84「天与の刻」
台車から焼き菓子を取ってカインに給仕するため、わざと自分の身体が当たるように寄せた。
すなわちソファに座るカインの顔にわざと自分の胸が接触するような動きを取ったのだ。
無論、横合いから主人の顔に触れるまで身体を寄せるなど、無礼極まりない行為であるがリンダは自分を意識づけるために敢えてそれを行った。
リンダは目的のためには手段を選ばない。
事実、仲間内で男性に対していかにも「ワタクシ手慣れておりますので」というように振舞っている彼女だったが、当然のように年頃の男性とはロクに口を利いたこともなかった。
屋敷に献上されてからは無菌室で培養されるように清らかで、ある意味修道院以上に男性から隔離されて生活していたので、いくらカインが将来の旦那さまであっても、このアタックは相当に度胸が必要だった。
そっと身体を離すとカインは顔をやや赤くしてうつむいている。
(お、お、お? 効果は抜群だ! それにしてもカインさま、かわいいなー)
「あの、どうかなされましたかカインさま。アタシが用意した菓子はお気に召しませんでした?」
それなりに武器である胸を強調するようにリンダは自分の腕で抱え上げる。
こうするとふっくらした胸がカインの目線にくるのだ。
「そ、そんなことはない。いや、ちょうど小腹が空いていたんだ。ありがとう」
どこか申し訳なさそうにするカインを目にしてリンダはふるふると身体を揺らした。
「いえいえ、お気になさらずー」
(ヤバい。かわいい。かわいいは正義。すこすぎる。ちゅきちゅきちゅき、カインさま、ちゅきぃ。いますぐめっちゃ食べてしまいたい)
脳がピンク色に染まり理性が崩壊しそうになるリンダ。
本能的に危機を感じ取ったのかカインがソファから腰を浮かせて遠ざかった。
「な、なにか?」
「いや、いま、身の危険を感じたような……」
「それは気のせいです」
リンダは表情を消してその場を取り繕った。
(とりあえず、いまは邪念を捨てよう)
ジャブが成功したようで、それなりにうれしいリンダであった。
「悪い、少し席をはずす」
それだけいうとカインは部屋から出ていった。
「しめしめ、じゃなかった。これは天与の刻ね」
リンダはカインの姿がなくなると同時に口角を上げた。
「さあ、滅多とない機会ですよ。ご主人さまの家探し家探しー」
くるくると踊りながらリンダはカインの執務室を回転しつつ移動する。
「んはー。それにしても、すごい調度品ね。アタシら庶民にゃまともな方法じゃ絶対手に入らないよう」
ぐるりと室内の家具などに視線を巡らせながらリンダは嘆息した。
メイドたちの居住する部屋も領内の平均レベルからすれば相当に質は高いのだが、農民階級に生まれたリンダの生家からすれば、天と地ほど違う。
――これが、これ以上の物がそのうちアタシの物に。
正しく不遜である。
だが、愛妾と成れば、領内の景気からいえば財産を蕩尽とまではいかないだろうが、リンダの人生は上がったようなものである。
「この人生すごろく、絶対にものにしちゃるもんね」
先ほどの身を挺したアピールは確実に主人であるカインに効果を発揮していた。
「出足は上々。さ、カインさまの趣味嗜好がわかるものはないかにゃー」
フンフンとハミングしながらリンダがスカートの裾をふりふりさせてキョロキョロしていると、ソファの上に投げ出されている本が目に入った。
この世界の書物は、以前に比べればかなり値が下がったが、それ自体が貴重品である。
「ううん。さすがにカインさま。お仕事の合間にも学問に余念がないとは。さんざん家庭教師を悩ませたリンダめにはわかりかねる境地です」
豪農の両親を持つリンダも屋敷に召し出されるまで家庭教師をつけられて最低限の素養を身につけるために学問を習わされたが、あまりに脱走を繰り返すので担当にサジを投げつくされた猛者だった。
「て、わけで本はスルー」
手をひらひらさせながら文字から遠ざかろうとする彼女の視界に秘本のある文字が横切った。
「これは……!」
リンダの瞳がきらりんと星のように瞬き、その瞬間、脳裏にひとつの考えが形を成した。
――怪しい。
アイリーンは同僚であるリンダが幾度となく実家から使いを招いてなにかを受け取っているのを目にし、感覚的にそう思った。
「ありがとう。これはお駄賃よ」
リンダの手からロムレス銀貨がちゃりんと音を立てて景気よく家僕に渡ったのを見て、アイリーンは意を決して話しかけた。
「ねえ、リンダ。いつもなにを持ってきてももらってるの?」
