わたくしの“ウソ”をあなたが“真実”に変えてくれましたわ
モンスターもいない
魔法の存在も証明されていない
──そんな異世界のお話。
「わたくし、ドラゴンに乗ってお茶会に行ったことがございますの」
「月の国の王子様から、直々に求婚されたこともありますのよ」
「この前なんて、妖精たちと一緒に、湖の上を歩きましたのよ」
コリーネ・シュヴァルツ侯爵令嬢の口から出るのは、どれもこれも明らかな作り話ばかり。彼女は息を吐くようにウソをつく。
父はスープの表面を見つめながら眉をひそめ、母はため息と共に紅茶を口に運ぶ。弟のカールは、無言でパンにバターを塗る手を止めなかった。
「コリーネ、またそんなことを?」
「お姉さま、その話、前にも言ってたよ。湖の話は三回目」
「まあ、いいじゃない。楽しい思い出を話しているだけですわ」
コリーネはにっこりと笑って紅茶を飲み干す。けれど、その笑みに浮かぶのはほんのわずかな苦味。
(わたくしがウソをつくようになったのは、カールが生まれてから……)
かつては、自分も家族に愛されていると信じていた。
小さな頃は、母の膝に座ってお話を聞き、父に花を贈っては頭を撫でられ、屋敷の使用人たちも、明るく元気なコリーネに微笑みを向けてくれていた。
けれど、弟の誕生を境に、彼女の日常は一変した。
母は一日中カールに笑いかけ、父は「跡取りができた」と言って満足げに目を細める。
「もうお姉さんなんだから」
──その言葉で、コリーネの想いはいつも後回しにされた。
(わたくしのことも、ちゃんと見て……)
まだ幼いコリーネは、ただただ、そう願っていた。
そして、彼女は思いついた……。
「今日、お庭で妖精に会ったの。緑色の羽で、風に乗って飛んでたの」
──それが、最初のウソだった。
母は一瞬目を丸くしたが、すぐに泣き出したカールに気を取られてしまい、それきり話は終わった。
でも、コリーネは諦めなかった。
「お父さま、昨日、森でオオカミを追い払ったの。とても勇敢だったのよ」
「屋敷の奥で迷子になっていた幽霊の子を助けてあげたの」
ウソを口にするたびに、ほんの一瞬でも自分に向けられる視線が嬉しかった。その一瞬のために、彼女はウソの話を語り続けた。
だが、やがてその話は『奇妙な虚言』とされ、家族の関心どころか冷笑すら引き起こすようになった。
「またそんな作り話? もうやめてちょうだい。カールに悪い影響が出たら困るの!」
母の視線は冷たく突き放すようだった。
「コリーネ、しっかりとカールの世話をしなさい。変なことばかり言ってるんじゃない!」
父の声は命令のように威圧的だった。
両親の関心は、いつだってカールに注がれていた。
一方でカールは、両親の愛情をまっすぐに受けてすくすくと育っていった。
「お姉さま、ぼくね、また褒められたんだ。お父さまが、ぼくには才能があるって」
カールに罪はない。純真で人懐っこく、優しい弟だった。だからこそ、なおさらコリーネの胸を締めつけた。
誰かを憎みたいわけじゃない。ただ、ほんの少しでいい、自分にも目を向けてほしかったのだ。
「今日は、湖の上を歩いたの」
そんな荒唐無稽な話でも、言わずにはいられなかった。言葉にしなければ、自分の存在が消えてしまいそうだった。
(『ウソ』は、わたくしを照らす光。笑われても、無視されても、『コリーネ』という存在が確かにここにいると証明できるから……)
家族の笑い声が、焼きたてのパンの香りとともに広がる朝の食卓。だが、誰もコリーネの話には興味を示さない。その笑顔の輪に、彼女の居場所はなかった。
◇
──ウソつき令嬢。
その不名誉なあだ名は、社交界にも広がっていた。
若い令嬢たちは冷笑し、青年たちは面白半分にからかう。誰も、彼女の話に耳を傾けようとはしない。
「またウソね」と、一笑に付されるだけ。
デビュタントを迎えた頃は、それなりに注目も集めた。舞踏会では何人かの青年に声をかけられたし、誘いもあった。けれども、しばらくすると彼女のウソに彼らもうんざりし始める。
「ウソをつく娘は信用できない」
「本気にするだけ無駄だよ」
そんな言葉が囁かれるようになり、やがて誰も彼女に真剣な視線を向けなくなった。
婚約者がいなかったのも、そのせいだ。軽んじられ、相手にされず、いつしか、華やかな社交の輪の外に立たされていた。
それでもコリーネは、今日も微笑んで、物語を語り続けていた。
