第22章 小坂井の聴取
それから程なくして、小坂井が娯楽室に姿を見せた。
「来ましたよ」
そう言いながら小坂井は、乱場が何も言わないうちに、先ほどまで岸長が座っていた椅子に腰を下ろした。
「すみません」乱場は、ぺこりと頭を下げると、「さっそくですが、何か思い出したことなど、ありませんか? 事件に直接関係のないことでも構わないんです。何か、気付いたこと、気になったことなど」
「そうですね……」こめかみに指をあて、しばらく虚空を見つめていた小坂井は、「……ありません」
視線を乱場の目に戻した。
「そうですか」乱場は、落胆した様子も見せず、「小坂井さんは、洋服店に務めていっしゃるそうですね」
「私、探偵くんにそのことを話しましたっけ?」
「ああ、いえ、先輩方から……」
「ああ、そういうことですか。お風呂でのお話が探偵くんに伝わっていたんですね。あれは体のいい情報収集だったというわけですか」
「すみません」
「別に気にしていません。それに、あの女子高生二人に、お風呂で話を訊きにいかせたというのは、ファインプレイだったと思いますよ」
「それは、どういう?」
「私、探偵くんに――というか、男相手にだったら、あんなに話をしなかったと思いますから」
乱場は、朝霧がヴァージョンアップした滞在者名簿の小坂井の欄に、「過去の経験から男嫌いの可能性がある」という記載があったことを思い出した。
「その反応。私が男の人を苦手にしているということも、聞いていますね」
「あ、は、はい」
「でも、だからといって、女の人が好きというわけじゃありませんからね」
「は、はいっ……」
若干、頬を染めて返事をした乱場に笑みを浮かべて、小坂井は、
「知りたいですか? 私の過去のこと」
「い、いえ、話したくないのであれば……」
「話してもいいというなら、聞きたい?」
「そうですね」
「私に興味があるんですか?」
「あ、は、はい……」
「……嘘ですね」
「えっ?」
「探偵くんが私の過去を知りたがっているのは、私が犯人じゃないかと疑っているからでしょう」
「それは……」
「私が自分のことを話している中で、何か犯人と特定するような情報を漏らしてしまうんじゃないかと、そういうことを期待しているんじゃないですか?」
「そ、そういうわけでは……」
「別に、やましいことがあるわけでもないので、話してもいいのですけれど……」
「けれど?」
「事件にはまったく無関係な、退屈な恋愛話を聞かされるだけですよ」
「それでも構いません。事件に――」
「――関係するかしないかは、こちらで判断しますので。そう言いたいのでしょう?」
「そ、そのとおりです」
「ごめんなさい。からかっているつもりはないのですけれど。でも、それは分かっているのですが……やはり抵抗がありますね」
「なぜですか?」
「だって、もしも、この事件が小説化された場合、私の証言も全部文章になって掲載されて、不特定多数の読者の目に晒されることになりますよね。それは、さすがに」
「い、いえ、関係者のプライバシーには当然配慮がされますし、仮名にしても構いません。それに、事件に無関係な事柄なのであれば、ばっさりカットするのが普通です。それに、この事件が小説になると決まっているわけじゃないのですから」
「それも分かっています……でも、やっぱり拒否します」
「はい、それは個人の自由ですから」
「それに、こういう事件で活躍する名探偵なら、関係者の証言を鵜呑みにしたり、そんな胡乱な情報をもとに推理を組み立てたりはしませんものね。探偵くんも、ここで起こった事実だけを材料にして、事件を解決してくれるんでしょう?」
「そうできるよう、努力します。そのためにも、ご協力をお願いします。何か変わったこと、少しでも気になったことなど、ありませんでしたか?」
テーブルに手を突いて乱場が身を乗り出すと、小坂井は、記憶を探るように視線を斜め上に向けていたが、
「……やっぱり、何も思い浮かびませんね」
「例えばなんですけれど……昨日の夜中に目を覚ましたりとか、そういったことも?」
「ありません。私、睡眠は深いほうなので、多少の物音がしたくらいでは目を覚ますことはありませんから」
「そうですか」
「昨夜、何かあったのですか?」
「ああ、いえ、あくまで例えばの話です。それ以外でも、なにも?」
「はい。朝食のときに、みなさんで話しあったことがすべてです」
「そういえば、イヤリングは見つかりましたか?」
小坂井は首を横に振って、
「思い返してみると、イヤリングが片方なくなっていることに気づいたのは、昨日、夕暮れになってロッジ前に戻ってきた直後だったのですが、その直前にゲレンデを滑っていたときには、付いていたように思うんです。だから、ロッジ周辺に戻ってきて、ゴーグルを外した際に落ちてしまったものかと思って、今日の午前中にもロッジの周りを少し探してみたのですが。結局発見できませんでした」
「そうですか」
「残ったほうのイヤリング、見ますか?」
「あ、はい」
乱場が返事をすると、小坂井は懐からイヤリングを取りだして、手の平に載せた。真珠を模した白い装飾品が付いているだけのシンプルなものだった。
「この色合いでは、雪の上に落としてしまったら容易には見つからないでしょうね」
乱場はテーブルの上に身を乗り出して、手の平に収まったイヤリングに視線を落とした。
「そうですよね。でも、まあ、昨日も言いましたが安物ですから。別に惜しくはありません……」
