子は大喜びで身を預けた。

 下駄はたもとにぽいと放り込んだ。

 腕を自分の胸の前で組ませ、長い脚を胴に絡ませおんぶすると、和子はぎゅうっと体をくっつけてきた。

 余りに密着させるので、浴衣の薄地を通して感じる固い乳首も、身八つ口から肩口に触る脇の下の体温も、全てが生々しい。

 和子はわざと男の背中に太ももや胸を密着させ、首元に鼻をすりつけながら囁いた。


「成典さんの匂いがする」

「そうかあ? 汗かいたからなあ」

「寝てる時もそうだよ。あたしを抱きしめながら、成典さんそういう匂いをさせてるよ」

「嘘だ。お前を抱きしめたことなんてない」

「自分で気づかないだけだよ。寝ぼけてるから。何度もあるよ」


 嘘だ。俺はそんなことは絶対にしない。

 この、心だけ大人の小娘は俺をからかっているのだ。朴念仁と嗤っているのだ。


「兄さん」

「今度はなんだ? 」


 平田はつい声を荒げ、乱暴に和子の体を揺すり上げた。


「怒った?」

「ああ。少しな。大人をからかうもんじゃない」

「あたしも大人よ」

「お前は子供だ。少なくとも今はそうだ」


 和子は不満げに口をつぐんだ。

 祭りの夜市の喧騒はだんだん二人の背後に離れ、酔っ払いや娼婦の行き来する花やしきの裏を抜けると、いつもの千束町の商店街。

 平田の長屋まではもうすぐだ。

 肘にぶら下げたホオズキの鉢植え籠も、それなりに重い。

 夜も遅く、商店街はもうすっかり人気もない。

 街灯もまばらだし、街は夜のしじまに覆われている。

 歓楽街の浅草中心部とは少し違う、生活する浅草の部分だ。

 不意に和子の手が、平田の浴衣の襟元をぎゅっと握った。

 爪が布地を通してぎりっと薄い男の肉に食い込む。


「っつぅ……!」

「ねえ兄さん、感じる? あたし、今とっても熱いんだって」

「ああ、暑いな。陽が沈んでも蒸し暑い夜だ」

「でも兄さんは冷たいわ」


 和子は自分を背負う平田の浴衣の襟元から手を差し入れた。

 ヒヤッと冷たい感触に彼は思わず首をすくめたが、少女の手は容赦なく平田の胸元をまさぐり、撫でまわす。

 その背で、彼女の乳首が固く尖ってくるのを感じた。


「やめろ……」


 平田は呻いた。


「いや」

「もうやめてくれ」

「やめないわ。成典さんは私の恋人だもの」

「お願いだ、もう勘弁してくれ……」


 だが和子は、低い声で、やめない、やめてなんかあげないと呟き続け、平田の体を堪能した。


『ホオズキだ……この子の体は赤いほうずきだ……』


 平田は、夜が彼女を女に変えたと思った。


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