記録を閉じるという選択
火曜日の夜。
ナナミは自室の机に座り、いつもの観察ノートを開いていた。
そこには、ユウに関する細かな記録がびっしりと並んでいた。
表情の変化、言葉の選び方、沈黙の間――
まるで、数式のように並べられた人間の断片。
でも今、その文字列が意味を持たなくなっていた。
「私が欲しかったのは、“答え”じゃない」
ナナミは、ぽつりとつぶやいた。
「一緒に“わからない”って言える誰かだった」
その言葉が、自分の中から出た瞬間、
ナナミはそっとノートを閉じた。
翌日、科学部。
ナナミは早くに部室へ入り、棚にあるファイルをすべて整理していた。
そこへ、レンが入ってくる。
「先輩、なにしてるんですか?」
「観察資料の撤収。もう不要だから」
レンは驚いたように立ち止まる。
「本当にやめるんですか? あんなに続けてきたのに」
ナナミは答える。
その声は、いつになく静かで強かった。
「記録していたのは、関係を“保つ”ため。
でも今は、記録しなくても“感じたい”と思った」
「誤差や曖昧さを、怖がらずに向き合ってみたい。
彼と“共有”したい、そう思った」
レンはしばらく黙ったあと、目を細めて言った。
「それ、すごく非合理的ですね」
「だからこそ、今の私に必要なの」
ナナミは、閉じたノートを引き出しにしまった。
その手は、ほんの少しだけ震えていた。
でもその震えは、
はじめて“生身”の自分として、誰かに触れようとする証だった。