◇
そんなある日。
「コリーネお嬢様、貴女に婚約の申し出がございます」
侍女が差し出した手紙には、ツェルナー伯爵家の名が記されていた。
「リカルト? たしか、次男の……」
リカルト・ツェルナー。病弱で、長くは生きられないと噂される青年。人前に姿を見せることはほとんどなく、屋敷に籠もって暮らしているという。
「これはまた、妙な縁ね」
コリーネは手紙をひらひらと振って笑った。
婚約は、驚くほどあっさりと決まった。それは、あまりに唐突で、不自然なほどに……。
けれど、そこには両家の思惑があった。
シュバルツ侯爵家にとって、コリーネは持て余していた存在。ウソを重ね、周囲を呆れさせ、社交界では浮いている。縁談はまとまらず、家の名に影を落とす厄介者と見なされていた。
そんな折に舞い込んだこの話は、願ってもない好機だった。たとえ相手が病弱な伯爵家の次男でも、嫁ぎ先が見つかりさえすれば、それでよかった。もはや体面さえ保てれば十分だったのだ。
一方のツェルナー伯爵家にとっても、この婚約は悪くない取引だった。
派手な政治力こそないが、由緒ある侯爵家とのつながりは、家の立場をより確かなものにする。そして何より、長らく体調がすぐれず将来も不安視されていたリカルトに、正当な婚約者がつくという事実は、周囲への安心材料にもなった。
たとえ相手が『ウソつき令嬢』と揶揄される娘であっても、侯爵家の令嬢という肩書きは揺るがない。
──都合のよい結びつき。
そうして進められた婚約の裏に、愛情や期待はなかった。あるのは、それぞれの家の打算と諦めだけだった。
◇
婚約が決まり、コリーネはツェルナー家の別邸を訪れることになった。
リカルトは療養のため、自然に囲まれた静かな別邸で暮らしていた。彼は噂どおり、どこか儚げな雰囲気をまとった青年だった。淡い金髪に繊細な体躯、穏やかな青い瞳。
「あなたが……コリーネ様、ですね」
「ええ、はじめまして」
初対面で交わしたのは、それだけだった。
けれどその短いやり取りのあと、コリーネが微笑むと、リカルトも同じように静かに微笑み返した。
「ようこそ、ツェルナー家へ」
こうして、ふたりの婚約生活が始まった。
リカルトは病弱なため、屋敷の外に出ることはほとんどなかった。彼にとって外の世界は、窓の向こうの風景と、本の中の物語、そして稀に訪れる客人の言葉だけがすべてだった。
そんな彼が、初めてコリーネの話を聞いたとき、目を細めて言った。
「あなたの話は……まるでおとぎ話のようですね」
「まあ、そうかもしれませんわね」
コリーネは肩をすくめて微笑んだ。
しかし、リカルトはそれを咎めるでもなく、ただ優しく言った。
「もっと聞かせてもらえますか?」
それ以来、コリーネは屋敷を訪れるたび、ウソを語った。
海底都市で開かれる貴族たちの舞踏会。
空を歩く猫たちの行進。
月の金属でできた、どんな願いも叶える指輪。
リカルトはその一つ一つに丁寧に耳を傾け、時には問いかけ、時には笑い、まるで宝物を受け取るかのように目を輝かせた。
「私は外の世界を知らないから……あなたの話が、世界とのつながりのように感じるんです」
そう言ったときの彼の声は、穏やかで、けれどまっすぐ心に届く響きを持っていた。
彼のもとを訪れるたびに語られたコリーネのウソは、一度も否定されることがなかった。馬鹿にされることも、軽く受け流されることもなく──それらはすべて、リカルトの中で美しい物語として輝いていた。
そして、コリーネのウソは、その意味を少しずつ変えていった。
誰かに愛されたい一心でついていた『ウソ』ではなく、誰かを楽しませたいと願う『物語』へと──。
(リカルトが微笑んでくれる限り、わたくしの言葉はきっと『ウソ』ではなくなる……)
そう信じるように、コリーネは今日もまた、新しい『物語』を話し続けた。
◇
その日、コリーネはリカルトのもとへ向かう途中だった。だが、玄関先で思いがけない人物と出会う。
「……あなたが、コリーネ嬢ですか?」
凛とした声。振り返ると、背の高い男が立っていた。漆黒の髪に鋭い目元。身なりは整っているが、どこか堅苦しさを感じさせない穏やかな雰囲気。
「はい。あなたは……?」
「リカルトの兄です。マイラス・ツェルナーと申します」
