3 おしゃべりな黒猫
強い風が吹いた。
リーシャはそれを掴むと、シルフィが魔力を上乗せする。
体は綿毛のように風に乗りあっという間に小さな丘を越えていく。
大きな岩を駆け登り、小さな川を越えて、幾つかの山を越える。
するととても弱々しい精霊の気配に気付いた。
気配を辿っていくと集落があった。
点在する建物は材木を組み上げた簡単な作りで、どの家も壁や屋根が崩れている。
恐らく今は誰も住んでいないのだろう。
人の気配は無いが、先程の精霊の気配は確かにある。
その気配を辿ると、屋根も無くなり野晒になった残骸の中。
積み上げられた小さな石の傍で黒猫が横たわっていた。
「半精霊か…」
精霊は肉体を持たない。
半精霊とは長く生きた動物や物が肉体を持ちながら魂が精霊へと昇華したものだ。
リーシャはぐったりとした黒猫を抱き上げた。
魔力を殆どを失いその存在自体が消えかかっている。
「間に合えば良いが…」
リーシャは抱きかかえた黒猫へ魔力を注ぐ。
淡い光は黒猫の全身を包んだ。
「…う、うぅ…にゃ」
ぴくぴくと猫耳を震わせると黒猫はゆっくりと瞼を上げる。
輝く翡翠色の瞳がリーシャに向けられた。
「どうやら間に合ったようだな」
「…お姉さんが…魔力をくれたにゃ?」
黒猫が問うとリーシャは優しく微笑む。
「ああ、わたしの魔力が馴染むか分からないが…」
黒猫は眼を潤ませてリーシャの胸に飛び込んできた。
「ありがとうにゃ!お姉さんは命の恩人にゃ!馴染むどころかお姉さんの魔力は極上にゃ!!」
リーシャは胸に埋もれた黒猫を抱きとめる。
ごろごろと喉を鳴らす黒猫。
何故こんな所にいるのか分からないが寂しかったのだろうと、庇護欲を掻き立てられたリーシャは優しく小さな体を撫でた。
「げへへ」
すると可愛らしかった黒猫の手つきが何となく不快な動きをキャッチ。
リーシャは怪訝な顔をして首根っこをつまんで引き離した。
黒猫は残念そうな表情を見せたが、すぐに「にゃん」と可愛らしい声で出して愛らしい顔を作った。
ふむ、怪しい。
「あ、怪しくないにゃ!
寂しかっただけにゃ!僕は前のご主人がいつもこうやって抱き締めてくれたから、ついにゃ!」
リーシャの心を読み取ったのか黒猫は必死に両手をぶんぶんと振りながら眼をうるうると潤ませて小聡明く可愛い仕草をみせる。
「人と契約していたのか?」
「そ、そうにゃ。僕は王都の商人の娘と兄妹のように育って、半精霊になってからその娘と契約してたにゃ!」
「それで何かやらかして解除されたか」
「ち!違うにゃ!エルフのお姉さん!」
「ふむ、エルフではない。ハイエルフだ」
「にゃにゃんと!お姉さんはハイエルフにゃ!伝説にゃ!幻にゃ!」
「興奮し過ぎだ」
今までリーシャを含めハイエルフが里から出た者は数える程しかない。
生まれてから死ぬまで里の中で過ごす者が殆どだったから。
「にゃ、一生会える事にゃんてにゃいと思ってたから興奮したにゃ」
黒猫はぶら下げたままだが落ち着きを取り戻した。
「改めて、僕は猫の精霊ケット・シーにゃ」
ぶら下がったまま優雅に右手を胸に当てて挨拶のポーズをする黒猫。
「わたしはハイエルフのアルティリーシャナンララだ。リーシャで良い」
「リーシャ様にゃ。素敵なお名前にゃ!その美しく輝く艶やかにゃ黄金色の髪、突き抜ける夏空のようにゃ紺碧の瞳、薄いピンク色の小さくてプルんとした唇、にゃによりその白い柔肌はまるで……」
ケット・シーは鬱陶しい程よく喋る。
「世辞はいらん。で、契約解除された訳では無いのに何故こんなところで魔力を使い果たしていたのだ?」
「にゃ…そうにゃ、その商人の娘はカティアというとても優しくて良い子だったにゃ。僕はその家でずっと飼われていて、カティアを妹みたいに、娘みたいに可愛がっていたにゃ。」
ケット・シーは少し悲しそうに項垂れる。
「カティアは魔力は少なかったけど治癒魔法が使えたにゃ。小さい頃に病気で母親を亡くしたから喜んでたにゃ。これで誰かを救えるかもしれないって。でも治癒院や教会で働けるほど魔力は無かったからカティアは親の商会を手伝いながら、お客や知り合いをたまに治癒してたにゃ。僕はその頃普通の猫の寿命を迎えたけど、カティアは僕に魔力をくれたにゃ。それで僕は精霊ケット・シーになったにゃ。だから僕はカティアと契約して今度はカティアの少ない魔力を補助して僕の魔力をあげてたのにゃ」
カティアの事をを語るケット・シーは誇らしげだ。
「でもある日、商会が取引をしてた商品が届かなかったにゃ。
何でもその村で病気が流行ったとかにゃ。商会にはその村出身の娘がいたにゃ。娘はカティアと仲良しだったにゃ。
治癒院や教会に村の治療の派遣を頼んだらしいけど人手が足りないとかで断られたって訊いたにゃ……
娘は村に残した両親が心配でどうしても帰りたいって…カティアは止めたけど泣いてる娘をほっとけなくてにゃ。カティアは親に内緒で冒険者の護衛を雇って2人でその村へ向かったにゃ……それがここにゃ」
