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第32章 惨劇の足音

 ポンプの音に関する証言の他にも、実は岸長(きしなが)は、もうひとつ、(らん)()に対して失言をしてしまっている。それは、個別聴取の際、『私が本当に貿易会社に勤めているか確かめたくて、英語を話させたのですか?』と乱場に対して尋ねたことだ。この時点では乱場は、“事件の犯人が一般人を装った殺し屋である”ということは誰にも公表していない。乱場が疑っていたのは、あくまで殺人行為という行動に対してのものだけであったというのに、“自分の身分まで疑っているのか?”とまで突っ込んでくるのは、明らかに蛇足であり、“猜疑心の飛躍”ともいうべき発言だ。岸長のこの発言は英語で成されたため、乱場はその内容を聞き取ることが出来ずにスルーされてしまっていたが、乱場にもっと英語のリスニング力が備わっていたのであれば、この発言を聞いたことにより、岸長に対して強い疑いを抱けていたはずである。もしも、岸長がさらに犯行を重ねようとするタイプの犯人であったならば、乱場は、ノーマークの岸長にさらなる凶行を許してしまっていた可能性が高かった。駒川(こまがわ)との聴取の際に、「探偵に必要なのは、知識ではなく知恵」という見解が出たが、ときには知識が大きく推理に寄与すること――ひいては人の命を救うこともある。世の中には、知恵ではなく専門的な知識を持ってしなければ解決できないタイプの不可能犯罪を仕掛けてくる犯人、そして、それに対抗する特定分野に特化した探偵もいる。あらゆる分野にアンテナを張り、様々な知見を身につけておくことも、名探偵には必要なことなのだろう。


「みなさん」


 ()(なか)が立ち上がった。彼女が座っていたのは、テーブル席の角、岸長の真横だった。全員――岸長以外――の目が集まったことを確認すると、間中は、


「今、乱場くんが披露した推理のとおり、(おお)()さんを殺害した犯人は、この」と、隣で項垂れている男を見下ろして、「岸長さんです」


 改めて、一同の中にざわめきが広がる。視線を皆に戻した間中は、


「今から私は、岸長さんを拘束しますが、それについて、何も異論はありませんね。これは、殺人犯の動きを封じるという、正当な理由によって成される行為であることを了承していただけますね」


 確認を取るように、ぐるりを見回した。


「こ、拘束って……」(あり)()震える声で、「ど、どうして、間中さんが?」

「そうでした」と懐に手を入れた間中は、「私、こういうものです」


 取りだした警察手帳を開示した。


「えっ?」「警察官?」「やはり、教師じゃなかった……」


 曽根(そね)、駒川、()(さか)()は呟き、有賀は口を両手で覆って目を見開いた。岸長も、それを聞くと伏せていた顔を上げた。


「わけあって、身分を隠していました。私は、警視庁公安部公安第二課所属、巡査部長の間中麻冬です」


 顔を上げた岸長と目を合わせた間中は、


「抵抗しても無駄よ。あなたが大瀬さん殺害に使った凶器――刃渡り十数センチほどのナイフ――を所持しているんでしょうけれど、そんな程度のもの、私には通用しないわよ」


 間中の口から「凶器」という言葉が漏れると、有賀は、ひぃっ、と小さな悲鳴を上げて、椅子から立ち上がった。


「みなさんも」と間中は、岸長から目を離さないまま、「離れて下さい。この男は危険です」


 椅子の鳴る音が連続した。駒川と曽根も立ち上がり、小坂井もソファから腰を浮かせていた。


「き、危険って、間中さん……」曽根が、岸長と間中を交互に見て、「岸長さんは、いったい何者だというんですか……? そ、そもそも、彼が大瀬さんを殺した動機も、(らん)()くんは話してくれませんでしたけれど……」

「動機ですか」間中は、ため息をついて、「強いて言えば……金、ということになりますね」

「か、金? ということは、強盗殺人?」

「違います。岸長さん――どうせ偽名でしょうけれど――は、殺し屋なんです」

「は――はぁ?」

「私は、“殺し屋とその標的がこのロッジにいる”という情報を得て、潜入捜査のために来ていたんです。先ほど、乱場くんが推理の中でたびたび口にしていた“私の行動に対しての事情”というのは、すべてこれに起因しています。私は、犯人と標的が誰であるかの手がかりを求めて、ロッジの中を捜索していたんです。

