90「追憶王都」
「カインよ。この方が今日からおまえに音楽を教えてくださる先生ですよ」
そういって母から紹介された師は、せいぜい十代前半にしか見えない実にほっそりとした腰を持つ小さな少女だった。
このときのカインは数えで七歳になったばかりの、まだ幼児を脱却してほどないあどけなさばかりの少年だった。
貴族には素養として学問や身を守る武芸を身に着けるが、音楽はそれほど力を入れないことがほとんどである。
その点で実母であるルイーズは進歩的であったといえた。
「はじめましてカインさま。わたしが今日からお仕えさせていただきますメロディです」
屋敷の一角であいさつをかわした際、彼女の第一声は見かけと違って芯に響く力を持っていた。
カインは特に音楽に対して強い興味や関心を持っていたわけではない。
それどころか、なんとか受ける講義を減らしてスローライフを楽しめないかと、常に必要最低限以上のことは手を抜いている最中だった。
――音楽など所詮は貴族階級における遊泳術のひとつにすぎない。
よって王都では楽士で名高く名門と呼ばれたカルリエ家の次期当主と目されていたカインから徹底的にサボタージュを受けたメロディは強烈な衝撃を受けることとなった。
「腹が痛い」
「今日は喉の調子が」
「日が悪いので」
「厩でブチ猫が仔を産んだから」
当初はカインの言葉を盲目的に信じていたメロディであったが、その後、すべてが逃げ口上の妄言であることを知ったことにより、追及は苛烈さを極めた。
「ああ、日本晴れ。爽快かな」
その日もカインが適当な理由をつけてメロディの音楽講義をサボって裏庭で昼寝を決め込んでいると顔のあたりに影が差した。
「カインさま。お探ししましたよ」
「げ……」
優しげなメロディの表情は笑みを形どっていたが目が笑っていなかった。
カインが即座に跳ね起きて逃げようとするとメロディは意外に素早い身のこなしでゆくてを遮ると、手にした楽譜を丸めてパンと平手で叩いた。
「カインさま、本日も腹痛だそうで。このように風が強い場所で寝転んでいるとお身体を冷やして余計に悪くしますわ」
「あ、うん、ええと……」
「カインさま、わたしたちがお会いしてからかれこれどのくらい経ちましたでしょうか」
「え、えーと」
まるで別れを拒む女が男に詰め寄るときにいいそうなセリフである。
「一三六日でございます」
「あ、ああ、もうそんなに経ったか」
「その間にわたしの講義は五十二回ありましたがカインさまは何度受けられましたか覚えております?」
「そうだな、体感的には皆勤賞みたいなっ。ハハッ」
マジウケるぜみたいな感じでカインが笑い飛ばそうとするとメロディはギッともの凄い鬼気を込めた眼力で睨みつけてきた。
「三回です」
「え? 三十回?」
「三回ですよ。どうやらカインさまはお耳があまりよくないご様子ですね。さ、ここに。メロディめが耳掃除をしてあげましょう。わたしの膝にどうぞ」
「いやいやいや。そのレンゲみたいなやつを耳に突っ込んだら絶命するよね」
メロディが芝生にお姉さん座りして自分の膝をぽむぽむと叩くがカインが彼女が手にした大きめのスプーンを目にして普通ならば「美少女に膝枕される」という好シチュを断った。
「なぜそのようにわたしの講義をさけるのですか」
メロディになぜと問われてもカインからしてみれば「有用ではない」のひとことに尽きた。
母と違ってカインは音楽というものに前世のときからほとんど興味がなく、社交場の嗜みならば適当に話を合わせるくらいの知恵は持ち合わせている。
「いや、さけているわけではない。私には必要のないものだから最低限の時間で学ぼうとしているだけだ」
「最低限とおっしゃられますが、三回だけでは真に必要かどうかもおわかりにはなられないのではないですか」
「別にメロディをさけて草地に寝転んでいるわけではない。ここには鳥の歌声、自然の音が満ち溢れている。人間の作る音などこれらに比べれば技巧が過ぎるのさ」
「そう申されれば人の紡ぐ音曲など矮小に思えるでしょうが、わたしの立つ瀬がありません」
そういうとメロディは長い裾を引きずるようにしてさらにカインへと近づくと、長く細い指で自分の喉を指し示した。
それから寝転がったままのカインを背にして歌い出した。
アカペラである。
電子的な配合をされた現代音楽を聴きなれたカインにとってメロディの声は驚くべき声量であった。
常人とは声の出し方の基本が違うのだ。
異能――。
もはやそう評して問題がないほどメロディの歌声は美しかった。
はじめはカインに聴かせるためだけに歌っていたはずであるが、玲瓏なメロディの立ち姿は音楽を心から愉しんでいるものである。
聞きなれないアップテンポの曲調と独特の詩にカインはしばし呼吸をするのも忘れて聞き惚れていた。
ラストのパートを情感を込めて歌い切ったメロディはその面を上気させながらどうだとばかりにカインへと向き直った。
この瞬間、カインはメロディに対する評価を一変させ、ふたりの関係が真の意味ではじまったのであった。