1 最後のハイエルフ
不定期ですがのんびりと続けたいと思います。
樹齢八千年を数えた精霊樹の葉の最後の一枚が散る。
ひらひらと舞いながらその太い幹の根本で冷たくなった兄の上へと落ちた。
「おやすみ」
美しい少女は兄の頬をそっと撫でた。
兄の魂を送るため、美しい少女は歌う。
美しい旋律と込められた上質な魔力に精霊達が集まりはじめる。
精霊達は透明な羽根を生やした人型のものから鳥や猿、虎など様々な姿をしている。
色賑やかな精霊達は少女の歌に合わせて好き勝手に舞踊る。
可視化した濃度の高い魔力は淡い光の粒となって少女の兄と精霊樹の周りに漂う。
幻想的な光景は少女が両手を捧げるように天に向けると終局を迎えた。
少女の兄と精霊樹は淡い光に包まれ一体化し、光の粒となってゆっくりと空へと登っていった。
兄の魂を最後まで見送った少女はこのハイエルフの里に残された最後の一人アルティリーシャナンララ。
兄からはリーシャと呼ばれていた。
ハイエルフは長い寿命と高い魔力、見た目は絹糸のように滑らかで輝く金色の髪と宝石のような透明感のある紺碧の瞳、白磁のように白くきめ細やかな肌と美しく整った容姿を持つ太古の種族。
自然と精霊を愛し、争いを嫌い他種族との交流を避けて、龍脈が重なり魔力が溢れた深い森の奥で人目を欺く結界を作り精霊樹と共に暮らしてきた。
長寿故に滅多に子供は生まれないが、子が産まれると親は自分の精霊樹の種を子に渡す。
一本の精霊樹は一人のハイエルフの魂と深く結びついており、共に成長し共に死ぬ。
かつては100以上あった精霊樹は全て枯れ果て、最後の精霊樹はリーシャの手元にある拳よりふたまわりほど小さな種のみとなった。
かつて世界のどこよりも魔力が溢れたこの里の龍脈は長い時の中で少しずつ弱くなったためにリーシャの精霊樹を植える事が出来なかったためだ。
兄の精霊樹は無くなり、今なら種を植え育てることは出来る。
しかしリーシャは里で精霊樹を育てることを迷っていた。
それは100年くらい前にこの里に迷い込んだ男の言葉があったから。
その男は自分を『冒険者』だと言った。
聞き慣れぬそれは、世界中を旅しながら魔物を倒したり宝物を見つける者達の事だという。
生まれてから400年、このハイエルフの里から出た事の無かったリーシャ。
男が話す見た事も聴いた事も無い世界のこと。
魔物のと戦いやその土地でしか食べらない食べ物のこと。
ハイエルフの食事は一ヶ月に数度の精霊樹の葉と数種の薬草で作る薬湯のみだったので、特に男の話す甘い食べ物などは特に惹かれた。
リーシャは知らない単語が出る度に話を折って意味を訊ねれば、男は嫌な顔せず丁寧に教えてくれた。
リーシャはそんな世界を見る事などは決して叶わぬ夢物語だと、ハイエルフの里を出ることは出来ないのだと砂粒ほどの疑念も無く思い込んでいた。
「そんな決まりがあるのか?俺だったら逃げちゃうなぁ」
悪戯っぽく言うその言葉に深い意味は無かったのだろう。
しかし、リーシャには考えも及ばぬ衝撃的な言葉であった。
ハイエルフには里から出てはいけないという決まりは無い。
ただ、精霊樹を護ること。
それが唯一の掟であり、魂に刻まれた破る事の出来ない掟だった。
この里にハイエルフが留まっていたのは龍脈が交わり精霊樹に必要な魔力が溢れていたからに過ぎない。
それに今はもう里の龍脈の魔力は弱くなり、兄の精霊樹の分しか魔力が足りなくなってリーシャの精霊樹は未だに種のままだ。
リーシャの精霊樹の種には自分の魔力を注ぐだけで育てられないでいる。
ならばこの里ではないどこかで精霊樹を育てればよいのだ。
この里から逃げてもよいのだ。
何と魅惑的な提案だったろうか。
『冒険者』の男は里を出る時にリーシャを一緒にどうかと誘ってくれた。
リーシャはそれに応えることは出来なかった。
それは兄の精霊樹が力を失い始めていたから。
ハイエルフは精霊樹と魂が繋がっている。
ハイエルフは産まれた時に親の精霊樹が種を落とす。
その種に自分の魔力を与える事で精霊樹と魂とが繋がる契約となるのだ。
永遠とも言える長い時を生きるハイエルフでも寿命はある。
八千年以上の時を生きた兄の寿命はそう長くない事が分かっていた。
リーシャと兄は最後のハイエルフ。
リーシャはもうすぐ兄の魂を送らねばいけない。
その想いがリーシャの決意を踏み止めた。
「いつかわたしが最後のハイエルフとなったらお主に会いに行こう。
その時はお主が言っていた美味い食事を食べさせてくれるか」
「もちろんだよ、リーシャ」
そんな約束をしたリーシャは男の持つ短剣に精霊の祝福をあたえた。
男が無事家族や仲間の元へ帰れるように、と。
その短剣を目印にいつの日か会いに行く事を約束した。
男は己の死後もその短剣を家宝とし、子孫に伝える事を約束してくれた。
そうして男は里から旅立っていった。
人族の生命は短い。
60年程度だという。
リーシャが会いに行く頃にはもう死んでるかも知れない、と笑いながら別れた男の名前はアーサー・ストラヴァル・アストリア。
あの約束から100年。
恐らくアーサーの魂は旅立っているだろう。
それでもせめてその子孫に会いに行くことにした。
「シルフィ」
『はーい、呼んだー?』
わたしの周りを緑色の小さな少女の姿をした精霊がくるくると飛び回る。
「里を出る。力を貸しておくれ」
『わかったー』
リーシャが魔力を与えると風の精霊シルフィードがリーシャの体に風を纏わせた。
ふわりと体重が軽くなった。
リーシャは精霊樹の種を羊蜘蛛の糸で編んだ袋に入れ、口をしっかりと閉じた。
「アーサーの短剣は向こうか」
日の沈む方向に与えた精霊の祝福の気配を感じ取る。
その方向へリーシャは軽やかに踏み出した。
生まれ育った生い茂る木々をするりと躱しながら、見慣れた風景を通り過ぎる。
かつて両親や兄と過ごした大樹の家。
兄と遊んだ精霊の泉。
精霊樹とハイエルフの墓標。
そこに漂う契約者を失った精霊達。
森に住まう様々な動物達。
いつかまた帰ってくるだろう。
手を振り声を掛けるたくさんの精霊達にさよならを告げて森を駆け抜けた。