第十六話
その日、ユウは部室に少し遅れて入った。
ナナミとレンはすでに、資料を前に議論していた。
「ここの仮定、ベイズの更新則が甘い。
期待値処理だけでなく、文脈依存を織り込むべきです」
「でも、それだと観測誤差が大きくなる」
「そこを制御するのが“評価関数”の役割です」
淡々と、でも鋭く。
レンの口調には迷いがなかった。
それに対してナナミも、理路整然と応戦していた。
ユウは、ただ黙って二人を見ていた。
「正しさ」と「頭の良さ」だけで成立する世界。
そこに、自分の居場所は感じられなかった。
議論が一段落した後、レンがユウに話しかける。
「ねえ、ユウくん。
ナナミ先輩と話してて、論理で返されて嫌だったこと、ないの?」
「……ある」
「どうしてそれを続けてるの?」
ユウは少し考えて、答える。
「嫌だったけど――正しさだけじゃないものを感じたから」
レンは一瞬だけ目を伏せると、小さく笑った。
「それ、羨ましいな」
「私はまだ、誰かと話してて“正しくなくてもいい”って思えたことがない」
ナナミがそれを聞いて、初めて目を見開いた。
「レン」
「はい」
「あなたは、間違えた経験がないの?」
「あります。でも、そのたびに“正しくあればよかったのに”って思いました」
「それで、自分を守ってきたんです」
ナナミはゆっくりと頷いた。
「……それ、少し、私と似てる」
ユウは、二人のやりとりを見ながら思った。
この空間は、誰よりも正しい人たちが、
“正しさ”という鎧の中で、
誰にも触れられずにいる場所なのかもしれない――と。
タイトル:観察者が見逃したもの
金曜の夕方。
いつもの部室、いつもの光景。
でも今日は、ナナミの手が止まっていた。
ユウとレンが、机を挟んで静かに会話している。
「レンってさ、話してるとわかる。全部“考えて話してる”って感じ」
「そう言われること、多いです」
「でも、ちゃんと聞いてくれるから、助かる」
レンは少しだけ目を細めて、言った。
「あなたは、“否定しない”から話しやすい」
その会話を聞きながら、ナナミはふと視線を落とした。
自分がそこにいないような錯覚。
部屋の中心から、少しずつズレていくような感覚。
その日の帰り道。
ユウはナナミと並んで歩いていた。
「…最近さ、レンとよく話してるよな」
「彼女は論理が通じる。話が早い」
「そっか」
ユウは、ほんの少しだけ間を置いて言った。
「でも、俺はお前との方が、話してて“落ち着く”けど」
ナナミは答えなかった。
部室にひとり残ったナナミは、ノートを開いた。
中には、これまで観察してきたユウの記録。
反応、感情、言葉の遷移――
そのすべてが、綿密に記されている。
だが、ふと手が止まる。
「…私、なにを“記録してた”んだろう」
その夜、ナナミはふと呟いた。
「誰かを“見ている”つもりで、
私が“見られたかった”のかもしれない」
彼女が観察していたのは、
相手ではなく、
“自分が関われる証拠”だった。
でも今、その関係が“別の誰か”にも築かれつつある。
そのとき初めて、ナナミは気づいた。
自分はまだ誰とも、ちゃんと“つながれていなかった”――と。