 岸長さんが大瀬さんを殺した動機は、そういう依頼を受けたからというものです。個人的な恨みや怨恨、その場で金品奪うといった、本人に直接的な動機を持って殺したわけではないのです。乱場くんが言った、大瀬さんの首を切断して、その写真なり動画なりを送信したというのも、依頼主との契約だったのでしょうね。確実に殺した証拠を送れ、とでも言われた公算が高いです。……思い返せば、昨日の夜、大瀬さんの死体を発見して、乱場くんが110番通話をしている途中に電波が途切れてしまったとき、岸長さんは、『間一髪だった』と口にしていたわ。あれは、乱場くんが通報したことに対してじゃなくて、自分が殺人の証拠動画を送信したタイミングのことを言っていたってことね。恐らく、大瀬さんを殺す期限というのが、昨日中だったんでしょう」


 今度はざわめきも起きなかった。殺し屋などという、あまりに非日常的な単語を耳にしたためか。


「ふ、ふふっ……」岸長の口元から笑いが漏れた。「やられたな。まさか、おまわりだったとはね。しかも、公安とは……。もしかして、その探偵もお前が仕込んだのか?」


 岸長は、乱場に向けてあごをしゃくった。


「答える必要はないわ。両手を出して、頭の後ろで組みなさい」


 間中は、テーブルの下にある手を出すよう、岸長に促した。が、岸長はその指示に従わない。


「……どうしたの? もしかしたら、いつの間にか取りだした凶器を、テーブルの下で握ってるのかしら? でも、さっきも言ったけれど、そんなもの通用しないわ。かえってあなたが怪我するだけよ。大人しく従った方が身のため――やめなさい!」


 テーブルの下を覗き込もうとした(しお)()の行動を、間中が諫めた、その瞬間――岸長が立ち上がった。同時に、空気を切り裂く音とともに白刃がきらめいて――


「――先生!」


 汐見は叫び、有賀と小坂井の悲鳴が響き渡った。立ち上がった岸長の手には、確かに凶器が握られていた。が、それは大瀬の胸に突き立てられたものではなく、首を斬り落としたほうの凶器だった。八世(やま)()浅右衛門(あさえもん)吉亮(よしふさ)の使用品と謳われている、ひと振りの日本刀。その刀身の一部は赤く染まっている。飛び散った間中の血は、テーブルも濡らしていた。

 仰向けに倒れた間中に、汐見、朝霧、小坂井が駆け寄った。小坂井は着ていた上着を脱ぎ、血に染まる間中の胸にあてがう。ベージュの上着が、徐々に赤く染められていく。


「咄嗟に身を引いて、致命傷は免れたか。だが、まあ、その傷じゃあ、俺とやり合うのはもう無理だな」


 見下ろす岸長は、そう言って笑みを浮かべた。


「てめえ――!」


 立ち上がりかけた汐見の手首を、間中が握った。


「汐見さん……駄目……」


 荒い呼吸を交えながら間中は言い、首を横に振った。間中に手首を握られながら、自分を睨み付けてくる汐見を、ふん、と一蹴した岸長は、


「こうなったら、仕方ない」自分を取り囲む顔を、ぐるりと見回すと、「予定変更だ」

「変更って……?」


 震える声で訊いてきた曽根に、冷たい笑みを向けると岸長は、


「……皆殺しだ」

「え、ええっ?」


 曽根はのけぞり、有賀は悲鳴を上げて泣き出した。


「仕方ないだろう」至って冷静なもの言いのまま、岸長は、「俺の正体がバレてしまったんだから。お前たち全員、死んでもらうしかない」


 握る日本刀をひと振りした。刀身から払われた間中の血が床に飛び散る。泣きながら有賀は、また悲鳴を上げた。


「逃げられない」

「なに?」


 声をかけてきた乱場に、岸長が向いた。


「明日には、警察がここに到着する。それまでは雪崩が唯一の道を塞いでいる。どこにも逃げようがない」

「だから、無駄な殺生はするなと? これ以上罪を重ねるなと? まあ、激情に駆られて殺人を犯した素人相手なら、そんな説得も通用するかもしれないが、あいにく俺は違うんでね。まったく……大瀬を殺したら、そのまま車を奪って夜中にここを抜け出すつもりでいたんだが、雪崩で足止めをくってしまうとは予想外だった。それならば、こうなった以上、警察の到着を大人しく待って、どさくさに紛れて逃げ出すことを考えていたんだが――いざとなれば、おまわりを二、三人ぶっ殺してでもな――まさか、名探偵なんていう人種が居合わせて、俺が犯人だと特定してしまうとはね……予想外の重ね塗りだよ」


 岸長は、自嘲気味に笑みを浮かべた。


「だ、だからって……」と震える声で曽根が、「ど、どうして、私たちまで殺されてしまわないといけないんですか……」

「正体が知られた以上、お前たちが俺のことを放っておくわけがないだろう。俺のことを縛り上げて、到着した警察に突き出すはずだ」

「わ、私たちに、そんな真似ができるわけが……」

「ただでさえ多勢に無勢なうえ、俺の不意を突けば可能だろう。俺だって眠くなれば寝るしな。まさか、お前たちに不意打ちをさせないため、寝ずの番をしろとでも言うのか? 御免だね。俺は睡眠はしっかり取るタイプなんだ。だから、この場でお前たちを皆殺しにして、ゆっくりと安眠したいのさ。到着した警察が、死体だらけのロッジの惨状を見て動揺してくれれば、逃げ出すことも容易くなるしな」

