第9話 ニンゲンの病気
ゆずは、レジナルドに隣の部屋へと案内された。広々とした部屋には、キングサイズの白いベッドが1つ。それだけだった。
「あの扉がバスルームに続いている。必要な家具は明日以降にそろえよう」
この部屋は先ほどまで、小さな図書室だった。それを急遽改装させ用意したのがこの部屋だ。ゆずが、隣室がいいと言ったから。
「広い……」
「必要なものがあれば、私かクライヴか使い魔にでも伝えろ」
「うん。ありがと」
ここで「使用人に伝えろ」などと言われていたら、震え上がっているところだった。ゆずは、聞きなじんだ名前に安堵した。
「夕餉の頃に迎えに来る。回復薬で体力を消費しているだろう。少し休んでいろ」
「うん」
レジナルドを見送って、ゆずはベッドに倒れ込んだ。ドッと疲れが押し寄せる。時間の流れは、ゆずの世界と変わらないらしい。大きな窓から傾いた太陽光が差し込んでいる。いつもなら、眠気と戦いながら授業を受けている頃だ。そんな今日を送るはずだったのに。
「シャワー、浴びたいな」
広い部屋はゆずの呟きを吸収した。主に悪い意味で慌ただしい1日だった。
「っくし! ……寒い」
疲れで身体が動かない。どうにか掛布団を手繰り寄せくるまる。瞼が重い。頭が痛い。世界が揺れている。ゆずは耐えるようにシーツを掴んだ。
日が沈んだ頃、レジナルドがゆずを迎えに来た。ノックをするが返事は無い。声をかけてしばらく待ち、もう一度声をかけて部屋に入る。視界に入ったのは、ベッドの端で丸まっているゆず。
「……眠っているのか」
ホッとしつつ起こすために近付くと、ゆずはぐったりと倒れていた。顔も赤く、呼吸も荒い。明らかに眠っているだけではない。
「ゆず?」
レジナルドは、ゆずを抱き上げベッドの中央に寝かせた。丁寧に布団をかけ、それでも起きない様子に不安を覚える。
「ニンゲンさんの様子はどうだい?」
その時、開け放ったドアからクライヴが顔を覗かせた。大きなカバンを抱え、そのまま部屋に入って来る。
「クライヴ」
「うちの子が倒れてしまってね。もしかしてと思って、ね」
セオドアが倒れることはよくあるので気にしていなかったが、使い魔となり魔力欠乏症の症状が抑えられた今、原因は他にあると考えた。そうしてたどり着いたのが1つの仮説。主人の体調が使い魔に影響するというものだ。
「ゆずはどうなっている」
「診るよ」
レジナルドの動揺をいなしながら、クライヴはベッドのヘリに腰を下ろした。ゆずの額に触れ、魔法で身体を調べ、奴隷紋の状態を確認する。
「うん、風邪だね」
「こんなに状態が悪いのに、か?」
魔界にも風邪はある。だが、丈夫な悪魔たちは基本的にかからない。しかも丈夫ゆえに咳程度にとどまる。
「原因は雨に濡れたせいだろうね」
「濡れただけでこうなるのか?」
「回復薬で体力を消費していたから、だろうけど……ここまで弱いとは」
クライヴは人間についての資料をほぼすべて記憶している。それでも想像できないほどに人間は弱かった。
「治るのか?」
「治すよ。薬も作るし、治癒魔法も開発しよう」
「そうか」
レジナルドは小さく息を吐いた。この男がそう言うのならば問題は無い。
「その間、誰もここには入れないように。ほら、悪魔が食べたくなる顔をしている」
クライヴが、ゆずの前髪を軽く撫でた。熱に浮かされじわじわと弱っていく人間は、悪魔にとって何よりも惹かれる鑑賞物だ。
「どんな悪夢を見ているんだろうね。余裕が出来たら夢を覗いてみよう」
クライヴはレジナルドの乳母兄弟だ。互いが互いのことをよく知っている。だからレジナルドは、雑談する彼を急かさない。その頭を今もフル回転で最善策を考えているのだから。
「ああ、そうだ。ニンゲンさんの血を採取させてもらうよ」
「そうか」
クライヴは、ゆずが体調を崩していると予測してここに来た。だからある程度は準備をして来ている。抱えているカバンの中身は、全てゆずを治療するためのものだ。
