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逃亡者

「昭島さん、ちょっといいかな」


 台所で湯を沸かしていた和子は玄関を叩く音に振り向いた。

 決して乱暴ではなく、控えめにノックしながら自分を呼ぶ男。

 その優しい声音で、職場でいつも親切にしてくれる同僚の大勝だとわかった。


「はい。今行きます」


 和子は急いで玄関に出て、鍵を開けた。


「これ。忘れ物。無いと困ると思って」


 大勝が花柄のハンカチ包みを鞄から出し、目の前で振って見せた。


「あら、私お弁当箱を忘れていた?」

「ああ。君の机の隅にちょこんと。仕事が残ったから日曜日に出てみたら、見つけたんだよ」

「ありがとう。バタバタして置いて来ちゃったこと自体忘れていたわ。私駄目ねえ」

「そんなことないよ。忙しそうだけど、誰か具合悪いの?」

「ええ。ちょっと……」


 和子は持ってきてしまった湯たんぽを靴箱の上に置き、空の弁当箱を受け取った。


「大事な話があって、弁当箱にかこつけて来たんだけど……それじゃ日を改めた方がいいね」

「そうね。ごめんなさい」


 和子は目を伏せた。


「一緒に外でお茶でも、と思ったんだけど……」

「しばらくは無理だわ。下宿人が具合を悪くして寝込んでいるから」


 そうか、じゃまた頃合いを見てお誘いするよ。僕は待ってるから。

 大勝はそう言って、静かに微笑み


「君まで風邪を引いたりするなよ。一生懸命になると自分がお留守になる人だから、君は」


 そう言って玄関を閉めた。

 あの人は本当に善い人だ、絶対に幸せになれる人だ。

 和子はそう考え、受け取った弁当箱を胸に抱いた。


 4月上旬の日曜日。

 久々に良く晴れた日、小鳥のさえずりが明るく響く。

 平田はここ最近には珍しく、心地良く目覚めた。

 熱もなく呼吸も楽で、体調はすこぶる良い。

 布団を窓に干しながら、彼は廊下突き当りの洗面所で久々に髪を整え、薄い髭を剃った。

 我ながら酷い顔だ。

 また20歳を少し過ぎたばかりだというのに目の下はくまができ、額と眉根には深いしわが寄り不機嫌そうに見える。

 若者の顔とは思えない、人生に疲れ切った老人のようだ。


 階段を降りると味噌汁と、ねぎを刻む香りがする。


「おはようございます。お早いですね」


 白い前掛けを付けた和子が振り返る。その表情は若い伯母か姉といった安定感だ。


「おはようございます。今日は体調が良いので起きてきました」

「じゃ、お部屋じゃなく、ここで朝ご飯を召し上がりますか?」

「はい。お願いします」


 納豆に刻みたてのねぎ、麦ごはん、油揚げと菜っ葉の味噌汁。

 それだけの朝食だがどれも腹にしみわたる。


「そうそう。新聞はここに」


 食べている最中に椀を置き、新聞を手にする平田に和子は眉をひそめた。


「お行儀が悪いですよ」

「ごめんなさい。早く記事が読みたかったんです」


 ドキドキしながら紙面をめくると、片隅に警察と政府からの広報記事があった。


「以下の者、戦犯容疑を解除する」


 食い入るように視線を動かすと、自分の本名がそこにあった。


「どうしたんですか?」

「……」


 俺の名前だ。平田成典。すると俺は逃げ切れたということなのか。

 平田は盛られたご飯と味噌汁をかきこんだ。

 味などわからない。熱い味噌汁で舌を火傷したが、痛くもなんともない。

 きちんと箸をそろえて一礼した。


「ごちそうさまでした」

「山川さん、血が」


 和子が素っ頓狂な声を上げた。

 若者の口の端から細い血の筋が垂れていた。慌てるあまり、口の中を思いきり噛んだのだろう。


「あれ……」

「痛くないんですか? 口の中切っちゃったんですね」


 差し出された白い布巾で口元を押さえると、みるみる血のシミが広がる。

 苦しい夢の中でもこれだけははっきりと見えていた赤い色。

 それは平田の感情をグラグラと揺さぶった。


「大丈夫です。ごちそうさま」


 平田は新聞をひっつかむと、転がるように階段を駆け上って行った。


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