第26章 おいしい天然水
全員への聞き取りが終わり、乱場も食堂へ戻ると、有賀が皆にコーヒーを振る舞っているところだった。例によって、デカンターに入ったものを各がカップに注いで飲む形をとっている。
岸長、小坂井、曽根の三人は、午前中のゲレンデと午後からの聞き取りで、顔に疲れの色が見えたため、夕食までの時間、自室で休むこととなった。当然、トイレに行く際などは十分注意を怠らないことを確認する。駒川と有賀は夕食の準備に入る。岸長に、「乱場くんはどうするのかな?」と尋ねられると、
「僕は、資料室に行きます」
乱場は答えた。
「また現場検証?」
小坂井が感心したような、呆れたような声を投げた。
「はい。警察が到着するまで、できる限りのことはしておこうと思いまして」
乱場が答えると、汐見、朝霧、間中の三人も乱場に同行することになった。宿泊客たち三人が食堂を出て行き、従業員二人は厨房に姿を消す。食堂に乱場たち四人が残されたところに、汐見が、
「あの中に……」ここで若干声を潜め、「犯人……殺し屋がいるんだよな」
廊下への出入口と、厨房を続くドアを横目に見た。
「私たちが執拗に現場検証をすることに対して」朝霧も小声になって、「快く思っていないのは確かでしょうね。もしかしたら、資料室に来て、私たちの邪魔をするという可能性も……」
「いえ、それはないでしょう」と乱場は、「さっきの聞き取りと同じことです。そんな真似をしたら、自分が犯人だと公言しているようなものですよ。犯人は、余計なことは一際せず、じっと時間が過ぎるのを待っているんです。雪崩が撤去されて、自分がここを脱出できるようになる時期を」
「そろそろ、行きましょう」
間中の声で、四人は食堂を出て三階資料室を目指した。
昨夜の死体発見時、今朝の駒川、有賀を伴っての確認に引き続き、三度、乱場たちは資料室に足を踏み入れた。事件発覚前に見学に来たときを入れれば、これで四度目となる。
照明を灯し、カーテンを開ける。今朝もだが、大瀬の死体が痛むことを考慮して暖房は入れない。
「さっきまで暖かい食堂にいたから、今朝来たときよりも冷えが堪えるな……」
汐見が両手をさする。
「まったくですね……ブルル」
と朝霧も体を震わせる。
「で、今度はどこを調べるの? 乱場くん」
資料室内を見回して間中が訊くと、乱場は、
「今度は現場を調べると言うよりも、皆さんから聴取した内容を加えて、もう一度、事件について推理をしてみたいと思うんです。暖房の効いた客室でもいいんですけれど、何か確認したいことが出てきたら、ここのほうがすぐに現状を見られますので」
「そういうことね」
「だったら、乱場、こんなだだっ広くて寒いところよりも、あっちに行こうぜ」汐見は、資料室奥にあるドアを指さして、「あの部屋にはストーブもあっただろ」
資料室へ入り、スイッチを入れた電気ストーブを四人が扇状に囲む中、乱場が、
「聞き取りを終えて戻ったときの、皆さんの様子はどうでしたか?」
「別段、変わったところはなかったわよ」
「ああ、むしろ、前よりリラックスしてる感じにも見えたな」
「ですね、乱場さんと差しで話しをしたことで、気分転換になったのではないでしょうか」
間中、汐見、朝霧が、それぞれ順に感想を述べた。
「まあ、乱場さんとの席は斜向かいでしたので、厳密に言えば『差し』ではありませんけれど」
「どうでもいいよ」
朝霧の細かい指摘に汐見が突っ込む。
「乱場くんのほうでは、何か有益な情報は聞けたの?」
間中が尋ねると、
「有益はどうかは分かりませんが……」
と前置きした上で、夜中――有賀の証言によれば午前一時過ぎ――に聞こえたという、ポンプの駆動音のことを話した。
「あのポンプの音が鳴ったのは、一時頃だったのですか」
この四人の中で、唯一ポンプ音を耳にしたと証言する朝霧が言った。
「でもよ、それが何か事件に関係あるのか?」
との汐見の疑問に、乱場は、
「事件に直結するのかどうかは分かりませんが、おかしいことは確かです」
「どうして?」
「だって、朝霧さん、岸長さん、有賀さんと、三人もの人が音を聞いたと証言しているのに、その肝心の『自分がポンプを動かした』と名乗り出た人がいないんですよ」
「確かに」
「ポンプが勝手に作動するはずはありませんので、音がした以上、必ずポンプは動かされていて、ポンプが動いた以上、それを操作した人がいるはずなんですよ」
「なのに誰も、自分がやった、と言ってこない」
「はい。僕は聞き取りで、ポンプの音を聞いていないという人にも、夜中に何かなかったか、と尋ねました。なのに、“実は夜中にポンプを動かした”という証言は誰の口からも聞かれませんでした。ということは、ポンプを動かした人には、そのことを人に知られてはならないという意識があるから言えなかった、と考えるより他にありません」
「言えない理由っていうのは……」
「そうです、事件に関係があるからです。すなわち……ポンプを動かした人が、殺人犯……殺し屋K……」
「にしても、何だって犯人は、わざわざ夜中にポンプを動かしたりしたんだ?」
「そこに、この事件を解決する鍵があるんじゃないかと……」
乱場が考え込み、四人の間に沈黙が生まれたところに、
「体が暖まったら、喉が渇いたな」
