第15話上官の素行調査
記録室内でグレンに用事を言い渡されたおれは書類仕事をしているスピネルに近づいた。特別参謀室の中は相変わらずペンを走らせる音しかしない。
「お前、休まないの?」
「……いいだろ、べつに」
頑ななスピネルをみて呆れたおれは付き合っていられないと休憩をとることにした。
思いついたのはほんの偶然だ。
目についたカップとドリッパーを食器棚から持ち出す。おれは手ずからコーヒーを淹れてみることにした。
あの仕事人間をたまにはねぎらってやろうという、ささいな思いつきだ。
淹れるための湯をケトルで沸かしている間、コーヒー豆を選びとる。棚の中身はなかなか品揃えがよく、几帳面な人間が管理しているようだった。
一種類の豆を使ったストレートコーヒーをペーパーフィルターでおとすと、味わい深い香りが広がる。頭が冴えるすっきりとした匂いを堪能しつつ、ゆっくりと残りも注ぎ込めばカップに並々と中煎りのブラックコーヒーが完成した。細かなアレンジの方は任せるにして、スピネルが席を立ったタイミングで机においてやった。
おれも自分のをすする。じっくりと広がる苦みと酸味のバランスがちょうどいい。
それからはもう一踏ん張り訓練に精を出すのだった。
◇◇◇
しかしそこから小一時間、経ってもやつはコーヒーに口をつけなかった。最初こそのどがかわいていないのかと思って見ていたが、追加のコーヒーを入れようと訪れた給湯室で目撃してしまった。
スピネルはおれの淹れたカップを持っていた。取っ手に人差し指をひょいとかけ、シンクに流されていく上出来なコーヒー。おそらく冷めきっているだろうが、それでも自信作だった。
おれは善意を溝に捨てられた気分で詰め寄った。
「なんで捨てるんだよ!?」
「私に気遣いなど不要だからな。それに飲まないなら捨ててもいいだろ」
言うに事欠いて飲まない、だって!?
つくづく偏屈なスピネルに頭が痛くなる。
こいつの人間性を疑ったおれは叫んだ。
「相手のこと労って用意したのに無駄にすることないだろ!」
キレているおれを相手にするのがめんどくさいのか、スピネルは半眼でこちらをみただけで席へ戻ろうとした。
目元には色の濃いクマを作っているのに。心配をした相手の好意を真っ向から否定するとは見下げた神経だ。とても人間業ではない。
「信頼してない人間は何をするかわからないからな」
覚えのあるような口調で責められ絶句してしまう。
「……っんで、だよ。おれは、おまえのこと……」
言いかけて歯を食いしばる。自分でばからしくなったのだ。スピネルを気にかけてこちらから歩み寄ろうとするなんて、こっちがどうかしていたと結論づける。
目当てのコーヒーさえ飲む気がわかずに給湯室から出る扉に手をかけた。
背中にスピネルの声がかかる。
「……お前が淹れたのか?」
「ああそうですよ! わるうござんしたね!」
思い切り扉を閉め、腰丈のギャルソンエプロンも投げ捨てるように机に放置した。
◇◇◇
午後の仕事でばったりかちあうとスピネルは眉を八の字にして切り出してきた。
「ダルク、さっきは……」
おれはま~たお説教かよと露骨に舌打ちをして先手を取った。
「もうお前にはコーヒーも茶も淹れてやらないから心配すんなよ、フン!」
逆上したまま宣言し、スピネルが持っていたエプロンを鷲掴みにした。
それを目の当たりにし、売り言葉に買い言葉、といった有様で斜に構えたスピネルはいう。
「こっちこそ茶をいれる係などいらん」
返された言葉にさらに激情する。腹に耐えかねてつい語調が尖った。
「おれはお茶くみ係じゃない。おまえのためにわざわざ……」、再度反論しかけてやめてしまった。
なんとなくこちらばかり意識しているようで、これでは大人のやり取りではないなと冷静になったのだ。
「何が言いたい」
それでもスピネルはムキになって聞いてくる。
「おまえの家族は大変だな。こんな嫌味なヤツが家にいたら出ていきたくもなるよ」、と。