「食事は作り直さないといけないね。食べやすくて安全なレシピを考えておくよ」
「そうか」
カバンから注射器を取り出したクライヴは、ゆずの腕から少量の血を抜き取った。それを、薬品の入った試験管に落とす。
「今日出す予定だったメニューだけど、あれはニンゲンが食べられる物だけで作られている。念押しするけど、僕が許可した物以外は絶対に与えてはいけないよ」
「そうか」
試験管の中の、緑色の薬品が変色した。2本目の試験管を取り出し、ゆずの血を落とす。濃い緑が紫に変わる。これらの薬品は、クライヴがゆずのために作っておいた、治療薬の試作品だ。3本目、薄緑の薬は変色しなかった。
「この部屋何も無いねぇ。ニンゲンさんの衣類すら揃ってないでしょ。僕が軽く手配しておくね」
「そうか」
ゆずを起こし、それを飲ませる。ゆずは喉が渇いていたのか、無意識ながらも嚥下した。それを見届けて、クライヴはゆずを再び寝かせた。そして、思わず笑いをこぼす。レジナルドが、ずっと部屋中を歩き回っているのだ。
「忙しないなぁ、魔王様にしては珍しい」
「そうか」
「これは重症だ。レジナルド。……レジナルド。……ニンゲンはそんなに魅力的かい?」
「ニンゲンは弱い。目を離すと死ぬかもしれない」
「そうだね」
続いてクライヴは羊皮紙と羽根ペンを取り出し、魔法陣を描き始めた。
「頼られたのは私だ。責任がある」
「お堅いねぇ」
誰も覚えていない古い魔法陣を基盤に、体力を回復させる記号を描いてゆく。
「ニンゲンってどう? 食欲、性欲、あとは……支配欲、加虐欲……その他色々。どの欲が1番強い?」
「……少し考える」
「どうぞ」
軽く魔力を流すが、作動しない。2枚目の羊皮紙を取り出し、今度はセオドアの使い魔契約魔法陣を組み込む。
「こんなに幼い生き物に性欲は湧かない。だが……そうだな……加虐欲と支配欲が並んでいる」
「理性の強い魔王様でそれなら、下級悪魔は抑えられないだろうね」
少し考え、精霊界に由来を持つ魔法陣を描き足す。
「ニンゲンさんと対峙した時、喜怒哀楽で言うならどの感情が強い? 下級悪魔たちは楽しげだけど」
「喜び、だろうか。だが腹の底から感情が湧き上がる感覚は怒りにも近い」
「面白い表現だね」
魔力を流すと、魔法陣が輝いた。会話をして少し落ち着いたレジナルドにそれを差し出す。
「じゃ、これ作動させて。ニンゲンの体力を回復させる魔法陣」
「私がか?」
「レジナルドの方が魔法得意でしょ」
そう言われれば断れない。レジナルドはやっと立ち止まり、クライヴから羊皮紙を受け取って、ゆずの上に置き手をかざした。すると、陣が淡い紫色に輝き出す。光はゆずに集まり、吸収されてやがて消えた。
「……これでよいのか?」
「上出来。さっきの薬と魔法陣は急ごしらえだから、様子を見ながら追加で作るよ」
「頼む」
ゆずの顔からは赤みが引いて、呼吸も落ち着いている。魔王はやっと肩の力を抜き、クライヴの隣に腰かけた。クライヴは広げた道具をカバンに仕舞い、立ち上がる。
「僕はニンゲンさんの食事を作るよ。レジナルドは、悪魔が侵入しないように見張ってて」
「そのつもりだ」
クライヴを見送って、レジナルドはゆずの顔を覗き込む。眉が苦し気に歪んでいるが、無防備であることに変わりはない。奴隷紋に身体も精神も支配されているのに、どうして警戒せずにいられるのか。そんな彼女を、支配する権限を持っている。力で屈服させることができる。生活環境すら自分の一言で自由自在。優越感が胸に広がるが、そんなことをしたくないのも事実。
「早く目を覚ませ」
悪魔の本能が今はただ恐ろしい。理性は、慈しんでいたいと言っている。
「怒りにも似た感情、か」
クライヴに言った言葉は嘘ではない。だが、もっと適格な名前があるような気がした。