第6章 滑車の問題
乱場は、曽根牧央の部屋の前に立ち、ドアをノックする。が、しばらく待っても何も返答はなかった。乱場は再び、最初よりも強めにドアを拳で叩き、「曽根さん」と部屋の主の名前も呼ぶも、やはり室内からの反応はない。
「……曽根さん! 曽根さん!」
ノブを掴み、乱場はドアを前後に揺するが、しっかりと施錠がされたドアは、ガタガタと音を鳴らすだけだった。
「マスターキーを――」
「どけ! 乱場!」
汐見は乱場を退かせ、代わりに自らがドアの前に立ち、膝をゆるやかに曲げて腰を落とす。そして、小さく息を吐き出すと、片足を上げ――
「とりゃ――」
「すみませ――うおっ!」
「あっ!」
鋭く突き出された汐見の足裏は、ドアを開けて飛び出てきた曽根の眼前で寸止めされた。
「ひ、ひぃっ!」
命中こそしなかったものの、汐見の蹴りの圧を受けた曽根は、その場にへたり込んでしまった。
「あっ、悪い……」足を下ろした汐見は、ぽりぽりと頭をかきながら、「いやさ、曽根さんが全然出てこないから、まさか何かあったのかなって思って、ドアを蹴破ろうと……」
「す、すみません……眠ってしまっていたもので……」
汐見が差し出した手を握り返し、床から引き起こされると曽根は、「顔を洗ってきます」と室内に戻っていった。乱場と朝霧は顔を見合わせ、安堵のため息を漏らす。
曽根を加えた乱場たちは一階へ降りると、岸長の部屋の前に立った。
乱場がノックをすると、「はい」という声が聞こえ、鍵を解錠する音に続いてドアが開かれた。
「岸長さん」顔を見せた人物の名を乱場が口にして、「よろしいですか?」
「今、行くよ」
岸長光宏は、部屋の明かりを消して、そのまま廊下に出た。つい今ほどまで吸っていたのだろう、室内から煙草の臭い漂ってきた。
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
「いや、何も……」
岸長は小さく首を振る。
「そうですか、では、行きましょう」
さらに隣の部屋のドアをノックすると、小阪井加子が顔を覗かせた。
「小阪井さん」乱場は顔を向け、「時間ですので、食堂に」
「そうでしたね……」小阪井は腕時計を見てから、「少し待って下さい。支度をしてきます」
小阪井の部屋のドアは再び閉ざされた。
身支度を調えた小阪井が部屋から出てきたことで、今夜の宿泊客全員がそろった。死体となった大瀬竜彦を除いて。
「そういえば」と先頭を歩く乱場は立ち止まり、「曽根さんと小阪井さんも、部屋にいるときに何か変わったことなどありませんでしたか?」
二人に尋ねた。乱場の隣には間中を置き、殿には汐見と朝霧を並ばせて他の宿泊客三人を挟み込む隊列を取っていた。
「いえ、さっきも言いましたが、眠ってしまっていたもので……」
「私も、何も……」
二人がすぐに答えると、「そうですか」と乱場は歩き出したが、
「ちょっと、いいかな……」
岸長から声をかけられたことで、またすぐに立ち止まった。
「何かありましたか?」
「い、いや、そういうわけではないのだけれど……。乱場くん、君、いったい何者なんだい? あ、あんな惨殺死体と出くわしたっていうのに、そんなに冷静でいられて、こ、こうして私たちに指示まで出して……。ま、まだ高校生だという話だけれど……」
岸長は困惑の表情を浮かべながら訊いた。
「まあ、色々とありまして……」
「乱場は、名探偵なんですよ」
最後尾の汐見が、乱場の濁した言葉にかぶせた。
「名探偵?」
岸長だけでなく、曽根、小阪井も、驚いた表情を貼り付けた顔で先頭に立つ少年を見た。
「ま、まあ、その話は、全員がそろった娯楽室でしましょう……」
そう言って、乱場がそそくさと歩みを再開したため、誰もそれ以上口を挟むことはないまま、七人は歩き続けた。
「有賀さん」
ノックをして乱場が声をかけると、「は、はいっ!」と甲高い声が返ってきた。解錠音のあと、ゆっくり開かれたドアの隙間から半分だけ顔を覗かせた有賀茜は、眼球だけを動かして、確認するように廊下に立つ面々を順に見やると、