適当にかわすために引っ張り出してきた言葉に、スピネルは言葉を失った。表情は目に見えてこわばり、指先を握りすぎて先の方は血の気が引いている。
「なんだって?」
歯ぐきをむき出しにして威嚇する番犬のように、スピネルはかつてないほどの怒りをみせてこちらに敵意をあらわにした。
おれはなんらかの失言を悟ったが、いかんせん具体的な内容が読めない。どこが地雷なのか線引きができずにはかりかねていた。
なんらかの逆鱗に触れてしまったことは空気で分かる、だが具体的にどこを訂正すればいいのか、皆目、見当がつかず、スピネルに睨まれる形となった。
「……私は、悪くない」
この言葉にカチンと来たのはおれの方だ。なんだよ、謝罪しに来たのかと思えば悪くない? 善意を踏みにじっておいてですか、へえ、そーですか。
「表にでろよ」とあごをしゃくって外を指すとスピネルは挑発的に笑った。
「そこでは都合が悪いのか?」
臆病者めといいたげなさらなる煽りにカっと来たおれは受けて立つことにした。
ちなみにそこは特別参謀室の隣の記録室だが互いに引くことはなかった。そのせいで魔法の拳と素の拳で大喧嘩をしたおれたち――結果は。
◇◇◇
鼻血まみれの乱闘が繰り広げられた記録室はひどい惨状だった。書類は散らばり、ペンは折れ、棚までそっくり倒れていたのだから。スピネルに馬乗りになって顔を殴るおれと、顎下めがけて拳を打ち上げては抵抗するスピネル。オーバーキルな攻撃のせいで意識だけを保っていたおれは、最後の一撃によりその精神までも刈り取られた。奇しくも死神に勝つことはできなかったがスピネルは倒れたおれを乗せたまま動こうにも身動きが取れなかったらしい。下手に動けば散らばった棚のガラスが食い込みかねない有様だったので。
血まみれのおれたちが発見されるとすぐに医務室へと運ばれた。珍事としてグウェル大佐にまで報告が行ったこの事件は聞き取り調査の結果、意思疎通の齟齬として内部だけで処理されたのだった。
おれたちには反省する名目で一日間の謹慎処分が言い渡され、ついでグレンによるお説教タイムが設けられた。
「ここには極秘情報も機密資料だってあるんですよ? 分かってますか、お二方!」
「はい……」
「……」
黙って正座なる姿勢を取らされるおれたち。情けないポーズをみたレニーとオーランドにはくすくすと笑われ、ドッグファイトをやらかしたことをリオンは「ナイスファイト!」とおれを持ち上げた。
「はぁ、返事はもういいです。それよりちゃんと理解してますか、紙の記録はこの先何十年も残せるんです。それをこんなにかき回して……ああもうこっちの文献までめちゃくちゃじゃないですか!」
グレンは立腹していた。どうやら几帳面にコーヒー豆のパックやカップなどの道具を揃えていたのはこの青年だったらしい。管理していた書類仕事がやり直しだと嘆き、きつい眼光をこちらにお見舞いしてくる。
「この記録だって残せるんですからね、ふたりが大喧嘩したって! きっと末代までの恥ですよ、まったく」
プンプンと怒るグレンの様子を窺い、扉側のおれは、彼が振り返った瞬間を見逃さなかった。こっそり扉を開けて頭を出す。
「ああっ!? ちょ、ダルク! まだ話は終わって……」
「じゃーなー!」
普段は温厚なグレンを置き去りに、スピネルを生贄として捧げたおれはさっそうと通路を駆け出したのだった。
◇◇◇
逃げたはいいが、その小一時間後にはきっちりグレンにみつかって、おれは訓練場の外周を走らされることとなった。ほかの部隊の目を引きながらたった一人、お仕置きを耐える。
そんな走り込みをしていたおれをほかの部隊がみつけて会話をしてきた。ついでとばかりにおれは足を止めて休憩を貪る。
「ほんとおっかないねぇ、あの軍師様」
「スピネルのことですか?」
どうやら罰を命じた相手を勘違いしたらしい。
「おお、よく名前なんて呼べるな、お前」
同情して近寄ってきた連中は普通科のやつらで、外部での訓練を終えたばかり。これから大荷物を背負って片付けに向かうそうだ。
「戦場でばったり遭遇したことがあるけど、ありゃあとんでもねぇ」