ケット・シーは瓦礫とかした建物に視線を落とした。
「村は見ての通り小さい村で医者もいなくてにゃ。村人の半分は病気に罹ってたにゃ。カティアはすぐに治療したにゃ。でも魔力が少ないから一日で治療出来る人数は限られてて、僕が魔力を渡しても全然足りなかったにゃ。
そしてカティア自身も病気になって治療出来る人がいなくてこの村は誰もいなくなったにゃ…」
「…カティアは…」
「ここで眠ってるにゃ」
「……そうか」
ケット・シーの視線の先には小さな石が積まれていた。
そこはさっきまでケット・シーが倒れていた場所だった。
「お前はずっと護っていたんだな……」
「……カティアが最後に救おうとした場所にゃ。せめて魔物や動物に荒らされたくなかったにゃ…」
崩れ落ちた建物はきっと一年や二年ではこうならないだろう。
ケット・シーは恐らく数十年、ここに侵入者が入れないよう結界を貼り続けたから魔力を枯渇し消えかけていたのだろう。
「それで、お主はまたここで結界を貼り続けるのか」
「…カティアがここにいるから…」
《もういいのよ、キール》
それは本当に弱々しく微かな声。
カティアが眠るという小石が積まれた場所にゆらゆらと蜃気楼のような少女がいた。
「…カティア?」
《キール、ありがとう。私が死んだ後もずっと傍に居てくれて》
「何で…今までずっと見えなかったにゃ」
ケット・シーの大きな瞳が揺れる。
カティアは苦笑いを浮かべた。
「お主の結界は強すぎて外からも中からも出る事を防いでいた。悲しみに囚われて気づけなかったのだろう」
リーシャの言葉にケット・シーは大粒の涙を零した。
「カティア、ごめんにゃ。ごめん…」
カティアは優しい笑みを浮かべて首を横に振った。
《ううん…キールがずっと居てくれて嬉しかったのよ》
「でも…でも…」
《この村のみんなも死んだ時苦しくて悲しくて辛かったけど、キールの結界の中はとても暖かくて優しくてそんなの忘れて眠っていたのよ》
「カティア」
《猫ちゃんありがとう》
すると次々と村の住人だった魂が現れた。
《ありがとうな》
《何で俺がって思ってたのに猫ちゃんの結界の中はあったかくてさ》
《そうそう》
《気持ち良くてゆっくり眠らせてもらったよ》
《本当にありがとう》
《悪霊にならなくて良かったよ》
病気で苦しんで亡くなった村人達は皆穏やかな表情をしていた。
《キール、みんなあなたに感謝しているわ。本当にありがとう》
カティアはケット・シーを愛おしそうに撫でていた。
《でもずっとここにいる訳には行かないと思うの》
「そんな……」
ケット・シーは縋るようにカティアを見上げた。
「良ければわたしがみんなを送ろう」
リーシャがそう言うと《お願い、します》とみな頭を下げていた。
「リーシャ姉さんおねがいしますにゃ」
ケット・シーも頭を下げた。
「お主達の魂が迷わぬ様に精霊達の導きを」
ケット・シーは結界を解いた。
リーシャは静かに魔力を拡げる。
【風に紡がれし白頭】は古代竜だから魂の還る場所を知っていた。
今回は大勢の人の魂。
還る道を間違えたり逸れたりしないよう精霊が魂をしっかりと導ける様にたくさんの精霊達を集める。
リーシャの上質な魔力は精霊にとってご馳走なのだ。
兄を、古代竜を送った時のようにリーシャが十分な魔力を込めた歌を歌う。精霊達がリーシャとケット・シーの目の前を舞いながら、村人達の手を取り導く。
還るべき空へと光の粒がキラキラと道を作る。
一人、また一人と精霊達に導かれ空へと消えてゆく。
そしてカティアの手がケット・シーからゆっくりと離れ精霊達がその手を繋いだ。
《キール、あなたと初めておしゃべりしたあの時間は今でもずっと私の宝物よ。幸せな時間をありがとう。あなたはもっともっと幸せになってね》
「っカティア!」
カティアは微笑んで空へと消えていった。
ケット・シーは二本の足で立ったまま暫くの間ずっとその空を見つめたまま動かなかった。
「……二本足で立ってる」
リーシャの心の声がもれた。
「今更にゃ!ってか今それ言うにゃ!?」
振り返ったケット・シーはもう泣いていなかった。
「すまぬ。つい気になったのでな」
「お姉さんは空気読めにゃい人にゃ!」
ケット・シーはわざとらしく怒ってみせる。
「ま、まあいいにゃ!姉さんは恩人にゃから!」
短い腕を組み視線を逸らすケット・シー。
リーシャはケット・シーの頭をわしゃわしゃと撫で回した。
ケット・シーは目を細めてされるがままになっていた。
「では行くとしようか」
「はいにゃ!」
ケット・シーはリーシャと共に行くと決めた。
リーシャは旅のお供が増える事に不都合も無いため快諾した。
二人は歩き始める。
一度だけケット・シーは立ち止まり、悲しい思い出の村を振り返った。
目尻に溜まった涙が零れる前に乱暴に拭って、先を歩くリーシャの隣まで二本足で小走りした。