89「変身能力」
「さて、と。お遊びもいいが、仕事も頑張らねばな。カルリエが滅びてしまう」
気分転換の散策を終えたカインは執務室に戻ると気合を入れ直した。
「と、そのまえに、おまえとゴロゴロだー」
カインはパープルスライムを抱きかかえながらベッドにダイブするとキャッキャッとはしゃいだ声を上げた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。うっわ、なにそれ、キモ!」
「うわっ!」
不意にベッドの下から顔を出したリースが引き攣った表情で悲鳴を上げた。
脊髄反射で飛び上がったカインはパープルスライムを抱っこしたままベッドから飛び降りる。
「なにをなさっているのですかカインさま。わたしというものがありながら、そのような下等軟体生物にうつつを抜かすとは……」
「目をお覚ましになってくださいっ」
リースとライエの姉妹はうるうると目に涙を浮かべそろってハンカチの端をガジガジと噛んでいる。
「いきなり不法侵入してなにをいってるんだおまえらは」
「別によきなのですよ。この寵愛第一のリースはすべてが許されるのです」
「お願いだからよそでそれをいわないでくれな」
「なぜに……?」
リースは白昼に竜が蛇行しているのを目撃したかのように両眼を見開いた。
無論、誤解を招くからである。
「冗談はともかくとして、わたしたち姉妹はカインさまの御身を守るために日夜異常がないか近辺の警護と索敵を自主的に行っていただけですよ」
「クローゼットよしです!」
ライエがばたんとクローゼットを勢いよく閉めるが、彼女の手にしっかりと男物のシャツが抱えられているのを見てカインは一瞬気が遠くなった。
「ちなみにライエさんはそのシャツをどうするつもりなんだ」
「決まっているじゃありませんか」
それだけいうとライエは幸せそうに微笑んだ。
――続きをいえよ。
「とにかくですね。カインさまはそのスライムと戯れる暇がおありでしたらわたしたちをもっとかわいがるべきなんですよ」
「姉さまが正しいとライエも思います」
「別に戯れてなどいないぞ」
「嘘です。先ほど脂下がったお顔でスライムをベッドの上に引き込んで……あ、もしかして、ちっともわたしたちに手を出さないというのは、そっちの趣味があるからとか? いやっ」
「なにを勘違いしているかはわからないが、私にそういった異常性癖はこれっぱかりも存在しないから安心しろ」
「でも、そんなことおっしゃられて。実はスライムちゃんと魅惑の戯れをお楽しみになるんでしょう? わたしたち姉妹がいたほうがなにかとはかどりますわよ?」
「はいはいはい、出た出た。仕事のジャマジャマ」
「ああん、そんなご無体な」
カインはリースとライエを並べて力士がやるような見事な突っ張りで部屋から瞬く間に追い出した。
「相も変わらずわけのわからないことばかり」
フーッとため息を吐いていると、机の上にいたスライムに肩をポンポンと優しく叩かれた。
「なんだ、慰めてくれてるのか?」
目鼻のない不定形な生き物であるが眺めていると、奇妙なほどに心が落ち着くことにカインは気づき自然と肩の力が抜けた。
「そんじゃ、やるかね」
ぐるぐると肩を回しながら書類の束に向かう。
執務室にはいつものとおりカインが紙束をめくる音とペン先をすべらす音だけが規則正しく響きだした。
「んんが……?」
事務仕事をはじめてどれほどの時間が経過したのだろうか。
気づけばカインは机に突っ伏してまどろんでいた。
窓の外は暗く、光が差さないことからまだ夜中らしい。
文字や数字を片っ端から頭にぶち込んでから寝落ちは、たいがい頭痛を伴うのだが顔を上げたカインの頭の中はやけにすっきりしていた。
(なんでだろーか。まるで高原の避暑地で十二時間くらいたっぷりと睡眠を取ったあとの爽快な気分のような。頭ン中の澱が残らず掻き出されたようなスッキリ感だ)
ふと気づくと視界の端に薄紫の物体がうにょんうにょんとうねっている。
カインがゆっくりと手を上げてパープルスライムを掴むと、ズズッと頭の中をなにかがのたうち回るような感触を覚え
「あハンッ」と思わず女のような声を上げてしまう。
間違いない。
カインは耳の穴から頭の中にパープルスライムの侵入を許してしまっていたのだ。
声にならない声を上げようとして思い止まり、カインはパープルスライムを即座に頭の中から引っ張り出した。
「お、おまえな……! 恩を仇で返す気か?」
一喝すると、机の上に引っ張り出されたパープルスライムは抗弁するように身体をくねらせたが、転がっていた羽根ペンを触手で掴み取ると、紙片にさらさらと流暢なロムレス語で文章を書き出した。
――あるじさま。わたしはあなたを害するつもりは微塵もございません。まことに勝手ながら散らかり気味のあるじさまのおつむりの中を軽く掃除させていただいたのです。