コリーネは思わず目を見開いた。社交の場に出ることが少なくなったとはいえ、その名は知っている。ツェルナー家の嫡男であり、若くして政務に携わる有能な人物。
「ご挨拶が遅れて、申し訳ありません。まさか、こちらにいらっしゃるとは……」
彼は軽く首を振って微笑んだ。
「いや、突然訪ねてしまったのは僕のほうです。どうしても、あなたに会いたくて来ました」
「……わたくしに、ですか?」
「ええ。弟のことで」
マイラスはふと庭へ目をやり、静かに言った。
「リカルトが、最近とても元気なんです。……別人のように、表情が明るい。言葉が増えて、よく笑うようになった。あの子が、あんなふうに笑うなんて……本当に、久しぶりで」
その言葉に、コリーネの心がわずかに揺れた。
「……そう、ですか」
「それは、あなたのおかげだと……僕は、そう思っている」
マイラスはまっすぐに彼女を見つめた。
「リカルトが別邸に移されたのは、病が理由でした。でも本当は、療養のためではなかった。両親は、伯爵家の体面を保つために、病弱な弟を『見えない場所』に置いておきたかった……。あの子は、その意図すらわからずに、受け入れてしまった」
言葉の端に、怒りとも悲しみともつかない感情がにじんでいた。
「僕はずっと、歯がゆかった。何もしてやれない兄で……でも、あなたが現れて、リカルトの目に光が戻った。だから……感謝しています。本当に、ありがとう」
コリーネは言葉を失った。
(わたくしは、ウソをついていただけ。愛されたいから。見てほしかったから。子供のころと同じように、自分の居場所を、ただ探していただけ。なのに、目の前のこの人は、わたくしのウソに感謝している)
「……でも、わたくしは……」
そう言いかけたとき、マイラスが優しく遮った。
「あなたがどんな言葉を語っていたとしても、弟が救われたこと──それは『真実』です。……これからも、弟のそばにいてくれますか?」
まるで、兄としての想いすべてを託すような声だった。
コリーネは、知らず手のひらを握りしめていた。胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「……はい。喜んで」
そう答えたとき、コリーネは、自分の『ウソ』を初めて誇らしく思えた。
◇
数日後。
コリーネは、いつものようにリカルトのもとを訪れた。
午後の陽射しが薄く差し込む静かな部屋。カーテンは半ば閉じられ、ひんやりとした空気が満ちている。
リカルトはベッドに腰かけ、かすかな笑みでコリーネを迎えた。顔色は青ざめ、呼吸は浅い。唇を震わせ、小さく咳を漏らすたびに、彼の体がかすかに揺れる。
「……無理をなさらなくていいのに」
そう声をかけると、リカルトはそっと首を振り、微笑んだ。
「あなたが来る日は、元気になれるのです」
その言葉ににじむ、小さな嘘をコリーネは感じ取っていた。本当は、起きているだけでもつらいはず。それでも、彼は彼女を待っていてくれたのだ。
だからこそ、いつもの冗談も気の利いた話も、今日は口をついて出てこなかった。
「……じゃあ、今日は静かな話をしましょうか」
「……聞かせてください。あなたの声を聞いていると、心が安らぐのです」
かすれた声に、コリーネはそっと微笑み、ベッドの横の椅子に腰を下ろす。そして、以前語った『星の精霊の旅』の続きを語り始めた。
リカルトはその声に耳を傾けながら、何度も目を閉じ、咳き込み、身体をわずかに震わせた。そのたびに、コリーネの胸は痛んだ。
それでも彼は、彼女の声を求め、耳を傾けている。だから、語ることをやめなかった。これは、彼が望んだ『物語』なのだから……。
しかし──
「コ、コリーネ……」
リカルトがかすれた声で名を呼んだ瞬間、彼の体がぐらりと傾いた。
「リカルト!」
コリーネはとっさにその身を抱きとめる。彼は苦しげに咳き込み、唇を押さえた指の隙間から、一筋の赤い血が零れ落ちた。
「リカルト……っ!」
その身体はあまりにも冷たく、儚く、今にも崩れてしまいそうだった。
そのとき、コリーネの脳裏に浮かんだのは、かつて語った空想のアイテム──『どんな願いも叶える指輪』だった。
震える手で、自分の銀の指輪を外し、リカルトの薬指にはめる。サイズは合わず、第二関節までしか入らない。
「これは……以前、話した『どんな願いも叶える指輪』よ! リカルト……絶対に、よくなるから……。だから……お願い、目を閉じないで!」
