最終章 死闘の果て
汐見と岸長は、三メートルほどの距離を挟んで相対していた。
汐見が右足を引き、同時に両拳を上げる。対する岸長は、両手持ちにした刀を構え、その鋭い切っ先を汐見に向けた。両者が立つのは、娯楽室に敷かれた細長い赤い絨毯の上。それはさながら、二人のために設えられた戦いの舞台の様相を呈している。
「汐見さん……」荒い呼吸を交えながら、間中が、「無茶よ……あいつとやり合うなんて……相手は……プロの殺し屋……」
「間中さん、喋っては駄目です」
小坂井が、間中の体を抱きしめた。乱場も駆け寄り、出血に染まる小坂井の上着の上に、自分の上着も重ねる。
「乱場さま」
駒川が、床に両手をついて泣きじゃくる有賀を支えつつ、自分もジャケットを脱いで乱場に差し出すと、
「わ、私も……」
曽根も羽織っていたブルゾンを脱ぎつつ、間中の足下にかけた。
「みんな……ありがとう……」
「喋らないで下さい」
乱場に念を押されたが、間中は汗に濡れた顔で微笑むと、
「なに……これくらいで死にはしないわよ……でも……ごめんね……」
「どうして先生が謝るんです」
「私が……もっとしっかりしていれば……あいつが……あんな得物を持ち込んでいたなんて……」
「自分の聴取が終わったあとに持ち出してきて、僕たちが資料室で話をしている隙に、あのテーブルの下に仕込んでいたんでしょうね。テープで貼り付けて……」
「乱場くんが……推理で……自分を追い詰めるだろうと……予見していたってことね……したたかなやつだわ……うっ……」
「先生……!」
「乱場くん……」
伸ばされた間中の手を、乱場は握り返す。震えが、乱場にも伝わってきた。
――馬鹿なやつだ。
岸長――と名乗っている殺し屋――は、目の前に立つ女子高生を見て笑みを浮かべた。
徒手空拳で刀と渡り合おうとするとは……加えて、こちらはプロで、向こうはズブの素人。まあ、このまま座して死を待つよりは、という気持ちは理解できなくもないが……。
このまま斬り込むことにするか。素人相手に、向こうの出方を待つまでもない。
両脚に力を込め、一気に踏み出すための体勢を整える。勝負は一瞬で決まるだろう……そろそろ、行くか――と、先に汐見が動いた。床――正確には、その上に敷かれた絨毯――を蹴り、岸長に向かって跳び上がってきたのだ。
――所詮、素人だな。
岸長は内心ほくそ笑んだ。空中に跳び上がっての攻撃。ゲームや漫画の中ならいざ知らず、そんな攻撃手段が現実に通用するわけがない。
実戦において空中に跳び上がることは最大の悪手だ。翼などの揚力を得る手段を持たない人間は、一度宙に跳んだが最後、もはや自分の動きを制御することは不可能となる。出来るのは、地面を蹴った力と、跳び上がる角度によって決定された放物線上を移動することだけ。その線上に攻撃を叩き込むのは容易いことだ。
岸長は刀を水平に構え直した。野球のバットスイングの要領で刀を振り、飛び込んでくる汐見の腹部を一文字に斬りつけてやろうというのだ。腹部を通り抜ける刀身が背骨に上手く入れば、胴体が真っ二つになるかもしれない。そうなれば、巻き散らかされた臓物をまともに浴びることになるが、それも一興だろう。残るものたちに最大限の恐怖を与える効果が得られ、あとの仕事がやりやすくなる。少なくとも、先ほどの眼鏡の女子高生がしたような、逃げ出そうという気力は完全に削がれるに違いない。
考えている間にも、汐見の体は放物線の頂点に達した。
――お嬢さん、学校ではどんな力自慢なのか知らないが――実際、かなりの跳躍力だ――これはそういうレベルの話じゃないんだ。さようなら。
岸長は腰を沈め、刀を振る――振ろうとした、その瞬間――地面が揺れた。
――汐見さん!
