恋心に気づくのは
中庭はぐるりと渡り廊下や建物に囲まれている。ゆずとセオドアが出た時点で好奇の視線は向けられていたが、大雨を振らせたことで大々的に注目を集めてしまった。ずぶ濡れのゆずが小さくくしゃみをする。
「ゴシュジンサマ、そろそろ研究室に帰るぞ」
「う、うん」
人間のゆずでも気配に気づくほど、見物客の節操がなくなってきた。セオドアがゆずを抱き寄せ視線から庇うが、研究室の方向は既に塞がれてしまっている。
「まずいな」
ゆずから恐怖が滲みだす。偏愛の悪魔たちにこれは毒だ。強すぎる誘惑だ。そしてセオドアにとっても。
「あめ太、痛い」
「……悪い」
セオドアは抱いていた肩を離し、ゆずの頭に上着を被せた。
「濡れているが、我慢しろ」
「う、うん。ありがと」
周囲の悪魔たちがにじり寄ってくる。セオドアが何を言っても、もう届かないだろう。観衆は正気を失いかけている。
「なにごとだ」
ゆずの頬を涙が伝った時、上空からレジナルドが降りてきた。
「魔王様!」
観衆と同じように、セオドアが跪く。その様子を、レジナルドは冷たい眼で見つめていた。凍り付いたその場で、小さな影が1つだけ動いた。ゆずだ。
「っ……レジ、ナルド」
ゆずはレジナルドに抱き着き、その胸に顔を埋める。戸惑いながら、レジナルドはゆずを柔らかく抱きしめた。周囲の視線から隠すように。
「冷たいな」
言われて、ゆずは恐怖だけではなく寒さにも震えていると気付く。気付けばもう、恐怖も寒さも抑えられない。
「寒い、怖い、レジナルド」
ゆずの恐怖がレジナルドの鼻をくすぐった。喉を鳴らして、レジナルドはセオドアを見下ろす。
「クライヴの弟子よ」
「は、はいっ」
「古い派閥を黙らせるためだ。結果を残せ」
「……必ず!」
短い言葉には重みがあった。さすが、歯向ってくる悪魔をすべて力で黙らせ即位した、伝説の魔王だ。
「お前の主人を少々借りる。この場はクライヴと共に収めておけ」
「はい!」
「早いなぁ、やっと追い付いたよ」
緊張したセオドアとは正反対の、間延びした声が中庭に響く。声の主、クライヴは、跪く悪魔たちを踏みそうになりながらこちらに向かってきた。
「クライヴ。この場は任せたぞ」
「承知しました。ごゆっくり」
黙ったまま震えるゆずを抱き上げ、レジナルドが飛び立つ。見送ったクライヴはにこやかに呟いた。
「居場所が分かるように魔力は漏れていたほうが便利だけど、これではすれ違った悪魔が殺しかねない。そうは思わないかい?」
「……調節、してやってください」
セオドアが立ち上がると、周囲の悪魔も顔を上げ始めた。それを見計らってクライヴがパンパンと手を叩く。
「さぁ散った散った。君たちの好物はここにはいないよ。……使い魔になると情が移るものなのかい?」
立ち去る悪魔たちを見送って、セオドアは自分の右手を見つめた。感覚はまだ残っている。
「あいつの肩、すごく細かったんです。あと少しで折るところだった」
「なるほどね」
愛弟子の感情を前に、クライヴは研究者の目で微笑んでいた。
「ニンゲンの魅了の力、面白い」
「何か言いましたか?」
「君も今日から研究対象だ」
「まぁ、使い魔ですからね。いいデータを残しますよ」
楽しみにしているよ、とクライヴは笑みを崩さなかった。
レジナルドは少し悩んでから、震えるゆずを寝室に連れ込んだ。ここならば、誰かが入ってくることはない。ソファに座らせ、魔法で服を乾かして、それでも変わらぬゆずの様子に戸惑う。
「ゆず」
「……ひっく、ぐす……こわ、怖かった」
かける言葉が思いつかない。途方に暮れたレジナルドは、ベッドへぬいぐるみを取りに行った。クマのぬいぐるみを抱き上げ、クライヴに小さく舌打ちする。目立つ場所で魔法を使わせ、結果的にゆずの恐怖をあおった。レジナルドが助けるところまですべて計算のうちだろう。安全に魔力を収集する方法なのだろうが、このゆずを見ていたら文句の1つも言いたくなる。
「っくしゅ! ぐすん……」
「これで落ち着け」
顔に当たったふわふわに、ゆずはやっと顔を上げた。
「クマ……」
両手で受け取り、ぎゅっと抱き締める。レジナルドの奥歯が鳴る。
「ありがと、レジナルド……っくしゅ!」
「しばらくは休め。部屋を用意しよう」
「部屋……私、本当にここに住むんだね」
レジナルドは答えられなかった。ゆずが続ける。
「住むならこの部屋の隣がいいなぁ。怖くなったら、会いに来ていい?」
瞬間、レジナルドの衝動が暴れた。ゆずの唇に引き寄せられ、ギリギリのところで理性が戻る。
「……奴隷紋、上書きしておこう」
「……うん」
了承を得るようにゆっくり、ゆっくりとセーラー服のリボンをほどき、襟首をさげて手を止める。
「上を向け」
「……うん」
そしてレジナルドは、ゆずの鎖骨の下にキスを落とした。オオカミシッポが揺れ動く。
「これは、心臓の音か」
「……言わないで」
「こんなに動いて、壊れないのか」
「壊れない、から」
2度、3度と口づけを落とし、名残惜し気に身体を離す。
「不特定多数が持っていた権限を私に移した。これで3日はもつだろう」
「てことは、レジナルドがご主人様?」
ゆずがおずおずと上目遣いになる。
「不安だろうが──」
「ううん。信じてるよ」
「……そうか」
レジナルドは、無防備でか弱い生き物を前に理性を保った。