そう言って小坂井は、乱場の顔を見つめる。
「……どうかしましたか?」
小坂井の視線に気付いた乱場が訊くと、
「探偵くん」
「はい?」
「あの、間中っていう先生と、何かありましたか?」
「はぁ? な、何をいきなり……」
「だって……」小坂井は、テーブルに上に乗り出している乱場の頭に、自分の顔を近づけ、くんくんと鼻をひくつかせると、「間中さんが付けている香水の匂いがします」
「ええっ?」乱場は、テーブルに突いていた手を離し、「さ、先ほどまで、間中先生にも話を訊いていたので、そのせいかと……」
勢い椅子に座り直した。が、間中はイヤリングを懐にしまうと、
「間中さんも、この席に座っていたんですよね」
「も、もちろんです」
「この距離で会話をしているだけで、移り香するとは思えません」
「そ、そうなんですか?」
「一番最初の質問どおり、私の仕事の話をしましょうか。私、勤務先は洋服店と言いましたけれど、正確には、服だけじゃなくってアクセサリーなども取り扱っている、ある個人デザイナーのブランドショップなんです。説明するのが面倒だから、たいていは『洋服店』と言うだけで済ませているんですけれどね。そのショップでは香水も扱っていて、私、主にその香水を担当しているんです。ですので、香りには敏感なんですよ」
「そ、そうだったんですか……」
「はい。私の経験上、かなり――ほとんど接触するくらいに――距離を詰めなければ、ここまで移り香するということはないと思うんです」と、今度は小坂井のほうがテーブルに両手を突き、乱場に顔を寄せてきて、「間中さんと二人きりのときに、何かあったんですか?」
「な、何もありません……けど……?」
若干震える乱場の返事に、小坂井は何も答えず、目を見つめたまま、
「嘘ですね」
「ほ、本当です……」
「いいえ、探偵くんは嘘をついています。私、この仕事は長いので、お客さんとの会話の中で、この人が本当に購入意欲があるかどうか、ある程度判断できるんですよ。つまり、口ではいくら『いいですね』と言っていても、それを買ってくれる気があるのかどうかを見極められるんです」
「す、凄いですね……」
「男の人ほど、わかりやすいです」
「へ、へえ……」
「あと、男性って、こういうことに呆れるくらいに無頓着ですよね」
「こ、こういうことというのは……?」
「女性から移り香することとか」
「……」
「私、匂いには敏感なんですよ」
「香水のご担当だから……」
「それもありますけれど、前の彼氏と別れるきっかけになったからです。あんなに香水の匂いをぷんぷんさせて、私が気が付かないとでも思ってたの? 馬鹿なんじゃないの?」
「ぼ、僕に言われても……」
「私の見立てではですね」
「は、はい……」
「この移り香の量からして、かなり接近して会話を交わしたという程度ではありませんね」
また小坂井は鼻をひくつかせて、乱場は、その嗅覚から逃れようと椅子ごと体を引く。
「キス」
「――はっ?」
「キスしましたね、間中さんと」
「ち、違……」
「香水だけじゃなくて、口紅の匂いも混じっているのが証拠です」
「うっ」
「恐らく、探偵くんの性格から考えて、間中さんから迫られて、頬にチュッとやられたのではないですか?」
「……」
「沈黙は肯定と見なしてよろしいですね? ……悪い人ですね。生徒に対してそんな破廉恥なことをするなんて、教師の風上にも置けません」小坂井は、顔を引いて再び椅子に座り直すと、「教師の風上に置けないというか……あの人、本当に教師なんですか?」
「……えっ?」
俯いていた乱場は顔を上げた。
「私、お店で仲良くなった常連さんに高校教師がいて、その繋がりで教職の方と何人か会ったことがあるんですけれど、そういう人たちとは全然雰囲気が違います、あの間中さんは」
「それは……間中先生が、養護教諭だからじゃないですか……?」
「しかも、彼女ひとりだけ、アリバイがはっきりしていませんよね」
「え、ええ……」
「怪しくありませんか?」
「そ、そうかもしれません……」
「疑っていますか? 先生のことを」
「い、いちおう……」
と答えた乱場の瞳を、じっと覗き込んで小坂井は、
「……本当ですか? 手心を加えているんじゃありませんか?」
「そ、そんなことは……」
「探偵くんの身内だから」
「だ、断じて、そんなことはありません。ぼ、僕だって、身内……慕っていた人が犯人だった、という事件に遭遇したことも、ありますから……」
「じゃあ、探偵くんは、このロッジにいる全員を、分け隔てなく疑っているということですね?」
「……はい」
「私のことも?」
「そ、それは、もちろん」
「……わかりました。私のほうから教えられる情報は、もうありませんけれど」
「あ、は、はい。で、では、曽根さんを呼んできて下さい」
はい、と立ち上がり、出入口に歩いた小坂井は、ドアの手前で足を止めると、
「ああ、ひとつだけありました」
「えっ?」
「探偵くんに教えられる情報が」
「な、なんですか?」
立ち上がった乱場に、小坂井は、
「先ほど、口紅の匂いもした、というのは嘘です。鎌をかけてみたんですけれど、図星でしたか」
「……」
「ああ、でも、香水の匂いがしたのは本当ですよ。あまり近寄られると、あの先輩方にも気付かれるかもしれませんから、よく匂いを落としたほうがいいと思います。では」
小坂井が部屋を出ると、乱場は窓を開け、吹き込んできた冷風を体いっぱいに浴びた。




