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3月9日の僕と君

 江戸通りをひたすら歩き、二人が平田の住む長屋に着く頃にはすっかり日が暮れていた。

 立春を過ぎ、暦の上ではもう春だと言っても、体の芯まで冷えるような木枯らしはごうごうと吹き荒れていたし、巻き上げられた土埃で平田の国民服の中や、和子のひっ詰めた髪の毛の中まで汚れていた。

 二人は畳の上にへたり込んだ。


「どうしたんですか?」

「ん?」

「どうしたらいいんですか? 私。あんなことになって……」

「どうもこうもないよ」


 平田は破れかけた靴を脱いで狭い四畳半に上がり、肩から鞄を外して放った。

 鞄はこれまた狭い水屋の手前まで転がって止まった。


「昭島くんは俺の嫁さんになるのは嫌かい?」

「嫌っていうか……この前まで全然知らない人だったのに」

「今は知ってる。そして俺は昭島くんが好きで、一緒になりたい。それだけなんだけど」

「私は……」

「俺みたいな肺病やみはごめんって?」

「そんなことない。でもまだまだ知らない人だから怖い」


 彼女は20には見えないほど子供っぽく、膝を抱えて入り口際の畳の隅に座っていた。

 いつでも逃げられるようにだろう。


「俺は急に襲ったりしないよ。第一君の方がずっと力があるから、ぶっとばされてしまうよ」


 和子は赤面した。



 台所に立った彼女は、乏しい材料で二人分の夕飯を作った。

 干した大根の葉を戻し、同じく配給の干し大根と、鞄に入れたままになっていた脱脂大豆を入れた雑炊もどき。

 ほんの少しの塩と味噌しか味付けはなくはっきり言って不味かったが、そんなことは言っていられない。

 日時が決まっている配給も滞りがちで、次にいつ食べられるかわからないのだから、有り難くかっこまなければならない。

 だがちゃぶ台を挟んで向かい合った二人は無言だった。

 灯火管制の暗い明かりで互い表情も良く見えない。

 聴こえるものと言ったら二人の食器の触れるカチャカチャという音と、時折咳こむ平田の息と、あわてて大丈夫ですかと気遣う和子の声だけだ。

 夜まだ浅いうちは警戒警報もなく、静かだった。


「あの……」


 かみ切れない筋張った大根の葉に難儀しながら、和子は切り出した。


「うん?」

「私達、どうなるんですか?」

「どうって?」

「本当に結婚するんですか?」

「ああ。そのつもりだけど。なるべく早く役所に届けを出して」

「私はどうしたら……」

「俺と一緒に居てくれればいい。それだけ」


 平田はあらかた食べ終えた雑炊の茶碗を置いて、ちゃぶ台から身を乗り出して和子を抱きしめた。

 性急に口づけをしようとして、ふとためらった。

 この子は俺を好きでもなんでもないかもしれない。


 好きでした。ずっと前、隣の工場で見かけたころから好きでした。


 和子がほとんど聞こえないような声で囁いた。

 平田は夢中で和子を畳に寝かせ、元から暗い電気を消した。

 ラジオでは国民歌謡の『椰子の実』が流れ、一際強くなった北風が長屋を吹き飛ばしてしまいそうなほどに吹き付け、家全体をガタガタと激しく揺さぶっていた。


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