「ぎくぎくっ」
「あ、ごめん。見たらまずかったかしら」
リンダは額に冷や汗を浮き上がらせながら、油の切れた道具のような動きでその場を立ち去ろうとした。
「ちょっと待ってよ。無視はひどくない?」
「え、えっとと、そ、そうね。無視はよくないわよね。でもね、アイリーン。これはプライバシーにかかわることだからっ。人間的尊厳にかかわってくることだからっ」
「なにをそんなに焦ってるの?」
「あ、あああ、焦ってないわよ」
「すっごく焦ってるじゃない。あ、待てー!」
アイリーンが近づいた途端、リンダは艶のある金髪をなびかせながら、廊下をひた走って瞬く間に見えなくなった。
「く、お、追いつけない。身体を動かすの、自信があったのに」
次に会ったら必ず問い詰めてやろうとアイリーンは心に強く思い、拳をキュッと握った。
「あー、危なかった。まさか、最後の詰めでアイリーンに見つかりそうになっちゃうだなんて。これって、カミサマがやめろって警告してるの? ……いいえ、やめませーん」
数刻後、空き部屋で手に入った材料をすり潰して調合したリンダはくつくつと笑いながら、抜き足差し足で厨房に向かった。
視線を動かすとジャスティンが明るく鼻歌まじりに茶器を台車に載せて、今しもカインの居る部屋に運ぼうと準備をしている。
「あ、ジャスティンジャスティン。やほー」
「どうしたのリンダ」
「あのねあのねあのねのね。実はカインさまがお茶の用意はいいから、ちょっと話したいことがあるんで、裏庭のトネリコの樹の下で待ってるって」
「え……」
一瞬、ジャスティンが表情を曇らす。彼女は、先日、カインが刺客に襲われた際に少なからずほかのメイドのよりもかかわっていた部分があるので悪い方向に考えたのだ。
「違うよ違うよ、まったく違うから。ジャスティンが思ってるようなバッドな方向のお話じゃないと思うよ、あの雰囲気は。うーん、えーと」
敢えて悔しそうな表情でリンダは小芝居を打った。
「悔しいけど、なんか、カインさまはあなたに大切なことを話そうとされているみたいだったわ。ん、なんか、カインさま緊張の中にもウキウキ感が感じられたし。本当はこんなの、伝えてもらう側になりたかったわ」
「ホントに? あ、ごめん、リンダ……」
(ヤバいマジウケるんですけど)
ジャスティンはパッと頬を赤らめると、ほぼ同時にリンダよりも自分が確実に一歩前進していると思い込んで気の毒そうな表情になる。
対するリンダは素直なジャスティンのピュアさ加減に腹の中でぺろっと舌を出していた。
「行ったか……」
廊下に茶器一式を乗せた台車を放り出してジャスティンが小走りに駆けてゆくのを見送り、リンダは作戦を実行に移した。
「っていっても、お茶をジャスティンの代わりに運ぶだけだけどね」
本日のお茶の給仕は、またしてもというよりかは担当のくじ引きになにか仕込んでいるとしか思えないほどの確率であたりを引き当てたジャスティンであった。
だが、そのラッキーガールもリンダの偽情報に踊らされて今はいない。
「やば、なんか緊張してきた」
部屋の前では警護の騎士が厳めしそうな顔で立っていた。
「今日の給仕はジャスティンと聞いているが?」
「代わりました」
リンダは上目遣いで三十前くらいの騎士をジッと見つめた。彼女は自分の容姿のレベルを知っており、またそれを有効に使える人間であった。
「そうか、ならば、いいか」
(やりいっ)
「カインさま、お茶をお持ちいたしました」
「んー、そこに置いておいてくれ」
執務室では羽根ペンを手に、堆く積み上がった報告書と格闘しているカインの姿が見えた。
扉は閉められており、よほどの音を出さない限り騎士たちは無粋に開けたりはしない。
(さらさらさらりのさらりんこ)
リンダはカインが顔を上げないうちに、紙に包んだ粉薬を投入した。
一服盛った紅茶はあたたかい内に飲んでいただきたいものである。
「カインさま、あたたかいお茶ですよ。リンダめがカインさまのことを想って心から淹れましたの。お熱いうちにどうぞ」
「わーかったから! 耳元で囁くな」
「あ、ちょっとお熱いですかね。冷ましますね。ふーっ、ふーっ」
「耳元に息を吹きかけるな。わかった、休憩にするから勘弁してくれ」
「やったぜ」
「なんかいったか?」
「いいえ、存じません」
リンダはカインの薄い唇がティーカップの縁に触れ、まだ青白い少女のような喉が動いて茶を嚥下するのを、目を皿のようにして凝視した。




