私の思う「言葉の力」「言葉の怖さ」
penは剣よりも強し、という話ではありません。
いきなり、例え話で恐縮ですが、ここに4人の男性、それぞれABCDがいるとします。
4人はある女性について話していて、唐突にAが道端の野花を見て「花ってきれいだよな」と何となく呟いたとしましょう。
Bは自身の好きな花を思い浮かべて、「そうだな」と返しました。
イベント好きなCは花見の桜を想像して「確かに」と返しました。
Dは話が続いていたと取り違えて「件の女性の鼻ってきれいだよな」と思い違いをしたまま、「うん、きれいだよな」と肯定の意思をしめしました。
はっきり言えば、この4人は共通の認識を得られていないわけですが、然れど、この4人はお互いに共感を得られたと納得するでしょう。
同じ言語を話しているとき、私達はその言葉に共通の認識があると錯覚していますが、その繋がりは緩く、不確かなものです。ですが、「共通の認識がある」という思いによって、通じてないのに通じる。または通じているのに通じていないということが起きるんですね。
話しが噛み合わないとその場で気付ければいいですが、上記のように齟齬がそのままになってしまうこともある。
上記の例など笑って済ませられるケースですが、笑って済ませられないこともある。
個人が簡単にネットに発信できる世の中になり、そんなことは言っていない、そんなつもりはないことで非難され、炎上することもありますね。
例えば冒頭のAの呟きが「あそこに咲いてる花ってきれいだよな」なら、もう少し4人の間の齟齬は小さくなったと思いますよね。その一方で、「きれい」という修飾表現にたいして、各々が感じる違いは依然として存在するわけです。
私達は会話によるコミュニケーションのさい、同じ言語であれば共通の概念を共有できると思っていますが、それは思い込みでしかなく、実際には、僅かな繋がりを元にして出し手、受け手双方が理解したと錯覚しているに過ぎない訳ですね。
それでも、その思い込みによってコミュニケーションが成立する。その思い込みの力が「言葉の力」であり、「言葉の怖さ」だと思うんです。
なるべく正確に自分の思いを伝えようと言葉を重ねれば、認識を共有できる範囲は広がる反面、齟齬が生まれる範囲も広がるんですね。
赤く花弁が小さい花と言えば、ただ花というより、正確に伝えたい花のイメージは共有できますが、赤や小さいという言葉のイメージによって、また違った齟齬が発生するということです。
言葉を正確に伝えることも、正確に受け取ることも、非常に難しく、だからこそ、「だろう」という思い込みに頼るのは危険ですね。
伝わるだろう、わかるだろうではなく、伝わるだろうか、と踏みとどまること、こうだろうと決め付けずに踏みとどまること、そして、認識の違いに丁寧に応え、相手の言葉を何度も反芻すること、こうしたことが必要だと思います。
何よりも、言葉には限界があるのだと受け入れて、他者の思いに想像力を働かせていくことが肝要なのだと思うんです。
小さなお子さんの拙い言葉に、精一杯、想像力を働かせる瞬間のように、相手にたいして理解する心を開いていたいと思いながら、中々、うまくいかなくて、言葉って難しいなと努力しています。
想像力を働かせることも、時には相手の思いを理解する妨げにもなる。それはバイアスがかかることで素直に聞き入れることができなくなるからですね。
心の中は覗けない歯痒さですよね。
言葉には、人を生かす力も殺す力もある。
たった一言の何気ない言葉で人生を左右されることもある。そんな言葉の難しさを作品を投稿するたびに痛感し、反省し、それでも止まることの出来ない自らの業を赦し受け入れて下さる皆様に今日も感謝を申し上げます。