はなれない二人
「白髪、目立ちますよね」
「うんまあ、あんたこの頃染めてないからね」
「目じりに小じわだって出来てるし」
「まだ小じわと言い張る? 大じわだわねえ、その規模は」
「手だって荒れてるし」
「心も荒れ気味ですわよ、お嬢さん」
うるさいなじじい。
女湯。ごしごしと洗い場をデッキブラシでこすりながら、昭島和子は毒づいた。
相手は男湯の掃除をする、この風呂屋のオーナーの爺さんである。
体がいまひとつ丈夫ではないオーナー夫人の婆さんは、脱衣所をほうきで履いて、籠をそろえ、着替え棚や下足棚を拭いている。
「でもさあ和ちゃん、あんたおデートがあるんだからさ、早く上がっちゃっていいわよ。あとは爺さんがやってくれるっていうから」
「え、そうなってるの? 婆さん」
「だってさっきから表の道路に、若い兄ちゃんが座りこんでるんだもの。気になるったらありゃしない」
和子はズボンの裾をたくし上げた、ふくらはぎむき出しの姿のまま表通りを見にいった。
瓶底眼鏡にがりがりのやせっぽちの男が、分厚い本を読んで座り込んでいる。
「ほんとだ……」
すごい実行力。呆れた。
今朝会ったばかりなのに。
この年増女に何か用があるのだろうか。
カンパ資金なら、ないぞ。
和子は急いで風呂屋を出て、平田のもとに走った。
目のまえに仁王立ちになると、脱衣所で売っているコーヒー牛乳と、フルーツ牛乳をぬっと目のまえに突き出す。
何事かと目を上げた平田は、眼鏡の奥の目を細め、嬉しそうに罪のない笑顔を見せた。
「早かったですね、和子さん」
「そんなとこでわざとらしく待ってられたら気が急いちゃうでしょ。で、どっちなの?」
「あ、コーヒー牛乳いただきます」
平田は少しも遠慮なく、瓶入りコーヒーを受け取り、腰に手を当てて飲んだ。
「こうして飲むもんなんですよね。今日そちらのお風呂屋さんで、親切なおじいさんから教わりました」
「で、何を食べたいの?」
「あー、どうしましょうか。それこそ和子さんが召し上がりたいものを。屋台のラーメンでもうどんでもいいし、何なら僕が作ってもいいですよ。トン汁とか挽肉豆腐とか、最近アルバイト先で覚えて同士にも好評なんです」
「違うわよ。夜食か、あたしかってことよ」
さあ困れ。そして断れ。こんな会ったばかりの年増の労働女を抱くなんて、カツドウ坊ちゃんには論外だろうよ。
和子は意地の悪い気持ちで青年を見下げた。
予想に反し、平田は弾むように立ち上がると、顔中で笑った。
「和子さんを食べたいです。いいんですか。僕腹ペコですよ。食いしん坊ですよ」
ちゃぶ台に載ったどんぶりが、カタカタ揺れている。
そのたびに、底に残ったチキンラーメンの汁がこぼれそうになった。どんぶりは一つだけで、あともう一つはアルマイトの片手鍋だ。
平田と昭島和子の、ささやかなディナーの跡である。
その二人はいま、四畳半の和子のアパートで、窓を全開にしたまま狂ったように交わっていた。
時折り外から
「うるせえ、しずかにやれ」
と怒鳴られるが、そんなことは知った事ではない。
2人は汗と汁にまみれ、お互いの中に入り、絡み合っては激しく抱き合った。
痩せっぽちでいかにもひ弱そうに見えた平田は、意外とタフで旺盛な性欲を和子にぶつけてくるし、和子も女ざかりの渇きかけた肉体を、男の若さと精液で満たした。
「あんたさあ……」
何度交わってもしぼまない男のものを咥えながら、和子はふと口を離した。
「洋食でも和食でもなんでも作れるっていったじゃん。それは嘘?」
平田はぜいぜいと苦しげな息を吐きながら、和子の口をまた自分でふさいだ。
「作りますよ……次の夕飯に、和子さんの大好きなソーセージでも、ハンバーグでも何でも……でも一番好きなのは、俺でしょ?」
和子は平田を押し倒すと、馬乗りになった。
月明かりの下、2人の交わるぐちゃぐちゃという音が、近所の藝大生が練習するビオラの音に乗って響く。
「和子さんの手って……火薬のにおいするんですね」
ビタリと、和子の揺れる乳房と腰の動きが止まった。
