魔界に召喚されました
それは、八朔ゆずのいつも通りの朝だった。
「おはよー、ママ、パパ」
「おはよう」
「おはよう。間に合うか? そんなにゆっくり食べて」
共働きの両親がバタバタと仕度をする中で、ゆずは食卓に置かれた菓子パンと目玉焼きを頬張った。
「間に合う間に合うー」
チョコチップメロンパンを半分まで胃に収め、牛乳を一気飲みしたところで、栗色の瞳が覚醒した。
「ほら、零してるわよ」
過保護気味の母親が、ジャケットを羽織りながらティッシュを差し出す。受け取って見下ろすと、胸元と膝がパンくずまみれになっていた。
「あちゃー」
「じゃ、ママとパパは行くからね。ちゃんと鍵締めて、余裕を持って、車に気を付けて──」
「もー、分かってるって。いってらっしゃーい」
「もう、聞き流さないで」
「遅刻するぞー」
渋る母親を父親が急かす。それに手を振って食事に戻る。食事が終われば中学生に見られる童顔を洗って、セーラー服に着替えて、栗色のショートヘアを梳かして、あとはカバンを持つだけだった。いつも通りの朝だった。
いつも通りの朝は終わった。ぬいぐるみと雑貨に埋もれた、片付いてはいるが物が多い部屋。その、ゆずの足元が光ったのだ。怪しい紫色の光が、ピンク基調の部屋を怪しく照らす。
「な、なにっ!?」
ゆずの視界が回り、暗転した。
ドサッと床に叩きつけられ、ゆずの意識は引き戻された。
「痛っ……な、なぁに……?」
立ち上がろうと手を付いた地面には、紫色の魔法陣が輝いていた。地下だろうか。石造りの壁には窓が無い。そして、それをぐるりと取り囲むように人影が。2メートル以上もあるものや、ツノが生えているものまで。どよめき、喝采が起こるが、ゆずには聞き取れない。知らない言語だ。
「誰? なに? ここは? 私の部屋は……?」
ゆずの不安が大きくなればなるほど歓声は大きくなる。一つの影が、恐怖で動けないゆずに近づき額に手をかざした。
「ひぃっ」
尻もちをついたゆずに合わせて影がしゃがむ。魔法陣に照らされた顔は、ヘビのようにウロコで覆われていた。ヘビ男の手のひらがゆずの頭を撫でる。すると、
「成功したぞ!」
「人間だ」
「相変わらず美味そうだ……」
「そこにいるだけでこの魔力か」
「力が満ちてくる」
「魔王様に知らせろ」
どよめきがゆずの耳にも理解できるようになった。だが、聞きたい内容のものではない。
「なに、どこ、ここ」
立ち上がることもできないまま、ゆずはヘビ男に尋ねた。ヘビ男は捕食対象を見るような目で舌なめずりしながら、しゃがれ声で囁いた。
「ここは魔界だよ。哀れなニンゲン。」
「魔界……」
「ここではニンゲンの恐怖が極上の魔力。お前は我々のエサなのさ。」
「エサ……」
繰り返すことしかできないゆずを慈しむように見つめて、ヘビ男は周囲に指示を出した。
「あれを」
すぐにカエル男が筆を持って来た。状況把握で精一杯のゆずをオオカミ男が羽交い締めにし、ささやかな胸を突き出すように固定する。腰が抜けたゆずは抵抗すらできなかった。
「え、なに、やめて、」
「これは奴隷紋だ」
「どれい」
「これでお前を縛る。せっかくのニンゲンだ。自害などさせぬ」
「やだ、しないからやめて」
ヘビ男が、筆を使ってゆずの鎖骨辺りに何かを書いた。途端、身体が重くなり、呼吸が途切れる。
「ほう、このインクはニンゲンには強すぎるらしい。”呼吸を許可”しよう」
「っ……はっ、はっ、はぁっ、はぁ」
ゆずには何も理解できなかった。呼吸を許可されるまで呼吸すらできなかった。それがなにを意味するのか、理解することを脳が拒んだ。
「思いがけない副産物だ。お前の身体はもう、お前の言うことを聞かない」
「いやっ……いや!」
「呼吸を止められるならば、その声も封じられそうだ」
「やめて、やめてよぉ……」
オオカミ男の腕は微動だにしない。ゆずは羽交い締めされたままうなだれた。その首に、透明の宝石が輝く鉄の首輪が嵌められる。歯を食いしばって屈辱に耐える姿は、悪魔の目に愛らしく映った。それはもう、食べてしまいたいくらいに。
「……これは、なに?」
「奴隷の首輪だよ。いじらしいニンゲン。使い方を教えてあげよう」
「うああああああっ!?」
予兆なく、ゆずの身体に激痛が走った。
「我々はいつでもそれを作動させられる。……恐怖は感じたかな? おっと。止めてあげようね」
「……う……ぃたい……痛い……」
この痛みを、この場にいる誰もが作動させられる。その事実が、ゆずを恐怖の淵に追い込んだ。
「いや、いや、やだぁ……」
混乱で溢れなかった涙が、柔らかい頬を伝って流れる。この場に最上級の魔力が満ちた。
「素晴らしい……」
メキ、ミシ、と周囲から音が聞こえる。周囲のシルエットが一回り大きくなり、羽交い締めの力が増した。
「これがニンゲンの恐怖か」
「いやああああっ!」
ゆずの悲鳴と悪魔の笑い声が、召喚の間にこだました。