遠くの山をみながら男は思い出したようにつぶやいた。
「隊長、みたことあんですか?」
「お前っ……あーそうか新入りか。こちとら門外漢だがとにかく別格なんだよ。ぶっ放してんのがとてもおんなじ魔法だとは思えねえな」
おれはついでにとスピネルのことをさらに深堀した。
「いやどうって……よくない噂しかないぞ、おまえんとこの上官様は」と、微妙な顔をして答えられた。
「どんなですか」
「告げ口とかしないか?」
「しても別の隊なら意味ないでしょう」
「それもそうだな!」と脳筋部隊は快活に笑ってスピネルに関する噂と憶測を愉快に語っていく。
気になったおれは訓練場から足を伸ばして食堂などあちらこちらで軍師様の噂を尋ね回ってみた。どこも似たりよったりの回答だが、退役兵やら元仲間だったという者ですらみんなスピネルを畏怖していた。どうやらスピネルは軍内部でも相当な嫌われ者らしい。ザマァミロと仄暗い感情から悪態をつくが、すぐに後悔することとなった。
――それはグウェル大佐の一言をきっかけにして。
訓練場では同調して悪口を語ったおれだがなぜか自分でも引っかかっていた。ムカムカともモヤモヤとも言えない感情が喉の奥で小骨のようにひっかかっているのだ。つかえた違和感と妙な痛みに納得できずふらふらと資料室にまで足を運んだおれは大佐と出くわした。
通りかかったというグウェル大佐は喧嘩をしてスピネルにやられた顛末を知っているからなんの気兼ねもなくスピネルについて問いかけられた。あいつの悪口とともに問いかけると、しかし大佐は残念そうに苦笑を浮かべるのみ。
ふと違和感を覚えて口を開いた。
「そういえば秘書さんはいないんですね」
「別件があるからな。それに今日はあの子と会う予定も……」
ハッとした大佐は背後を振り返ると二度三度と周囲を見渡して、おれを奥の棚へと引き込んだ。
え。いきなり何だ?
目を丸くするおれに大佐は真剣な様子でおっしゃった。
「あの子は貴族の出で、本来はそれなりの地位も約束されていたんだ。人並みの夢も希望も育めるはずだった、あの子に――あれだけの力さえなければ」
そのニュアンスからなにか込み入った事情があることを察してしまった。
「あの子を可哀想と思うならどうかこのまま付き合ってやってくれ、この通りだ」
勲章や記章をいくつも佩用した大佐が、頭を下げて雑兵のおれに懇願する。
目を剥いたのはこちらだ。だが驚くまもなく大佐は語った。
私の口から話すのは違うが、と前置きして。
「あの子は望んで入隊したわけじゃない、それを覚えていてほしい。ではな」
悲哀のこもった目をした大佐は、やはり人目を気にするとじぶんが言えるのはここまでだと口惜しそうに口元をすぼめた。
言外に今の話は内密にといった様子の大佐は視線を気にしながら去っていった。だがおれはしばらく資料室から出られなかった。
◇◇◇
本部の通路を歩きながら考える。
考えこんでも、結局のところはわからなかった。
あれだけの人間が、望んで入ったわけではない?
勧誘でもないと。あの様子だとなにか……、おれの想像しえない理由がありそうだった。
目の下のくまを思い出す。仕事ぶりは一生懸命だがどうにも一枚の書類にやたらと時間をかけているようだった。そういえば事務仕事に慣れているグレンと見比べても劣るだろう。おれはスピネルの仕事ぶりをみて丁寧なやつだと思っていたが、目頭を揉んで、疲弊している様子だったとすると――……。
スピネルは妙に一心にやっていた。なにかに取り憑かれたように。そういえばおれが地雷を踏み抜いたとき、あれと絡めると何かが視えてきそうなのだが。
スピネルが冷酷に手を下していた夜天を思い出す。
かつての仲間であったフォルトゥナの死に、かなしみにくれていたあの島でのことも。
本来のスピネルは軍の連中やおれが思っているような人間とは、もしかしたら違うのかもしれない。そう、おれは思った。
到着した特別参謀室の前はがらんとしている。
視えていないあいつの真実に触れるべく意を決して近づく勇気を出すのだった。