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92「別れ」

「お上手です。カインさま、すごく上達なされました」


 パチパチとメロディが手を打って褒めるたびにカインは気分が高揚して鼻腔が自然と膨らむのをわかっていても止められなかった。


 メロディの楽士としての才のほどは音楽的素養のないカインにとってはどの程度の位置にあるかはわからなかったが、男を乗せていい気分にさせることに関してはまずまずのものだった。


 数度しか講義を受けていなかったときは気に留める気にもならなかったメロディの言葉であったが、カインがいざ身を入れて、音楽を学ぼうと励めば彼女の真価は間違いなく発揮された。


 武芸師範のサムスンの歯の浮くような世事とは違い、メロディはどこまで本当かわからないほどにカインを持ち上げ、なおかつ、少なくない真実がそこにあった。


「そ、そうかな。ちょっといわれたようにやっただけだ。メロディは褒め過ぎじゃないかな」

「わたし、本当のことしかいいません。カインさまには音楽における天与の才があります」

「……マジで?」

「まじまじ、です」


 グッと瞳を覗き込んでくるメロディと向かい合っているとカインは妙な気分になってくる。

 カインは努めて平静を装って片眉を上げた。


「褒めてもなにも出ないぞ」

「でも、あれからカインさまは以前とは見違えるほどにわたしの講義だけは受けてくれるようになりましたね」

「そうか?」


「ほかの教科の先生たちからよく聞かれるんですよ。どうやってカインさまをそこまでやる気にさせることができるのかと」

「あはは、そりゃ嫌味だよ」

「……え、なぜでしょう?」


 ふたりが出会ってから三年の月日が流れていた。

 カインはメロディの音楽講義だけは皆勤賞に近かったが、ほかは軒並み手を抜いていた。


 ほかの教師たちがメロディを揶揄したのは彼女がこの三年ほどで見違えるような女性に成長していたからである。


 相も変わらずほっそりとした腰つきであるが、清廉な泉の精のような研ぎ澄まされた美貌はさらに洗練されていた。


 この容姿を持つメロディに付け文をする男性は、それこそ中年の貴族から庭木の手入れを手伝う小僧まで数え上げればキリがないほどになっていた。


「ともかくだ。私にはメロディとは違って音楽の才などないよ。真の才能とは克己と錬磨と研鑽によって生まれるものだ。私には歌舞音曲を才のある朋輩とせめぎ合わせて、一段高い場所に昇華させる能力はない」


 カインは腰かけていた椅子をギッと鳴らすと手にしていた楽譜と笛をテーブルに置いた。


「王都を離れるというお噂はまことなのですね」


 メロディは沈み切った声でひとりごとのように問うてきた。

 このときすでにカインは病に倒れた実父の代理として領地であるカルリエに向かうことが決まっていた。


「悪いな。父上からの命には逆らえない」


「カルリエは王都から相当に離れた化外の地であると聞いております。なぜ、まだ年少であるカインさまがゆかねばならないのですか」


 故郷を蛮地とあからさまに罵られれば誰でも怒って当然なのであるが、王都で生まれ育った生粋の淑女であり文化人だったメロディにはカインの生地を貶める気などまるでなく、あくまで身を案ずる心根から吐き出された一語であった。


 そこが都会人の限界であり、外の世界を知らない貴族の娘であるメロディにとってはカインはただただ気の毒すぎる運命を背負った貴公子にしか映っていなかった。


「あ、そうです! わたしがカインさまを王立音楽院に推薦します。権威ある作曲家の先生方が入学をお認めくださったのなら、カインさまはカルリエに赴かなくともよくなるかも……」


「そりゃマズいだろう」

「え……」


「メロディ。きみが私のことを案じてくれるのはうれしいが、無理に横車を押して道理を突き崩せば大きな瑕疵になる。私は自分の身よりもメロディの経歴が汚れるほうがずっと苦しい」


 メロディはカインの言葉を聞くと顔を覆ってその場に膝を突いた。

 どうしようもないことである。


 人生にはどれほど歯噛みしても巻き戻らない決定事項というものがあるのだ。


 ――けれどこの少女はカルリエを蛮地の中の蛮地だと思い込んでいる節がある。


 カインはメロディの手を取ると優しく立ち上がらせて椅子に座らせた。


 それから少なくともカルリエの領地はメロディの思い込んでいる魑魅魍魎が跋扈する完全なる化外の地でないことを懇々と説いた。


 だが、メロディの瞳は虚ろで、ただよく動くカインの舌をジッと眺めているに過ぎなかった。


「あの、今夜お時間はございますか」


 メロディは通常の講義時間以外に初めてカインを誘うことをした。貴族の屋敷である。メロディは通いの音楽教師であるがカインの屋敷に控室とは呼ぶには豪華すぎる自室を与えられていた。


 カインは特に考えもなく、


 ――別れの演奏会でも開いてくれるのだろう


 と思い込みメロディの招きにあっさりと応じていた。

 月夜の晩であった。

 貴族は平民に比べて宵っ張りが多い。


 費えを気にせず高級な油を惜しげもなく使って闇を昼間に替えて無意味に時間を過ごすのが、ある種、この族の習性でもあった。


 といってもメロディが指定した時間はかなり遅い。年少であるカインもある程度の夜更かしにはさほど口煩くはいわれなかったが、屋敷の家令はそれなりに常識を持った人間であった。


 警護の騎士を丸め込むのに時間がかかったのはカインがカルリエ行きを嫌がって脱出しないか実父のニコラが警戒心を強くして無意味な動きに目を光らせていたからだった。


 深更、しんと静まり返った部屋にいたのは、決意を秘めて透けるような夜着を纏ったメロディであった。


 いつもとは違い視線を床に這わせた彼女の表情だけは目蓋の裏に焼きついて、遠ざかったり薄れることはありえなかった。




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