朝霧は、床に敷かれた絨毯を掴み、力の限り引いた。
汐見がジャンプした直後、絨毯を引いて岸長を転倒させる。これが、間中のそばにいたときに小声で汐見に伝えた作戦だった。逃げようとしたのは見せかけ。朝霧の目的は、自分がこの位置――ドアの前、絨毯の端――に来て、かつ、汐見と挟み込むようにして、岸長をこの絨毯の上に立たせることだった。
作戦は上手くいった……ように見える。事実、自分が絨毯を引いたことで、バランスを崩した岸長は、たたらを踏み、今にも転倒する寸前だ。あとは、前のめった岸長がうつ伏せに倒れたところをめがけて、汐見が急降下爆撃のように蹴りを叩き込むだけ。それが決まれば、岸長に致命的なダメージを与えられ、汐見の戦闘力を持ってすれば、そのまま敵を制圧することも可能なはずだ。
……だが、朝霧の胸中に不安がよぎる。なぜなら、たたらを踏みつつも、岸長はまだ倒れていない。危うい体勢ながらも立ち続けている。驚異的なバランス感覚。これが、プロの殺し屋の身体能力? さすがに……相手が悪かったのか?
地面が揺れたのではなく、絨毯が後方に引かれたのだ、と岸長が理解するのに時間はかからなかった。完全な不意打ち。転倒してもおかしくはなかった。が、岸長は耐えた。さすがにここで倒れてはまずい。確かに空中に跳び上がることは、実戦においては愚の骨頂だが、場合が場合では事情が異なる。このまま自分が転倒したら、まったく無防備な背中――いや、狙うは首か――に、重力を加勢につけた相手の蹴りが叩き込まれることになる。そんな一撃をくらってしまっては……。
岸長は耐えた。絨毯は完全に引き切られたらしい。靴底の感覚が柔い絨毯から、固い床のそれに変わった。転倒は免れた。顔を上げる。汐見がもう、すぐそこまで迫ってきていた。刀を振るにはすでに間合いが近すぎる。いったん後方に飛び退いて、着地したところ――あるいは着地する寸前――を斬りつけるのがいいだろう。どの道、それで終わりだ。
――倒れなかっただと?
作戦は失敗した……のか? 汐見は思った。どうする。空中で軌道の修正など出来るわけがない。このままでは、自分は体ごと岸長に突っ込むことになる。その前に、岸長は後方に飛び退くか? そうなってしまっては……。
これしかない――! 汐見は空中で両脚を突き出した。
飛び退こうとした岸長が、床を蹴る一瞬前だった。
汐見が岸長を捕えた。両脚の太ももでもって、岸長の首を挟み込んだ。そのまま――背筋力を駆使して汐見は仰け反った。床に両手を突いて反力とし、両脚で挟み込んだ岸長を後方に投げる。
床に突かれた汐見の両手を軸として半回転させられた岸長は、絨毯が取り払われた固い床の上に、したたか脳天を打ち付けることとなった。
鈍い音――岸長の頭頂部が床に叩きつけられる音――がした。
腹ばいの汐見は、すぐさま起き上がると、うつ伏せになっている岸長の背中に飛び付いた。両脚で胴体を締め、両腕は首に絡ませる。喉元に食い込んだ長くしなやかな汐見の腕は、岸長の動脈、気管をも塞ぎ、脳への血液と、肺への酸素の供給を同時に断った。さらに力を込める。体を捻る。最初こそ岸長はもがくような抵抗を見せていたが、いつしかそれも感じなくなった。
どのくらいの時間が経過したのだろうか……。一分か、二分か、あるいは、まだ数秒しか経っていないのかもしれない……。
「……汐見さん! 汐見さん!」
朝霧の呼ぶ声が聞こえる。
「汐見さん! 汐見さん!」
どうした? 朝霧。
「もういい! もういいですって!」
何が、いいんだ?
「それ以上やると、死んでしまいますよ!」
死ぬ? 誰が? ――あっ!