涙が視界を滲ませ、声が震える。
(今だけは……今だけは、この『ウソ』が、『真実』になってほしい……どうか……)
すると、リカルトの指がかすかに動いた。
「……きれいな……指輪ですね……」
その言葉に、コリーネは息を呑む。リカルトのもう一方の手が、彼の懐を探る。
やがて、小さな金の指輪が、その手の中から現れた。
「こ……これは……ずっと、渡せずにいました。婚約の時に、用意してたのに……。病弱で……長く生きられるかわからない僕にとって……あなたとの結婚は……ただの夢だったから……」
彼は震える手で、その指輪をコリーネの左手の薬指にそっとはめた。
瞬間、胸に熱いものがこみ上げ、涙が頬を伝う。
「リカルト……夢じゃないわ。今ここで、誓いましょう。二人だけの、小さな結婚式を挙げるの」
リカルトは微笑み、かすかな声で唇を動かした。
「……誓います……永遠に、あなたを……愛します……」
コリーネは彼の手を握り、涙をこらえながら誓いを返す。
「わたくしも、誓います。リカルト・ツェルナー。今も、これからも、あなたの隣にいます。おばあちゃんになっても、あなたと共に生きて、愛し続けます」
銀の指輪に触れながら、コリーネはそっと目を閉じ、彼の掌に願いを込めた。大粒の涙が零れ落ちる……。
リカルトが小さく息を吐きながら、かすれた声で言った。
「……泣かないで……」
そして次の瞬間──
リカルトはコリーネの腕からそっと身を起こし、胸を張るように背筋を伸ばすと、力を振り絞って声を上げた。
「ち……誓います……。リカルト・ツェルナーは、おじいちゃんになるまで生きて……コリーネを幸せにします……。彼女の誓いを、必ず真実に……真実にします!」
その声は弱々しいはずなのに、不思議と力強く、静かな部屋に響いた。
そして、力尽きたように、彼はゆっくりとベッドに身を預けた。けれどもその顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
コリーネには、彼の指にはめた銀の指輪が、ほんの一瞬、かすかに光ったように見えた。
◇
5年後。
「待ちなさい、キュリエ!」
一人の女性が、少女を追いかけながら叫んだ。
栗色の髪を揺らしながら、少女が笑い声とともに池へ向かって駆けていく。スカートの裾をひらひらとなびかせ、まるで風のような軽やかさだった。
「キュリエ、危ないわ、そこは!」
池のほとりに差しかかった瞬間、少女の足がぬかるみに取られ、バランスを崩す。
──ドサッ。
その小さな身体を、すんでのところで支えたのは、一人の青年だった。
「おっと、危ないじゃないか、キュリエ」
柔らかな金髪に、やさしいブルーの瞳。その青年──リカルトは、娘をしっかりと抱きとめながら微笑んだ。
「はぁ……ありがとう、お父さま……」
少女は胸を撫で下ろし、照れたように笑った。
追いついた女性──コリーネも息を整えながら娘を見つめ、目尻を下げた。
「まったく、もう。お転婆は誰に似たのかしら」
「お母さまでしょ」
リカルトが笑うと、コリーネはむっと頬を膨らませた。
そんなやりとりに、キュリエが無邪気な声を上げる。
「だってね、妖精さんがいたの。あの草むらに。お父さまが書いた本のとおんなじ!」
「本……?」
リカルトが首をかしげる。
「うん! 『ウソつきお姫さま』に出てくるの。湖のほとりにいる、緑の羽の妖精さん! きっとあれがそうなんだと思って、追いかけちゃったの!」
その言葉に、リカルトとコリーネはふと目を合わせた。
そして、どちらからともなく、笑みがこぼれる。
『ウソつきお姫さま』──リカルトが書いた物語の題名だった。姫の語るウソが、すべて真実になり、周囲の人たちを幸せにしていく物語。
モデルはもちろん、コリーネだった。
「妖精さんに会えるなんて、きっといいことがあるよね!」
キュリエはそう言って、ぱっと笑った。リカルトは娘を抱き上げ、陽の光の中でその頬にキスをした。
コリーネはそっと近づき、二人の手を握った。
──かつて、語った『ウソ』は、リカルトの物語の中で『真実』になった。
この手の温もりも、まっすぐ向けられる笑顔も、『ウソ』なんかじゃない。
それは、コリーネが手に入れた『真実』だった。
最後までお読みいただきありがとうございます。
誤字・脱字、誤用などあれば、誤字報告いただけると幸いです。