「……ひい、ふう、みい……。な、七人……ひっ、ひとり足りません! だ、誰? ――こ、駒川さん! 駒川さんがいない! じゃ、じゃあ――?」
「落ち着いて下さい、有賀さん。駒川さんはこれから迎えに行くところですよ」
元々大きな目をさらに見開いて、がちがちと歯を鳴らす有賀に、乱場は説き伏せるように声をかけた。
「な、なんだ……」ふう、と大きく息をついた有賀は、「じゃ、じゃあ、問題ないわけですね。駒川さんを含めて、八人……は、八人? お、大瀬さんが、こ、殺されて、わ、私たちは九人になったはずなのに、は、八人しかいない? や、やっぱり誰かが――?」
「有賀さん、自分を数に入れるのを忘れてますよ」
「……あっ。ご、ごめんなさい……」下を向いた有賀は、しゅんと表情を萎ませてから、「し、支度をしてきますので、しょ、少々お待ちを……」
開けたときと同じように、ゆっくりとドアを閉めた。
有賀が部屋から出てきた。乱場たち宿泊客に夕食を振る舞ったときと同様の給仕服の上に防寒用の上着を羽織っている。
「お客様の前なのに、こ、こんな格好ですみません……」
震えながら頭を下げる有賀に、「いえ」と乱場は答えた。ここ、スキーロッジ深雪は廊下にまで暖房は効かないが、有賀が震えている理由は、寒さからくるものだけではないのだろう。
乱場たちは、最後のひとりとなる、管理人の駒川成一郎の部屋の前に立った。有賀の部屋前での騒ぎを耳にしていたのだろうか、乱場がノックをする前に、解錠音が聞こえてドアが開き、駒川が姿を見せた。駒川は、灰色の眉毛を乗せた双眸を、ぐるりと乱場たちにめぐらせて、
「……全員いらっしゃいますね」
安堵したように、豊かな髭をたたえた口元を緩めた。
総勢九人となった乱場たちは、娯楽室へと移動した。有賀と駒川が、暖かいコーヒーを用意すると申し出たため、汐見もそれを手伝うことにし、三人は給湯設備が備えられたカウンターへ向かった。乱場はその場に残り、岸長、曽根、小坂井の三人の宿泊客と一緒にテーブルを囲んでいた。
「ん? そういえば」と曽根が周囲を見回して、「乱場くん、君の連れの、眼鏡の女の子の姿が見えないけれど……」
「あれ?」と小坂井も、「あの、教師だという女性――間中さんだっけ――もいません」
岸長も、「本当だ」と、二人と一緒に娯楽室を見回した。
「ああ、それはですね……」
乱場がそこまで言ったとき、
「えっ?」
小坂井が動きを止めた。岸長は天井を見上げ、きょろきょろと曽根は辺りを見回し続けていたが、その行動の意味するところは、先ほどまでの朝霧と間中を探す目的とは違っていた。
「これこれ」カウンターから汐見が、「この音だよ。間違いない」
と声を張り上げた。
「音って?」と小坂井が、「もしかして、今のは?」
「そうです。間中先生と朝霧さんに頼んで、資料室で実際にギロチンの刃を落としてもらったんです」
先ほど突然、小坂井が動きを止めた理由がそれだった。ここ娯楽室に、ずしん、という重い音が微かに聞こえ、それを小坂井――も含めた室内の全員は耳にしたのだ。
「岸長さん、どうですか? 死体発見前に、ここで聞いた音と同じでしたか?」
聞かれた岸長は、何度も頷いた。
「わ、私も」と次に曽根が、「今度は、はっきりと聞こえました。あのときは、やはり酒が入っていたため、そこまで周りを気にしていなかったんだと思います」
「ええ」それに続いて小坂井も、「私も、あのときは読書に集中していたから、耳に入らなかったのかもしれません」
それを聞くと、満足そうに頷いた乱場は、
「駒川さんと有賀さんは、どうでしたか?」
カウンターにも声をかけた。
「確かに」「聞こえました」
二人がそろって返事をすると、もう一度乱場は頷いて、
「もちろん、僕にも聞こえました。ギロチンの刃が落ちることをあらかじめ知っていた僕だけじゃなくて、何も知らせていなかった曽根さんたちにも今度は聞こえましたし、あのときに音を耳に出来ていた汐見さんと岸長さんも、同じ音だったと証言してくれました。ですので、午後八時十五分に、ここ娯楽室で聞こえたあの音は、資料室のギロチンが落とされた音であることに間違いはないと見ていいでしょうね」