汐見は両腕両脚を離した。立ち上がり、一瞬前まで自分が締め付けていた相手を見下ろす。拳を上げ構えを取った汐見だったが、もうその必要はないのだと判断し、ゆっくりと両拳を下ろした。
ぴくりとも動かない岸長は、口から泡を吹き、完全に失神していた。
「か……勝った、のか?」
「凄いです! 汐見さん!」
「うわっ!」
飛び込んできた朝霧の小柄な体を、汐見は受け止めた。汐見の胸の中で顔を上げた朝霧は、
「凄いです!」
「お、おう……」
「私、実戦でフランケンシュタイナーが決まるの、初めて見ました!」
「まず、そこかよ!」
乱場たちによって、両手両脚を固く縛られた岸長は、翌日の朝に到着した警察の手に引き渡されるまで、娯楽室の床に転がされることとなった。
「岸長のスマホに、大瀬さんを殺害した映像が残っていたそうよ。やっぱり、乱場くんの推理どおりだった。大瀬さんの胸をナイフで刺して殺し、その死体から日本刀で首を斬り落とすまでが撮影されていたって。その映像の送信先のアドレスから、殺害の依頼主も特定できたわ」
病院のベッドの上で、リクライニングで上半身を起こした間中が言った。
「そうですか」
見舞いに訪れた乱場は頷いた。その隣には、汐見、朝霧の姿もある。
「その依頼主が、大瀬さんを殺してほしかった理由っていうのは、分かったんですか?」
汐見が訊くと、間中は、
「ええ、何でも、依頼主は、大瀬さんの元恋人のお兄さんだったそうよ。大瀬さんは、その恋人と付き合っている最中に浮気をしていて――しかも、何股も――それが原因で元恋人は心を病むようになってしまい、とうとう自殺してしまったそうなの」
「その復讐として……」
「取り調べによると、依頼主は妹の仇を討とうと、自分で大瀬さんを殺すつもりでいたのだけれど、いざとなると怖くて、どうしても実行出来なかったって。そんなとき、『もしも、“殺し屋”がいれば……』って思って調べてみたところ……」
「本当に殺し屋――Kが存在していることを知って、大瀬さんの殺害を依頼したということですか」
「そうなの。それで、依頼主は、せっかく殺し屋に頼むのだからと、大瀬さん殺害に際して条件を付けたの。それが、自殺した妹の命日までに殺すこと」
「じゃあ、その命日というのが?」
「ええ、私たちがロッジに到着した日だったってこと。だから、岸長は、プロの殺し屋の沽券に賭けて、どうしてもその日までに大瀬さんを殺して、さらに、依頼主に“確実に大瀬さんの命を奪った”という証拠映像を送る必要があったのよ」
「はあ、そんな事情があったんですか」
「その依頼主も当然、殺人教唆の容疑で逮捕されたけれど、警察が踏み込んでいっても全然抵抗しなかったって。仇を討てたことを妹の命日に報告できて、岸長に感謝している、というようなことを供述してたくらいだって」
「ははあ……」
「それにしても、汐見さんには助けられたわ」
「いえいえ……もとはと言えば、私が不用意に机の裏を覗き込もうとしたのが原因だったんですから……あれがなければ、日本刀を取り出させる隙も与えないで、間中先生は岸長を制圧できていましたよ」
そう言って頭をかく汐見に、間中は、ううん、と首を横に振って、
「朝霧さんにも」
対岸長の作戦立案をした朝霧にも、礼の言葉を述べた。
「上手くいって、よかったです」
微笑んだ朝霧に、笑みを返した間中は、その笑顔を乱場に向けて、
「乱場くんも、ありがとう」
「いえ……」
「ごめんね、妹の名前を騙って、あなたのことを利用したりして。改めて、お詫びさせてもらうわ」
「そのことは、もういいですよ……それよりも、傷の具合はどうですか? 間中先生――じゃなくって、間中さん」
「……それがね、あまりよくないみたいなの」
「えっ?」
「でもね、治す方法がひとつだけあって……好きな人に添い寝してもらうといいんだって」
「そ――そんなわけないじゃないですか!」
手首を掴まれ、ベッドに引き込まれようとした乱場は足を踏ん張る。汐見と朝霧からも、乱場の腕を掴んで抵抗されたことで、ようやく乱場の手を離した間中は、
「ふふ、ごめんね」
と笑みを浮かべた。
「まったく……」汐見は、ベッドの上の間中を見て、「先生という自覚を持って下さい」
「あら、私は教師じゃないのよ」
「ああ、そうか」
「そうか、じゃありませんよ、汐見さん……」
はあ、と朝霧はため息をついた。
こうして、スキーロッジ深雪で起きた、凄惨な殺人事件は、乱場たちの活躍により解決を見た。
高校生探偵、乱場秀輔の行く手には、こののち、恐るべき犯罪組織との対決が待ち受けているのだが、それはまた別の物語なのである。