汐見がストーブの前を離れ、ウォーターサーバーに向かった。紙コップを取り、栓を捻ると、タンクから吸い上げられた水が吸水口を通って注ぎ込まれたが、コップの半分も満たさないうちに水の供給は止まってしまった。
「あれ?」
「汐見さん、タンクが空になったのでは?」
朝霧の指摘どおり、サーバー下部の蓋を開けて見てみると、セットされたビニールタンクは空になっていた。それを見た汐見は、やれやれ、とサーバー横に置かれた棚を開き、中から水で満たされた換えのタンクを持ち出すと、現在セットされている空のタンクと交換した。改めて栓をひねって水を注ぎ足し、紙コップを口に付けた汐見だったが、
「……ん?」
数口飲むと、コップを口から離してしまった。
「どうかしましたか? 汐見さん」
その様子を見た朝霧が訊くと、
「なんだか……味が違うな」汐見は怪訝な目で紙コップの中を覗き込み、「昨日飲んだときは、まさにミネラルウォーターって感じの、もっとまろやかな味だったんだよ。昨日というか、このロッジで飲む水は全部同じものだから、みんなも飲んでみれば違いが分かると思う」
どれどれ、と朝霧たちもストーブから離れ、サーバーの水を口にした。
「……確かに」
「違うわね」
ひと口、水を飲んだ朝霧と間中は、互いの顔を見て頷き合った。
「だろ」と汐見は、もう一杯水を注いだ紙コップを口に付けると、「さっきよりも、味の変化が激しい」
「ということは」朝霧は視線を下げ、「今、汐見さんが交換した、この新しいタンクの中身が、今までの水とは違っているということになりますね」
「そうか、さっきのは半分くらい、交換前のタンクの水が混じってたから」
汐見は、もう一度水を注ぎ、口に運んだコップを傾け、一気に飲み干そうとしたが、
「――んがんぐ!」急に喉を鳴らし、「かはっ!」と何かを吐き出した。
「産まれた?」
それを見た朝霧が叫ぶと、
「産まれてねえよ! 私はピッコロ大魔王か! 水の中に何か混じってたんだよ!」
なおも、げほげほ咽せながら、汐見は自分が吐き出した小さなものを拾い上げた。それは、
「……なんだ、これ?」
「アクセサリー……イヤリング、ですか?」
朝霧と一緒に、それを凝視する。朝霧の言葉どおり、汐見が吐き出したものは、真珠を模した洒落たデザインのイヤリングだった。
「それ!」汐見の摘まみ上げたイヤリングを指さした乱場は、「そのイヤリング、小阪井さんがなくしたものですよ!」
「あ! 昨日の昼に、そんなことを言ってましたね! でも、小坂井さんがイヤリングを紛失したのは、ゲレンデで滑っているときだったはず……」
「正確には、なくしたのはロッジの周りでだそうです。先ほどの聞き取りで思い出して証言してくれました」
「そうなのですか。それにしても、ロッジの周りで落としてしまったはずのイヤリングが、どうして汐見さんのお腹の中から」
「朝霧! 違うだろ! この水タンクの中に入っていたに決まってるだろ!」
「冗談です。ともかく、おかしいですよ」
「そうだな……」
「乱場さん、どう思いますか?」
汐見が摘まむイヤリングと、それが混入していた水タンクとに交互に視線を送っていた乱場は、給湯室の棚を漁り、何かを取りだした。
「それは、ビニールロープですね」
朝霧の言うとおり、乱場が手にしたものは、荷造りなどに使用される一般的な白いビニールロープの束だった。ロープの径は10ミリで、ひと巻き100メートルとあるが、その量から見て、すでに半分ほどの長さが使用されている。
「朝霧さん」
「は、はい?」
ビニールロープを持ったまま、乱場は声をかけ、
「みなさんの体重を書き留めたメモを、見せて下さい」
「は、はい……」
朝霧は手帳をめくって、該当するページを乱場に開示した。
乱場:45キロ
汐見:49キロ
朝霧:37キロ
間中:50キロ
岸長:62キロ
小坂井:52キロ
曽根:70キロ
駒川:67キロ
有賀:51キロ
手帳を見ると、次に乱場は、
「この水タンクの容量は、いくつですか?」
「5リットルだ」
その質問には汐見が答えた。
「5リットル、水の比重は1だから、満タンだと5キロ……。ギロチンの刃の重量は、何キロでしたっけ?」
「66キロです」
朝霧が答えると、
「ここにある換えタンクの中の水を、全部調べて下さい。他に、中身の水の味が変わっているタンクがあるかどうか」
「お、おう」
汐見たちは協力して、棚に入れてある水タンクをすべて取り出し、中の水を飲み比べていった。
「……他の水に異常はない。水の味が変わっているタンクは、さっき私が交換した、そのひとつだけだ」
汐見が、サーバーにセットしてある交換されたばかりのタンクを指さすと、
「そうですか……」
呟いた乱場は、僅かな沈黙を挟むと、給湯室を飛び出した。
「お、おい、乱場……!」
汐見を先頭に、三人もその背中を追う。
資料室にそびえ立つギロチンの先端を見上げた乱場は、後方に垂れ下がったロープ、その環状になった先端、五つのレバーが並ぶ切断装置へと視線を移動させ終えると、北側に位置する窓際まで走り寄った。上下可動式の窓を引き上げ、顔を出して眼下を覗く。下には、二階の窓、一階の窓、地面と続き、僅か数十センチの幅しかない地面の向こうは断崖絶壁となり、遙か直下は湖となっている。
ゆっくりと窓を閉めた乱場は、汐見たちに振り向くと、
「犯人……Kが誰なのか、分かりました」