「し、しません! あなたを縛り上げるだとか、寝ているところを襲うとか、そんな大それた真似、絶対にしませんから……」

「信用できるわけないだろう」


 岸長は、涙ながらに懇願する曽根を一笑に付した。


「じゃ、じゃあ……」と、なおも曽根は、「わ、私たちを縛り上げるか何かして、あなたに手出しできないようにして下さい。それでもいいでしょう……?」


 岸長は一瞬、考慮するような表情を浮かべたが、


「面倒だな。殺したほうが早い」


 その返答を聞くと、曽根は、ひぃっ、と乾いた悲鳴を漏らす。有賀は崩れ落ちて泣きじゃくり、その肩を支える駒川の手も震えていた。間中の胸に当てられた小坂井の上着は、すでに半分以上が真っ赤に染められ、その上着を傷口に押し当てる小坂井の頬も涙で濡れていた。朝霧は、汐見にぴたりと体を寄せて俯いている。その朝霧の肩を抱く汐見の目は、まっすぐ岸長に向けられていた。

 皆の様子をゆっくりと見回した岸長は、


「恨むなら……そこの乱場くんを恨むんだな」


 視線を乱場に転ずる。


「そもそも、乱場くんが事件の謎を解いて、犯人を暴き出すなんて余計な真似をしなければ、お前たちは死なずに済んだんだ。俺の仕事は大瀬を殺すことだけだから、他に被害者が出るわけがない。お前たちの安全は保証されていたんだ。それを台無しにしたのは乱場くんだ。偶然――かどうかは知らんが――居合わせた乱場くんが、余計な首を突っ込んで、見事に事件の謎を解いてしまったせいだ。犯人が俺だと看破してしまったせいだ。つまるところ、ここにいる全員が皆殺しにされるのは、名探偵の乱場くんに責任があるということだ。――そうだ、乱場くん、君ひとりだけは、助けてやってもいいぞ。自分が得意げに推理を披露して、犯人を特定してしまったせいで、二人の先輩を含む七人もの人間を死なせてしまうことになった。いまどきの名探偵なら、これくらいの“名探偵の業”のひとつも背負っていないと様にならないだろ。……そうだな、ただ助けるだけじゃなくて」岸長は、刀の切っ先を乱場の右目に向け、「君の目をひとつ貰うというのはどうだ。謎を解くたび、事件を解決するたびに、失った片目が疼くんだよ。今の時代、名探偵の業に加えて、そんな突拍子もない属性のひとつも身につけていないと、あまたの名探偵たちの中に埋没してしまうぜ。乱場くん、君はこれから、隻眼の美少年探偵、ってキャラクターでやっていけよ。もちろん、なくした片目には、いかにもそれっぽいデザインの眼帯を付けてな。君が生涯懸けて追うのは、自分の片目を奪い、名探偵の業を背負わせた、この俺だ。いかにも読者受けしそうな因縁じゃないか。俺はこのあと海外に高飛びするんだが、数年後、また君の前に帰ってきてやるよ、それが、君が手がける最後の事件になるってわけさ。いいプランだと思わないか?」


 岸長は、にやりとサディスティックな笑みを浮かべる。乱場はひと言も口を挟まず、突きつけられた切っ先越しに、岸長の目を見返し続けるだけだった。――次の瞬間、朝霧が立ち上がった。床を蹴り、そのままドアに向けて走ったが――


「動くなっ!」


 岸長の一括を背中に浴び、ぴたりと足を止めた。


「何を考えている? お前たちに逃げ場など、どこにもない……」岸長は、おもむろに足を踏み出し、「朝霧さん、だったか。まず、お前から殺すことにする。かわいい名探偵の後輩に、華々しく散る最後の姿を見せてやれよ――」


 ドアの目前で立ち尽くしている朝霧は、振り返ると、敷かれている赤く細長い絨毯の上に尻餅をついた。投げ出された脚が震えている。岸長も、その絨毯を踏みしめて、ゆっくりと朝霧に詰め寄る。そこに――


「岸長ぁっ!」


 今度は、岸長の背中に声が浴びせられた。足を止めた岸長が振り向くと、拳を握り、射るような視線を突き刺し、仁王立ちした汐見の姿があった。

 岸長と相対した汐見は、深く息を吸い込んでから、叫んだ。


「私が相手だっ!」

次回、最終章!

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