「ええ、マジか……」
カインは椅子を揺らしながらその場に立ち上がるが、脳内に侵入されたというのに不調などは見当たらず、むしろ朝方よりも頭がスッキリしており気力も充実していた。
「そういえば、スライムの個体の中でも飛び抜けて優秀なのは人語や魔術を操り人類には不可知なスキルを有すると書物で読んだことがある。スラ太郎、おまえにはまさかそんな能力があるとでもいうのか?」
――はい。わたしはお掃除のほかにもこんなことができますよ。
勝手に命名されたパープルスライムのスラ太郎は机の上からぴょんと飛び降りると、床の上でたちまちメイドのリースに変化した。
「うっわ、すごいな。語彙が貧弱で申し訳ないんだが、ひたすらすごい」
リースに変化したスラ太郎は微笑みを湛えたまま小首をかしげて「どう?」とカインの瞳を覗き込んでくる。
「ううむ、本物よりもチャーミングかもしれない。ぴーちくぱーちく喋らないからより一層かわいらしく思える」
――こんなこともできますよ。
スラ太郎はさらさらと紙片に記すと再び変化を行った。
「うわっ、父上?」
リースの次に変化したのはカインの父であるニコラであった。
でっぷりとしたふくよかな身体は色艶がよく、思わずカインが後ずさるほどそっくりであった。
「お、今度は母上か」
次に変化したのはカインの母のルイーズである。
四十代とは思えないほどの不自然な美貌も完全に再現されており、カインは無意識のうちに右目の下をゴシゴシこすっていた。
「けど、リースはともかくどうやって会ったことのない私の両親そっくりに化けられるんだ?」
――あるじさまの記憶を読み取らせていただきましたので。
「なるほど。スラ太郎は相当に個性的なスキルを持ってるんだな」
カインは腕組みをしながらスラ太郎の完璧すぎる変化に目を見張っていた。
久方ぶりに見る母そのものを仔細に眺めているとスラ太郎はどこか切なげな表情で眉間にシワを寄せると腹のあたりを抱えてしゃがみ込んだ。
「なんだ。おまえ、腹減ってるのか」
ドレスを纏った貴婦人が膝小僧を抱えたまま涙目で幼児のようにコクコクうなずくのはいささか滑稽であったが、意図はカインに伝わった。
「そうだな。この部屋に食べものなんて、あ、この残ってるクッキーでいいか?」
ルイーズに化けたスラ太郎は座ったままあんぐりと口を開けた。
投げ入れろということなのだろうか。
実母そっくりの婦人に対してペットに餌をやるような行為は気が引けたがカインはパクパク口を開くスラ太郎を憐れに思い手にしたクッキーを投げた。
「あ、やべ……」
緊張したせいか手元が狂って投げたクッキーはスラ太郎の頭のあたりに飛んでいった。
ぶつかって床に落ちると思われたクッキーは池に石を投げ込むがごとく、ずぶずぶと沈むと溶けてなくなった。
「うーん、さすがスライムだ。身体に触れれば食べることができるのか。便利な身体だな。そんじゃあ、続けていくぞ」
カインが皿に残ったクッキーを片っ端から放るとスラ太郎は立ち上がって全身でそれを残らず受け止めた。
「けぷ。あるじさま、ごちそうさまでした」
貴婦人の姿をしたスラ太郎はかわいらしくげっぷをすると舌なめずりしながら目を細めた。
「喋れるのか?」
これにはさすがのカインも驚愕して数歩距離を取った。
「おなかがいっぱいになったので」
スラ太郎は右腕に力こぶを作る動作をして満ち足りた気分を表現していた。
「声も母上そっくりだな。驚きだよ。な、なあ、ほかにも変身できるのか?」
「ご命令とあらば、なんにでも」
そういうとスラ太郎は、犬、猫、スリッパ、花瓶など不定形な身体をうにょんとくねらせながら次々に変化を行った。
花瓶になったスラ太郎を手に取ってジックリと眺める。
くすみのないホワイトは部屋に置いてある本物よりも美しく見えた。
「てか、表面はじんわりあったかいんだな。手触りは陶器ではなくて、生きもののそれだ」
花瓶はドロッととろけてスライムである基本形に戻りカインの足元に落下した。
「さあ、次はなにに化けてみせましょう」
「そうだな……」
カインが口ごもるとスラ太郎は即座に変化を開始した。
スラ太郎はカインの心の奥底に眠る想念を自動的に読み取ったかのように、あるひとりの人物に変化した。
背丈は小柄である。少年であるカインよりも拳ひとつ分くらい大きい程度だ。年齢は十代半ばと程度であったが、上等な絹の服を身に着けており見るからに上流階級の少女であった。
「メロディ……」
カインはいつになく強張った表情で目の前の少女の名を呼んだ。
「お久しぶりでございますね、カインさま」
ふんわりとやわらかく微笑んだ少女はカインが王都時代に音楽を習っていた講師であった。
強烈なざわめきとほてりがカインの胸の内に生まれた。
カインは指先を震わせながらその場に立ち尽くし、心はいつしかメロディと過ごした日々を思い出していた。