ドブ川のほとり
下乃川と呼ばれる小さな川は、今でこそ腐敗臭に覆われた濁れた川だが、昔は清流が川魚を呼び、時には蛍なんかも見ることが出来た程だそうだ。
流れも緩やかで、所々に置かれた大石の上を子ども達が飛び回り、川を渡って対岸へと渡って出掛けたものだった。
役所。富永は暫し頭を抱え弁当に俯いていた。市内を分断するように流れる大きな川、蜂熊川の堤防整備が計画通りに進まず、上役から小言を頂戴したばかりなのだ。
次いで蜂熊川の支流となる、小さな川の拡張整備はあらかた終わり、残すは下乃川のみ。ただ、こちらも暗礁に乗り上げており、富永はどうしたものかとミートボールを箸で突き刺し口へと放り込んだ。
「加藤さーん! ……加藤清介さーん! いっしゃいますかー?」
午後、富永は下乃川の一件から片付けることにした。川幅拡張に伴う住人立ち退きが目的だ。
築百年は過ぎたであろうあばら屋は、随所に住人自ら施工したであろう修復後が見えた。庭先から変わり果てた下乃川のドブ臭い異臭が漂い、富永はすぐにハンカチで口を覆った。割れたガラスの隙間から住人の動きが見え、しばらくして玄関の扉が開いた。後頭部のみを僅かに残した老人が入れ歯を口にはめ込み、何度か噛み合わせを確かめた。
「……アンタか。何度言われてもワシは退かん」
「そう言われましても……災害対策の一環ですから」
「やるなら勝手にやれ」
「そういう訳には……」
物腰柔らかに富永はご機嫌を伺ったが取り付く島もなさそうだった。
下乃川の拡張整備計画は、加藤清介の敷地を僅かに掠めており、加藤の立ち退きがままならないならば計画も一向に進まないままだ。
築百年を越えた加藤家が川の傍に在る為に、地面を掘ることが叶わずに居る。無理に掘れば加藤家は倒壊の危険性もあった。災害対策の拡張整備で死人を出しては元も子も無い。富永にとって加藤清介は目の上のたんこぶだった。
「諦めて帰ってくれ」
これ以上加藤老人を刺激しても仕方ないと、富永は一度役所へと戻った。当然上役のお小言のおまけ付きを頂いたが、富永はいっその事と思い上役に同行を願い出た。
「うわ……ぁ……えぇー……?」
言葉にならない音が上役の口から漏れた。
剥がれしなる軒を見て、上役は家に近付く事を拒否した。
「崩れないだろうな、この家は……」
「いっその事崩れてしまった方が事が進みます」
「まぁ、な」
上役はそのあばら屋に圧倒され、しばし言葉を失した。
「またお前か! しかも今度は応援まで呼んで! 警察を呼ぶぞ!?」
「私としては警察を交えてお話させて頂けると嬉しいのですが……」
富永はチラリと上役を一瞥した。しかし上役は無の表情で居ながらにして気配を消そうと必死に見えた。
「ワシは立ち退く気などありゃあせん! 帰れ!!」
「そこをなんとか……」
「ならばワシが死ぬまで待て! 後数年じゃ!!」
「しかし予算が……」
「その様な事はワシには関係ない!!」
「万が一、下乃川が増水しますと色々と影響が……」
「よう言うわ!! 数十年前に流れを変えてドブ川に変えてしまったクセに、今度は戻すから出て行けとは勝手すぎるわい!!」
「…………」
下乃川上流の川幅減少工事がされたのが五十年前。その頃は周囲に田んぼが多かった為、田んぼをぐるりと取り囲む様に川を作り直した。その結果、田んぼへ水を多く取り入れる事が出来たが、加藤家を含む中流の辺りには水が少なくなり、ドブ川へと姿を変えてしまったのだ。
「……仰る通りです、はい」
富永は遠い目で下乃川を一瞥した。まだ水が多かった頃は沢山の子ども達がそこで遊んで居たのかと思うと、少し心が痛んだ。
「分かったなら帰れ。二度と来るな」
加藤老人が中へと引っ込むと、二人は消沈しきった体を引きずる様に役所へと戻った。
「アレは君に任せる。時間が多少掛かっても構わないから」
上役はそれっきり口を出す事が無くなった。富永は仕方なしに、しばらく様子を見る事にした。
三ヶ月後、富永は加藤家を訪れた。秋も深まり、下乃川から漂う臭いも、少しは落ち着いていた。
「加藤さーん」
富永が呼び掛けると、中で人が動く気配がした。
出て来るまでの間、富永は下乃川の大石へ目をくれた。撤去費用や処分先の話等、悩みの種は尽きそうになかった。
「……何しに来た」
「ただの生存確認です」
「ご苦労さん。難儀な仕事な事で……」
「いえ。では帰ります」
「なんだ、帰るのか?」
意外な返事に、加藤老人は少し肩透かしを食った様な顔をした。
「ええ。あ、そうだ。加藤さんの家の手前まで工事進めても良いですか?」
「……あの岩の手前までなら、な」
下乃川の大石の群れを顎で示す加藤老人。
「何故です?」
「あの石は昔から子どもや大人が川を渡るのに使ったり遊んだりしていた思い出の石だ。退かすなら上に座り込んでやる」
「危ないので止めて下さい。分かりました。石の手前までにしておきます」
加藤老人がピリついた空気を放ち始めたのを感じた富永は、引き際を弁え素早く身を引いた。
役所へ戻り工事の計画表を見直し、今年度は手前までとし、着工を進めた。
春になり、富永は加藤老人を訪ねた。
庭から見える下乃川は、大石の手前まで川幅が広げられ、雑草等も綺麗に除去された。
「加藤さーん」
富永は呼び掛けると、しばし庭を見つめた。ふきのとうが芽を出し、花を咲かせていた。
やがて動きが無い事に疑問を持った富永が再度加藤を呼び掛けるが、やはりなしのつぶてだった。
「加藤さーん?」
自然とドアへ手が伸びた。鍵は開いていた。
「ごめんくださーい……」
富永はすぐにハンカチで口を覆った。下乃川の臭いとはまた違う、腐敗が進んだ臭気が立ちこめていたからだ。
「…………」
居間。加藤老人は人ではなくなっていた。
富永はすぐに警察へ連絡し、対応を願った。死因は心臓発作だった。
「ここももうすぐ取り壊し、か」
身寄りの無い加藤老人の家は、倒壊の危険性を考慮し、取り壊しが決められた。
富永は最後に庭から見える下乃川をその目に焼き付けていた。
かつて人々で賑わった下乃川を愛した加藤老人が、どんな思いで川の変貌を見続けて来たのか。そして自らの死をドブ川のほとりで待つ事に意義を見いだし続けたその心に、富永は強く感銘を受けた。
たとえ誰もがその営みを忘れようと、知らなかろうが、自分だけはそっとその意思を受け継ごうと、心に誓った。
程なくして、加藤家は取り壊された。
加藤老人が愛した大石の群れも、撤去が始まった。
一際大きな石をよかすと、下から布に包まれた死体が見付かった。死後五十年は経過しているであろうその白骨死体は、当時行方が分からなくなっていた加藤老人の妻だと判明した。