「風呂たきの仕事……マッチと薪と……ハードですもんね」
和子はほっとしたように、また一際激しく腰を振った。
跨られた平田は激しい快感に死んだような顔をしている。
「でも結婚したらそれ辞めましょう。おれが風呂炊きや掃除しますから……和子さんは番台で笑っていてください。そして夜は俺とこうして……」
うっと引き潰されたカエルのような声を出して、平田は果てた。
だか和子は動きをとめない。
またすぐ平田のものがむくむくと大きくなる。
いっぱいして。楽しんで。あたしの匂いが、あんたの精液とあたしの汁で消えてしまうまで。
火薬の匂いは昭島和子の全身、髪にも指先にも染みついているものだった。
この年、都内各地で「草加次郎」と名乗る人物から、小さな爆発物が仕込まれた郵便が送り付けられたり、時限発火装置が仕掛けられていてけが人が出たりといった被害が相次いだ。
昭島和子はその新聞記事や、週刊誌のチラシを見るたびにほくそ笑んだ。
そう。草加次郎はあたしだよ。
憲兵として派遣された南方で、捕虜を傷つけたといういわれなき罪状で処刑された弟・次郎の復讐だよ。
『眼鏡をかけた憲兵が一番我々を虐待した』
なんてざっくりした証言で、違うと叫び続ける弟は戦争犯罪人とやらにされた。
やっと戦争を生き延びたと、故郷に帰って農業を再開したのにしょっ引かれ、暑い南方で裁判にかけられ殺された。
なのに弟たちの上官、本当の指揮権のある司令部の人間は誰一人責任を取らず、今も大金持ちになって社会的な地位も高いまま。
そんな世の中はクソだ。
クソは汲み取られてしまえばいい。
復讐して爆弾を送り付け、何の関係もない人を傷つけているあたしもクソだ。
だから死んでしまえばいい。
笑ってやるよ、世の中も自分も。
老夫婦の経営する風呂屋の風呂焚きという、ノンビリと平和な暮らしに身を置きながら、和子は火薬のにおいを仕事のせいにし、せっせと物陰で爆発物を仕込んでは荷造りしていた。
乾電池と、小さな時計と、火薬。
それだけでいい。
この坊やたち学生が使う火炎瓶には火力でかなわないけど、ずっとコントロールできる手段だ。
いいかい坊ちゃん、あんたの精を搾り取って、あたしの憎しみに役立たせてもらうよ。
「ああ喉がかわいた。コーラ飲みたいなあ」
ツポッと平田の体を抜くと、汗まみれの下半身がスース―した。
「買ってきます……店、開いてるかわからないけれど……探してきます、和子さん……」
平田はふらふらとパンツをはき、服を着ると、アパートの部屋を出て行った。
和子は素っ裸のまま窓辺に立ち見送ると、カーテンを閉めた。
白い垂れた乳房に、平田の指のと歯の跡が、くっきりと赤くついていた。
「平田同士、今頃どうした」
東上野のアメ横の奥に住んでいる青年は、学内で配るアジテーションちらしのガリ版をカリカリと切っていた。
あと声を聴き、窓の下を見下ろすと、汗まみれで目をギラギラさせた平田成典が立っている。
「同士、コーラかジュースは在りませんか。どこも店が閉まっていて」
「どうしたんだ、どこから来たんだお前」
「浅草です。恋人が欲しがるもので」
夜中なのに大声で自慢する平田に、青年は閉口した。
いいから上がれと四畳半に呼びつけ、ぬるい室温のコーラの瓶を二本握らせると、さっさと帰れと手を振った。
「その彼女は、全身に火薬の匂いが染みついた、眼光の鋭い女なんですよ。とってもそそられませんか」
「ああ……そそられるな……色んな意味で」
翌日、青年は平田の属する『委員長』に御注進に行った。
もしかしたら火薬の扱いに長けた、発破の使える女なのかもしれない。
だとしたら、平田に肉体を使ってオルグさせれば、こちらにとっても大層有利だ。
不安定な火炎瓶をしこしこと内職で造るより、効率がいいし戦いにも使える。
「平田に伝えろ。その彼女とぜひ逢わせてほしいと」
伝令をとばした後、仲間が和子のアパートに向かったが、すでにもぬけの殻だった。
2人はもう少し広い、二人で住めるアパートに移っていたのだ。