そこへ、廊下から足音が近づいてきて、
「どうだった? 乱場くん」
間中、朝霧の二人が合流した。
「ありがとうございます」と乱場は頭を下げ、「皆さんに確認が取れました」
「よかった。頑張った甲斐があったわ」
「そ、そうですね……」
涼しい顔で笑みを浮かべた間中とは対照的に、朝霧は額に汗を浮かべ、荒い息を吐いていた。
「どうした? 朝霧」
その様子を見た汐見が、水を注いだコップを手に、怪訝な顔をして近づくと、
「ど、どうしたもこうしたもありませんよ。あのギロチンの刃、重さが六十六キロもあるんですよ。間中先生と二人がかりで、や、やっと持ち上げたんですから……」
汐見からコップを受け取ると、ぐいぐいと水を飲み干した。
「六十六キロって、お前、わざわざ計ったのかよ? あの部屋に重量計なんてあった?」
「計算したんですよ。いいですか、あの刃は、横60センチ、縦40センチで、厚みが3.5センチありました。つまり、60掛ける40掛ける3.5、イコール、8,400立方センチメートルの体積があります。それに、鉄の比重である“7.85”を掛けるとですね、65.94キログラム、ほぼ66キロと、こう導き出せるわけです」
「……ああ、そういうことね」
納得したような言葉とは裏腹に、汐見が見せる表情には、どこか空虚なものがあった。
「こういう力仕事は、本来は汐見さんの役割なんですよ」
「そうは言うがな、朝霧。私はあのとき聞いた音が、間違いなくギロチンの刃が落ちる音だったかどうか、ここで確認するという任務があったからな。お前が音に気付いていればよかったんだ。ま、確かに私なら、六十六キロ程度の重さ、楽勝で持ち上げてみせるけどな」
「それは無理ですよ」
「どうして? お前、私が体育授業の柔道で、百キロ近くある男子を投げ飛ばしたことがあるのを知らないな。『獣翼豪王制す』とはこのことよ!」
「イントネーションからして、何か言葉を間違って憶えていらっしゃるんだと思いますけれど……それとこれとは話が違いますよ。失礼ですが、汐見さんの体重は?」
「おま……かよわい女子に体重を訊くか?」
「かよわい女子は百キロある男子を投げ飛ばしたり出来ません。では、六十六キロよりも、上ですか? 下ですか?」
「下に決まってるだろ」
「では、やはり無理ですね」
「だから、どうして?」
「いいですか。汐見さんが柔道で百キロもある相手を投げ飛ばせるのは、両足を床に付けることで、反力を得ることが出来ているからです」
「プロレスなら、五カウント以内なら許される」
「それは“反則”です。汐見さんもご覧になったのでお分かりでしょうが、あのギロチンの刃はロープで繋がれて、そのロープは台の柱頂点にある滑車を通してあります」
「そうだったな」
「つまり、これは、滑車の軸が固定されている、いわゆる“定滑車”の構造をしているわけですよね」
「お、おう……」
「定滑車というのは、中学校で習ったとおり、力の向きを変える役割しか果たしません。機械的倍率は1のままなので、定滑車の持ち上げられる側――作用点側――に提げられている重量が66キロならば、それを持ち上げようとする側――力点側――には、66キロを超える物体を提げる必要があるわけです。つまり、汐見さんがいかなる馬鹿力の持ち主であろうが、体重が66キロ以下である限り、どんなに力を込めてロープを引いても、ギロチンの刃は絶対に持ち上がらないと、こういうわけなのです」
「……」
「恐らく、汐見さんの腕力を持ってすれば、地面に置かれた66キロ程度の荷物は軽々と持ち上げてしまえるでしょう。ですが、今回のような定滑車の場合、汐見さんがいくらその腕力を駆使したとしても、ギロチンの刃はびくともしないで、逆に汐見さんのほうがロープを上っていくという結果になるだけなのです。だから、汐見さんがあのギロチンの刃を持ち上げようとするなら、足を地面に接着してしまわなければなりません。そうすれば、66キロの物体を持ち上げるだけの反力を得られますから」
「……あ、そういうことね。完全に理解した」
腕組みをして頷く汐見の表情は、やはり空虚なそれのままだった。