可愛いもの好きの魔王様
追われるまま走ったゆずは、やがて大きな扉の前に立っていた。厳かな彫刻の扉は、明らかに何か需要な部屋であることを表している。窓の景色は高い。「魔界」に似つかわしくない青空が近く見える。
「ニンゲンが逃げたぞー!」
「どこだー!」
どこに逃げるか考えていると、がなり声が追いかけてきた。
「ひっ」
隠れる場所など無く、ゆずは渋々重厚な扉を開けた。
扉の向こうは寝室だった。アンティークのソファ、テーブル、キングサイズのベッド、クローゼット。黒を基調としたそれらが、広々とした部屋にぽつりぽつりと置かれている。そして目を引くのが、ベッドに並べられたぬいぐるみたち。
「うわぁ……!」
クマ、ウサギ、ネコ……山積みにされたそこだけがカラフルだ。ぬいぐるみが大好きなゆずは、誘われるようにベッドに腰掛ける。
「可愛い……」
ぬいぐるみの癒しと、ベッドのふかふか。回復薬は傷を治す代わりに体力を消費する。疲れが一気に押し寄せたゆずは、眠気に逆らえなかった。
人間を召喚したこと、クライヴがそれを逃がしたこと。報告を受けた魔王は大きなため息をついた。ウシのツノとオオカミのシッポ。黒い毛先がサラサラと尖り耳を撫でる。
「お前な……」
赤い瞳が胡乱に細められた。
「魔王様にニンゲンをお見せしようと思いましてー。ね、魔王様」
執務室に連れてこられたクライヴは、片手で謝りながらウインクをした。
「……そうだな。私が呼んだ。他の者は捜索を続けろ。クライヴは残れ」
「げっ」
扉が閉まるのを見届けて、魔王が口を開いた。
「お前が好奇心で動いたことは分かった。魔力を発し続けるニンゲンを見つけるのは容易い。……報告を」
「話が早くて助かるよ。どうもニンゲンは恐怖を与え続けると、感情が麻痺してしまうらしい。僕が駆けつけた時も、危うく殺すところだった」
話題の人間は上の階辺りにいるだろう。
「お前の言う通り、拷問は危険か」
「他の方法を探すべきだろうね。……うーん……快楽とか?」
「それも加減を知らぬ者が狂わせてしまうだろう」
「そうだねぇ。孕ませて壊してしまうかもしれない」
悩ましい沈黙が降りる。しばらくして、
「あ」
クライヴが天井を見上げた。
「レジナルド。君の寝室に入ったんじゃないか?」
魔王・レジナルドは使用人にも寝室の立ち入りを許可していない。
「いい場所に逃げ込んだね、あの子」
「はぁ……。」
事情を知っている幼馴染みは楽しげに笑っている。
「ニンゲンが可愛いからって食べてしまわないようにね」
「私を下級悪魔と一緒にするな」
再びため息をついて、レジナルドは執務室を出た。
その先で、レジナルドは恐ろしいものを目にしてしまう。
「か……かわ……」
誰にも見せたくない秘蔵のぬいぐるみコレクション。それに埋もれた人間。力も身体も何もかも弱い、「可愛い」の象徴。それが無防備にも、魔王である自分のベッドで眠っているのだ。
「すぅー……すぴー……」
これを見て正気でいられる悪魔などいない。レジナルドは歯を食いしばり、手のひらに爪を立てながら、食べてしまいたい衝動を耐えていた。
「……?」
そこで、奴隷紋と首輪の上書きが消えかかっていることに気付く。このままでは、捜索している誰かが発動させて起こしてしまうだろう。それをするのは自分がいい。
「……違う。守ってやらねば」
レジナルドはそっと首輪と紋章に触れ、再び上書きをした。誰もに罰を与えられる哀れな存在。それも良いが、上書きの効果が消えるのを恐れているところも愛らしいだろう。
「……違う。もっと優しく」
思考がまとまらない。本能的な食欲が乾きとなって襲ってくる。優しくしたいのに、本能がそれを拒む。
「ん……んぅ……っ!? だ、だれ……?」
葛藤している間に人間が起きてしまった。慌てて平静を取り繕い、レジナルドは微笑んでみた。
「ここは私の寝室だ」
「え、あ、ごめんなさいっ」
ゆずは急いで降りようとしたが、疲労でヘナヘナと床に座り込んでしまう。
「回復薬は体力を消費する。おいで」
レジナルドは床からゆずを抱き上げ、膝の上に乗せた。人間の軽さと柔らかさと細さに、レジナルドは内心大暴れだ。
「私のこと、知ってる……?」
「知っているとも。ニンゲンだろう」
「……」
レジナルドの答えに、ゆずはしばらく考え込んだ。そこまで分かっていて優しくする理由は何だろうかと。この男には追っ手のような雰囲気が無い。
「私のこと、匿ってほしい……です」
「いいだろう」
「いいの?」
この人間は知らないのだ。自分が魔力を振りまき、位置を教えながら移動していることを。人間がこの部屋にいることなどとっくにバレているというのに。
「痛いこと……しない?」
レジナルドは舌を噛んで衝動を抑えた。
「……ああ。その方向で話を進めている」
「話を進めている……?」
「古い悪魔が拷問すると言って聞かなかったのだ。欠点も集まった。もう説得できるだろう」
ここまで話して、ゆずはやっと気付いた。重厚な扉の寝室、どことなく上品な口調、他の悪魔には無い威圧感、そしてこの話し様……。
「あなた、誰、ですか?」
「魔王だ」
「!?」
「急に動くな。落ちるぞ」
ゆずの身体が強ばる。だって魔王だ。恐らく悪魔のトップだ。あんなに自分を痛めつけた、悪魔の王なのだ。
「は、はなして、」
「立てないだろう」
「いや、やめて」
パニックだ。困り果てたレジナルドは、枕元のテディベアを一つ取ってゆずに抱かせた。
「ほら、落ち着け」
「……っ……はっ、はっ……」
「拷問はさせない」
「ほんと……?」
「本当だ」
ゆずをなだめながら、自分の膝でテディベアを抱えて震える人間に、レジナルドは興奮していた。
「……信じる」
「名前は?」
「ゆず。苗字は名前ぽくないから、ゆずって呼んで」
「分かった。ゆず」
呼ばれたゆずは、レジナルドの肩に頭を預けた。体力がもう限界なのだ。座っているだけで辛い。
「あなたの名前は?」
「レジナルド」
「レジナルドさん?」
「呼び捨てでいい。かつてニンゲンの地位は悪魔よりも高かった。」
「よく分かんないけど分かった。レジナルド」
重い瞼に抗いながら、ゆずの緊張がやっととけた。
「……信じてるからね」
眠りに落ちる瞬間の淡い笑みは、レジナルドの心を掴んで離さなかった。
「なるほど、これが先祖を虜にしたニンゲンという生き物か」
なかなかにやっかいな生き物だ。